衝撃的な出会いは四頭立ての馬車が運ぶ
まだら模様の帽子を被った黒い驢馬が緋色の敷物に寝そべっている。驢馬が枕にしているのは道化師の杖だ。
それとは別に握りに翼を持つ白い狼の杖が驢馬の前に立っている。
翼は地を走る狼にとって不要のものであるため、矛盾を象徴している。
加えて驢馬を捕食する狼が驢馬を守っているのも矛盾を表しているのだと、向かいのシートに悠然と座る夜色の髪の妖精ことアルヴィン・インパルシヴ・ハーリクィンにリミナルは教えてもらった。
黒い驢馬とそれを守る白い狼の杖が描かれた紋章はハーリクィン家のものだ。
リミナルはちょうど一週間前にこの矛盾を孕んだ紋章を掲げる馬車に轢かれたばかりだ。
当時、激しい衝撃と痛みが全身を駆け巡ったのを覚えている。
しばらくは多数の打撲と打ち身で起き上がることも侭ならなかったし、熱を出したりした。
だが、それだけだった。
制御を失った四頭立ての馬車に突っ込まれたにも関わらず骨が折れることもなく、ましてや死んだりもしなかった。さすがに気を失いはしたものの、自身の惨状を聞くに「俺って存外頑丈にできてたんだな」とどうでもよい感慨が浮かんだ。
三日ほど休みを余儀なくされたが、不幸な事故から四日目の朝にはリミナルは戦線へと復帰した。即ち職場である。
リミナルはいたって平凡な一村人だ。
生まれ育ったモッキュ村は大国と評されるカルテノの領土ではあるが、それがどうしたと言わんばかりのささやかな集落でしかない。ここ数年は若者達が王都や近場の町なんかに職を求めて出て行ってしまうから着実に人口を減らしている。
いつか消えてなくなるとしても、せめて自分が死ぬまではもってほしいというのがリミナルの密かな願いだ。
それはそれとして今はまだモッキュ村は存在しているし、リミナルはここで生計を立てている。そして、休むということはそれだけ生活費が減少するということに他ならない。
親切にも看病に来てくれていた近所のおばちゃんに聞いたところ、件の四頭立ての馬車はリミナルを轢いてからも足を止めることなく疾風のように村のささやかな通りを駆け抜けていったらしい。どこから来てどこへ行くのかを確かめる暇もなかったとのことだ。当然、馬車の持ち主もわからない。
(轢き逃げかよ!)
ゴワゴワの布団の中で熱と痛みに耐えながらリミナルは奥歯を噛み締めた。
休んでいる分の給金は出ないし、おまけに傷薬の費用がかかる。爪に火を灯すような暮らしこそしていないが、余裕があるかと問われれば否である。
だからリミナルは働かなければならない。体が痛かろうが熱っぽかろうが休んでいる場合ではないのだ。
(それにメガネも何とかしないと……)
朝の光と共に宿屋のドアから入り込んだリミナルに、おかみさんが「ひぃっ」と小さな悲鳴を上げた。少ししてそれがリミナルだとわかると大きく息を吐いた。
大丈夫なのかとか、もっと休んだ方がいいと強い口調で訴えてきたのはひとえにその見た目が故である。
黒髪こそ手櫛でどうにか整えていたものの、体のあちこちに未だ傷や痣が残る。右頬の擦り傷だって血こそ流れていなかったが、まだまだ新鮮ですよと言わんばかりに赤い。誰がどう見ても復帰は時期尚早だった。
それでもリミナルは「大丈夫です」と言葉短く返し、自身の持ち場へと向かう。
宿屋の一階、入口にほど近い受付を通り過ぎてちょっぴり暗い端っこの方にカウンターがある。子供が両手を広げて余るくらいに小さなカウンターだ。
カウンターの下は戸棚になっていて、そこにギルドの冒険者向けアイテムがしまわれていた。
このアイテム販売がリミナルの主な仕事だ。ギルドから業務委託を請け負っている。
とはいっても売れ行きは非常によろしくない。
