第11話 本音の衝突
『婚約は、解消していただいても構いません』
その言葉が、まだ空気の中に残っている。
静まり返った室内。
時間が、止まったようだった。
「……は」
アルベルトの口から、かすれた音が漏れる。
笑ったようにも聞こえた。
けれど、その目は——笑っていなかった。
「……構わない?」
ゆっくりと、繰り返す。
低く。
押し殺した声で。
「お前が、決めることかよ」
一歩、近づく。
アリアナは、思わず息を呑んだ。
「……これは、私の意思で——」
「ふざけるな」
強く、遮られる。
びくりと、肩が揺れる。
こんな声音を、聞いたことがなかった。
「何が意思だ」
さらに距離が詰まる。
逃げ場がない。
「勝手に全部決めて、勝手に終わらせて」
怒りが、滲んでいる。
「それで納得すると思ってるのか」
「……殿下」
声が、震える。
どうして。
そんなに怒っているのか、分からない。
「私は、殿下のためを思って——」
「それが気に食わないって言ってんだろうが!!」
——空気が、震えた。
張り詰めていた何かが、一気に弾ける。
アリアナの思考が、止まる。
「……え」
理解が、追いつかない。
「俺のため?」
アルベルトが、吐き捨てるように言う。
「ふざけるなよ」
その目は、まっすぐにアリアナを射抜いていた。
「お前は一度でも、俺の気持ちを聞いたことがあるのか」
「……っ」
言葉に詰まる。
そんなもの——
考えたことも、なかった。
「勝手に“相応しくない”だの、“迷惑”だの決めつけて」
一歩、さらに近づく。
「全部お前の中の話だろうが」
何も、言えない。
否定できない。
「俺が、いつお前をいらないって言った」
「……それは」
「言ったか?」
畳みかけられる。
逃げられない。
「……いいえ」
かろうじて、答える。
「なら何でそうなる」
分からない。
本当に。
「私は……」
言葉を探す。
けれど。
見つからない。
「完璧だからか?」
唐突に、言われる。
「え……?」
「お前は、完璧でいようとする」
苦々しく、吐き出す。
「正しくて、間違えなくて、隙がなくて」
その通りだった。
何も言えない。
「……怖いんだよ」
ぽつりと、落ちる。
その言葉に、息が止まる。
「え……」
聞き間違いかと思った。
「怖い?」
「ああ」
アルベルトは、視線を逸らさなかった。
「お前が、完璧すぎて」
拳が、ぎゅっと握られている。
「俺じゃ釣り合わないって、思う」
——何を、言っているの?
理解が、追いつかない。
「だから」
声が、少しだけ低くなる。
「せめて、上に立ちたくなる」
「……上?」
「お前より上だって、思わないと」
苦笑が漏れる。
「隣にいられない」
その言葉は。
あまりにも、歪で。
あまりにも、正直だった。
「……っ」
胸が、強く打つ。
知らなかった。
そんなこと。
一度も。
「……でも」
アルベルトの声が、さらに低くなる。
「一番怖いのは、そこじゃない」
「……え」
「取られる気がするんだよ」
その一言で。
空気が、変わった。
「兄上に」
はっきりと、言い切られる。
「……っ」
息が、止まる。
「優しくて、完璧で、何でもできるあの人に」
自嘲気味に笑う。
「俺なんかより、よっぽどお前に相応しい」
違う。
そんなこと、ない。
そう言いたいのに。
声が出ない。
「だから」
一歩、さらに近づく。
もう、目の前だった。
「余計に、腹が立つ」
視線が、絡む。
逃げられない。
「お前が、あの人の前で笑ってるの見ると」
心臓が、うるさい。
「……っ」
「俺の前じゃ、あんな顔しないくせに」
苦しそうに、吐き出される。
その顔は。
怒っているのに。
どこか、泣きそうで。
「……殿下」
思わず、名前を呼ぶ。
何かを言わなければと思うのに。
言葉が、出てこない。
「……分かってないだろ」
低く、言われる。
「どれだけ」
一瞬、言葉が詰まる。
そして。
「どれだけ好きだと思ってるか知らないくせに」
——時間が、止まった。
「……え」
思考が、完全に止まる。
今、何を言ったのか。
理解が、できない。
「……好き、ですか」
かろうじて、言葉にする。
信じられないものを、確認するように。
「ああ」
迷いなく、肯定される。
「好きだ」
はっきりと。
逃げずに。
「ずっと前から」
胸が、強く打つ。
「なのに」
苦々しく、笑う。
「お前は、何も知らないまま勝手に離れようとする」
視線が、ぶつかる。
真っ直ぐで。
逃げ場がない。
「……ふざけるなよ」
最後の一言は。
怒りでも。
皮肉でもなく。
ただの、本音だった。




