急転直下
「お呼びでしょうか、……はわァッ!?」
我が君、と告げたかったはずのエルドラクの口がぽかんと開く。
――とはいえ、銀灰の長い口髭に隠れて無様なようすは窺えない。
竜人族ならではの鱗が生える額の生え際からは、貫禄たっぷりに生えた大小の三本角。老翁エルドラクは、その根元を撫でて自身を落ち着かせ、まじまじと青年姿の魔王を見上げた。
「我が君におかれましては、非常に大きくおなりで」
「皆に言われる」
「……でしょうな。で? いかがなさいました。本日の議事は明日に日延べしたと聞きましたが」
「エキドナの長の言い分だ。そなたはどう見る」
「ああ、メーゼラッドですね」
「『メーゼラッド』?」
聞き慣れない音の連なりに、傍らのシュスラが「エキドナの長の名です」と囁く。ユウェンは「なるほど」と頷いた。
エキドナは、竜の谷に間借りする元・人間の一族。その長ともなれば、幼いころより谷の主に伺候していたはずだ。
エルドラクも、曲がりなりにも配下とあらば名前くらいは知っていよう。
ユウェンとシュスラが見守るなか、エルドラクは何かを思い出すように宙を眺めた。縦長の金の瞳孔を、すうっと細める。
「普段は、あそこまで強硬な態度を取ることがありません。少なくとも儂の前では」
「――よほど追い詰められていると見えるよ。俺の目には」
ユウェンは、伸びた前髪がかかる赤い瞳を鋭く流した。それを受けてエルドラク老がぶるりと震える。
恐れではなく、わななく。嬉々と輝く表情が語るのは純粋な歓喜だ。
老翁の期待に満ちたまなざしに、ユウェンは苦笑した。
「殺しはしない。人間の王族との協定がある」
「ゼローナ王との約束ですか……。残念なことです」
「俺が狂王になって苦労するのはお前たちだぞ。慎め」
「御意に」
エルドラクは深々と頭を下げる。
どちらかと言えば狂信者の部類に入る――竜体をとればいかめしい地竜に変化する。古株の彼は、数少ない先代魔王の狂乱の治世を生き抜いた猛者だ。さぞかし当代は退屈であろうと思った時期もあったが、さすがは魔王のちからを色濃く反映させる高位魔族。ユウェンの願いには、とてつもなく従順だった。
つまり、口ぶりだけは物騒な好々爺。
(なまじ人間のまま魔族領に住まうぶん、魔王の影響を受けないから認識が甘いんだろう。舐められている……と言えば、その通りだが)
やれやれと嘆息したユウェンは、ちらりとシュスラを一瞥した。
「殺しはしないまでも、教育は必要だろう。至急――」
「もっ、申し訳ありません!! ユーグラシル陛下、今すぐ奏上をっ!」
「「「!?」」」
三名は何ごとかと目を剥いた。谷の兵卒のひとりが息せき切って駆け込む。鎧の皮革の色は黒。罪人の見張りを任せていた者だ。
エルドラクが「述べよ」と命じると、竜人族の若い兵は声を裏返させて報告した。
「科人の女ふたりが……。エキドナのベティとシトリンが逃げました! 手引きをしたのはエキドナの長です!」
* * *
脱獄、というほどの設備ではなかった――と、ベティは思う。
窓に鉄格子は嵌っていたものの、腕は拘束されていなかったし、見張りは扉の外側で昼夜交代制。何より同性だからと腹心のシトリンと同室にされた。
おまけに。
「ようございましたね、ベティ様。長がお許しくださって」
「あなたもつくづく脳筋よね……? おじい様は怖いかたよ。何なの、帰ったときはあんなにお怒りになったくせに」
耳元でひゅうう、と風が吹きすさぶ。筋肉質なシトリンの腕にしっかりと抱かれ、バサバサとしなる彼女の翼の振動に身を委ねた。ふたりは里の上空へと逃げたのだ。
ベティは、いらいらと爪を噛む。
――今日、祖父のメーゼラッドは突然面会に訪れた。どころか、部屋の外に立つ見張りを言いくるめて場を外させた。ご丁寧に逃亡経路まで確保して。
『エルドラク様の〝目〟は、しばらく空から離れておる。山の狩り小屋へ行け。兄を助けよ』と。
(解せない。解せないわ。今さら何??)
里の北東にそびえる山には、代々のエキドナの長が所有する狩り小屋が建っている。
文字通り狩りをするための拠点であるため、生活物資は常にある。谷の住人と異なり、翼のない長の家族は移動に難儀した。
狩りとは、そんな一族が自身の〝翼〟を――すなわち騎竜を得るためのものだ。
ベティは女で第二子だからと後回しにされ続け、結果、翼がある混血のシトリンを側付きにされたのだが。
祖父の言った通り、谷に到着したときはあんなに旋回していた竜が一頭もいない。
それだけゼローナの王子たちとの会議が難航しているのか……
「ベティ様、見えてきましたよ。小屋です」
「ええ」
爪を口から離し、みるみる近づく小屋の屋根を凝視する。
すると、同じく小屋めがけて飛んできた一頭の飛竜が視界を掠め、悠々と追い抜いていった。
力強く羽ばたく竜翼のあいだに騎手の背中が見える。おそらく兄だ。しかし。
「え、なぜ」
シトリンが、思わずのようにベティを抱える腕のちからを強める。ベティもまた、兄が誰かを大事そうに乗せていることに刮目した。
風になぶられる、真っ赤な長い髪はいやでも目を引く。見忘れるわけがない。
「ロザリンド王女……? うそでしょ」
意識がないらしい、赤い髪の持ち主は、くたりとその身を兄に任せていた。