その原因として最初に挙げられるのが品揃えの悪さだ。初級ポーションと毒消しの薬草が定番のラインナップで、ごくごくまれに麻痺を緩和する薬草が混じる。以上だ。
いやいや、ポーションならそれなりに需要があるだろう、などと思うなかれ。
このモッキュ村は王都とそこそこ大きな町のマフゼオのちょうど中間にある。どちらも馬車なら三時間ほど、人の足でも頑張れば半日ちょっとで着く。
つまりマフゼオ方面から王都に向かうのであればマフゼオでしっかり準備を整えておけばいいし、王都からマフゼオ方面に向かう場合も然りである。品揃えだって勝負にならないのだから。
モッキュ村でアイテムを購入するのは準備不足の粗忽者か、想定外の何かがあった冒険者くらいだろう。
そんな感じなのでリミナルが正規の仕事として請け負っているアイテム販売より、宿屋の食堂で注文取りやら配膳やら皿洗いをした回数の方が圧倒的に多かった。もはやどちらが副業かわからない有様である。
案の定、休んでいた三日間にアイテムを買いに来た客は皆無だったとおかみさんは告げた。
それならばいつもどおり昼頃からは食堂を手伝うと申し出たところ、強い口調で断られた。リミナルは目を丸くする。
なんせ、ここの食堂は村の稼ぎ頭だ。というか通りかかる冒険者の半分は腹ごしらえのためにこの村に立ち寄るし、あとの半分は素通りである。
この村の命運はこの宿屋の食堂にかかっているといっても過言ではない。
日によっては満席どころか空席を待つ人が出ることもあるし、素朴ながら待ち時間を後悔させないだけの味を提供している。
宿屋の主人は厨房にかかりきりだし、だからこそおかみさん一人で押し寄せる客を捌くのは容易ではないとこれまでの経験からもリミナルは察していた。
いやでも、と食い下がる青年に、眉を八の字にしたおかみさんが溜息をこぼす。
「だって、あんた、メガネがないだろう?」
それは聞き分けのない子供に言い聞かせるみたいな口調だった。
カウンターの向こうでリミナルが視線を彷徨わせる。悪戯が見つかってどう言い訳をしようか考える子供のような表情をしていた。
「いや、でも、テーブルとかはなんとなく見えるし……。物がある場所も覚えてるし」
しどろもどろに答えるものの、視界がぼやけている事実は揺るがない。
正直なところ、メガネなしでは腕を前に伸ばした先ですら不鮮明だ。大まかな輪郭や色合いはわかるが、ちゃんと見えている状態にはほど遠いかった。
(ケガしたことよりも、メガネが壊れたのが一番痛い……!)
リミナルにとってメガネは命と同じくらい生きていくのに重要にも関わらず、此度の事故で再起不能となった。
新調するにも購入資金が必要だし、どうやって調達するかという問題が重く圧し掛かっている。
これまで使っていたメガネは両親が生きていた時に買ってくれたものだ。食事休憩で村に立ち寄った王都の商人が流行遅れで在庫処分だと安く譲ってくれた。
年々度が合わなくなってきていたが、それでもあるのとないのでは雲泥の差である。
メガネを扱っている商人に会ったのは後にも先にもその一度きり。本気で購入を考えるなら王都まで行く必要があるだろう。となると資金も時間も必要だった。
だからこそ、働けるだけ働きたいのだがおかみさんはぴしゃりと言う。
「物の位置を覚えたところで、客が見えないんだからさ」
おまけに客は動く。席に向かいながら「とりあえずエール」なんて言われたり、ちょっと目を離した隙に席を移動してたりなんて珍しくない。これまで人相や装備で配膳先を認識していたリミナルにとって、ぼんやりとした視界で同じことをこなすのは考えるまでもなく困難だった。
反論の余地を失ったリミナルはすごすごとカウンターの向こうへ引っ込んだ。
収入の大半を占める食堂のお手伝いが難しいとなると新たな働き口を探さねばならない。
(視界不良でもできる仕事なんてあるか?)
ギルドから委託されているアイテム販売がまさにうってつけなのだが、収入としてはいかにも心許なかった。なんせ売れないのだ。
そもそも売れてるなら新たな働き口に頭を悩ませる必要がなかった。
昼が近くなり食堂は賑わいを見せる。
それを横目で眺めながらリミナルの脳内では村での仕事が思い浮かんでは消えていく。あれもだめ、これもだめ──
食堂の混雑がひと段落して、ぽつぽつと空いているテーブルができてきた頃である。
昼過ぎの強い陽射しが入口から入り込んできて、リミナルは思わず目を細めた。
開かれたドアには二つのシルエットが見えた。一つは低くくて、一つは高い。
輪郭は依然としてぼやけていたが、その縁取りに柔らかさを感じる。入ってきた二人組が身に着けているのはいわゆる冒険者の装備ではなく、スーツではないかとリミナルは考えた。
珍しい毛色の客だ、と思った。
この宿に立ち寄るのは大抵食事目当てだが、客層は冒険者か商人がほとんどでシルエットでも身なりの良さが感じられるイイトコの人間は皆無だった。
ふと、周囲が静まり返っていることにリミナルは気づいた。食堂の方からもこの場違いな新来の客が見えたのだろう。
(何食うんだろうな?)
場違いだろうがなんだろうが他の客と同じく食事に立ち寄ったと思い込んでいたのだが、二つのシルエットは受付を通り過ぎて食堂の入口の前に差し掛かってもそちらへ入る気配がない。
壁を刳り抜いただけの入口を一顧だにせず、真っ直ぐちょっぴり暗い隅っこの方へ近づいてくる。
何事かと思うよりも先に二つのシルエットはカウンターの前で停止した。
「やあやあ、先日は悪いことをしたね!」
低い方のシルエットから第一声が放たれた。実に陽気な若い男の声だった。
「君がリミナル君だね。我が家の馬車が君を強襲したと聞いた時は飛び上がらんばかりに驚いたよ! 全くもって申し訳ないことをした。死ななかったとはいえ、随分と痛い思いをしただろう? まずは見舞いにと馳せ参じたわけだが、まさか仕事に復帰しているなんてね。まだ事故から四日しか経っていないというのに。まったくもって驚くべきことだよ、これは! 僕だったら、あと一週間、いや、一か月はだらだらと寝て過ごすだろう。それはさておき、無理をしているんじゃないかい? 余計なお世話かもしれないけど、元はといえば我が家の馬車に原因がある。そこで謝罪を兼ねて君の様子を見に来たんだけど、うんうん、思ったより元気そうでよかった!」
恐ろしいことに低いシルエットの主は「君が」から「よかった」までを淀みなく言い放った。驚異的な滑舌である。
「ああ、そうだ! 言い忘れるところだった。我が家の馬車がもたらした怪我によって、君が被った損害について──」
まだ喋るんだ……とリミナルが呆気に取られていた時だ。
「アルヴィン」
静かな声が陽気に弾む言葉を遮る。
それは普段はどこか奥底で深い眠りについている良心なるものを揺さぶる響きを湛えていた。もしくは忘れようとしていた後ろめたさを思い出させるものだ。
反射的に背筋を伸ばしたリミナルは、視線の先でアルヴィンと呼ばれた低いシルエットもまたピンと伸びたのを見て取った。
二人揃って厳かな声の主を見上げたのは偶然だ。
その男はアルヴィンの横に立っていた。遠くからでも高く見えたシルエットは目の前に至って迫力も感じさせる。
顔はぼんやりとしてよくわからない。ただ、その頭を覆う髪が白っぽく輝いているのはわかった。
(曇りの日の雪みたいだ……)
身に着けているのはやはりスーツだった。輪郭こそぼやけているが柔らかな草色のジャケットとその下に纏うやや赤みがかった暗い緑のベストの違いは把握できた。艶のあるネクタイは葡萄を絞ったような色だった。
対してアルヴィンと呼ばれた低いシルエットの持ち主は濃い髪色をしていた。リミナルは最初黒だと思い、すぐに違うと否定する。
(夜の色?)
黒とも暗い藍色とも異なる、夜を吸ったような髪だと思った。
こちらは緑がかった淡い黄色のスーツである。真っ白なワイシャツの襟元で結ばれたフォレストグリーンのネクタイが艶めいている。
コホン、とわざとらしい咳払いに誘われるように、リミナルは夜色の髪の下にあるぼやけた顔へ視線を据えた。
「僕としたことが名乗りもせずに失礼した」
聞こえてくるのは陽気な声。
「初めまして、アルヴィン・インパルシヴ・ハーリクィンだ」
名乗りを上げた相手から親し気な調子で右手が差し出される。
リミナルがつい流れでその手を握ろうとした時、食堂から引きつった叫びが発せられた。
「──あ、アルヴィン卿ですっ! ハーリクィン家の! 王家に連なる……!!」
詳細はさっぱりだったが、薄暗いカウンターの前で名乗りを上げたのがたいそう身分の高い人物だということはリミナルをはじめ食堂にいた誰もが理解した。
弾かれたように立ち上がった人々が一斉に頭を下げる。誰もが迷子のような表情を浮かべている。
リミナルも同様だ。
突然現れたやんごとなき身分の人にどんな態度を取ればいいのかわからない。そもそも身分の高い人物に会ったのが初めてなのだ。
(……差し出された手を取らなかったのは正解なのか? それとも不正解? 俺、死ぬの?)
瞬く間に恐慌一歩手前の緊張が満ちた宿屋の一階に、アルヴィンのこれまでと変わらぬ陽気な声が響く。
「そんなに畏まらないでくれたまえ! 君と僕の仲じゃないか」
仲も何もない、つい今しがた会ったばかりだろう、などと突っ込む余裕はリミナルになかった。
「顔を上げて。そっちのみんなもだ! 腰を下ろしてさっきみたいに寛いだまま聞き耳を立てていてくれ」
そうは言われても高貴な身分の人物が立っている手前、座れるような図太い神経を持っている人間はいなかった。どうにか顔を上げて、固唾をのんで薄暗いカウンターを凝視している。
そんな空気すら楽しむようにアルヴィンが告げた。
「リミナル君、我が家の馬車がもたらした事故によって君が被った損害について補償する準備がある」
「……え?」
「またここに来るのが遅くなった点についても重ねて謝罪したい」
「……いえ、そんな」
「この三日と少しは随分と不便で不安だっただろう。むろん、補償にはそうした部分も考慮するから安心してくれたまえ」
続けて提示された補償という名目の金額にリミナルは目を剥いた。三日と少しどころか半年は暮らしていける。いくら治療費が含まれているといってもリミナルの金銭感覚からいえば非常識極まりない額である。
「こ、こ、こ、こんなにいただけません!」
怯えさえ浮かべた様子で首を振るリミナルにアルヴィンはやはり陽気に言った。
「遠慮する必要はない。これは君が受け取るべき正当な補償だ」
「全然正当じゃないです! 多過ぎます!!」
「少ないよりはいいだろう?」
「そういう問題じゃないです!!」
身の丈に合った生活プランを立ててきたリミナルの感覚すれば、大金が一度に転がり込むなんて恐怖でしかない。贅沢を知り、堕落して、気づいた時には一文無しになっているお先真っ暗な未来を想像してしまい、身を震わせる。
それにもし、大金を得たことを周囲に知られたら?
こんなちっぽけな村に金を預けられるような施設はない。自分で保管するしかないのだ。
村人は大丈夫かもしれないが、どこぞの冒険者がよろしくない誘惑に駆られて襲ってきたらひとたまりもないだろう。しがないアイテム販売員のリミナルの戦闘力はないに等しいのだ。
(吐きそう……)
金とかいらないからさっさと帰ってくれないかな、などと考えていると強い視線を感じた。
ぼんやりとしたアルヴィンの顔から強烈な視線を感じて、リミナルは無意識に身を引く。
「ところでね、リミナル君。……ちょっと耳にしたのだけれど、目が覚めてからの君は自分が女性でないことをしきりに確認していたそうだね?」
血の気が引いた。
なぜそれを村に来たばかりのやんごとなき身分の人物が知っているのか──確かめたくとも到底聞けるわけもないリミナルは、陸に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせるばかりだ。
「金を受け取りにくいというのならこういうのはどうだろう?」
カウンターへ身を乗り出すようにしたアルヴィンが、これまでとは打って変わって潜めた声で提案する。
「君を侍女にしてあげるよ。これは僕なりの償いだからね」
リミナルは口の端を引きつらせて先ほどよりも近くなった顔を凝視する。
少しだけ輪郭を鮮明にしたその顔は、これまでの人生で一度たりとも見たこともない妖精に似ていると思った。




