竜の谷(2)
(いや、たしかに『連れて行って』とはお願いしたわ。拒まれなかっただけでも御の字で。でも、まさか、そこまでトントン拍子……っ!?)
――――――
ここに来るより前、ロザリンドは両親に仕組まれた見合いから逃げ出した。
相手がふた回りも年上のおじさん侯爵だったせいもあるし、ロリコン疑惑があったし、想いはとっくにユウェンに捧げていたから。
逃げ出せたのは幸運。たまたまユウェンがいる場所を知れたのも偶然だった。
そも、ゼローナ国王直系子孫には“転移”の能力が備わっている。それは特別な固有魔法で、修練では得られないユニークスキル。教義としては主神からの贈りものとされる。
ふつうは遺伝したりしないのだが、ゼローナ王室の場合は脈々と受け継がれた。それゆえ世界最大の謎とも、恩寵とも。
――もちろん『転移可能な質量は魔力量に比例する』『転移先は視界の範囲、または訪れたことのある場所』など制約があるとはいえ、ゼローナが大きく版図を広げられたのはギフトの賜物といえる。
ロザリンドも王城では頻繁に使っていたのだが……
湯浴みと着替えを終え、部屋でお付きの女性に髪を拭かれているとドアがノックされた。
現れたのは、意外にもユウェンだった。
「失礼する。……すまない、取り込み中だったか」
「大丈夫よ。会談が終わったの?」
「ああ。サジェス殿たちはここの隣の棟に案内した。続きは明日になる」
「じゃあ、今夜はあなたも自由?」
「……」
「…………」
なぜか、ぴくっと眉を動かして怜悧な顔を固まらせたユウェンに対し、魔王の来訪にあわせて壁際まで退いた女性は目を輝かせた。
……いや、かなり嬉しそうである。ほくほくと口に手を当て、嬉々と退出を申し出た。「では、私はこれで」
「ええ? ちょっと」
ロザリンドは支度中の濡れた髪と女性を交互に眺めて手を伸ばしたが、時すでに遅し。女性はユウェンに礼をして去ってしまった。
(なんか……わたし、軽く扱われてる?? まぁいいんだけど)
ふう、とため息をついて腰まである紅髪を一房掴む。やはり、しっとり濡れていた。
「参ったわ。魔法、封じられてるのに」
「……貸して」
「! あっ」
今度はロザリンドが驚いた。しばらく固まっていたユウェンが歩み寄り、ロザリンドの髪に触れる。とたんにふわりと風が生まれ、浮かんだ毛束の水分をやさしく分離したのだ。
その手際はいままで世話をしてきたメイドたちの誰よりも丁寧で素早かった。気づけば花の香だけが残る髪が形よく整えられ、肩と背を流れてゆく。
が、そのあいだ中、薄闇色のすべらかな肌のきめ細やかさと、黒々とした睫毛を堪能できるほど端麗な面差しを間近にして。
――ユウェンが、椅子に座るロザリンドの目線に合わせて腰を折ってくれたからに相違ないのだが――
ロザリンドは絶句した。
唇をわななかせ、頬を上気させる王女にユウェンが伏せていた赤い瞳をそろりと上げる。手にしたままの紅髪の一房を、すっと離して姿勢を戻す。
「これでどう」
「あぅ、あ……ありがと」
家族が目にすれば天変地異の前触れかと危ぶんだろう。灼熱の髪色の王女の初々しい様子に、ユウェンは目を細めた。
「少し話さないか。対話は俺たちも必要だろう」
* * *
「なるほど。どおりで魔力の流れがおかしいと思った。オーディン王に回路をせき止められていたんだな」
「回路?」
きょとんとロザリンドが問う。
こと、魔法の分野では聞き慣れない単語だった。
明るいあいだに谷を案内しようと申し出たユウェンは、客用の館からわずかに離れた下流の橋を渡った。馬車が余裕ですれ違えそうな幅のある、丈夫そうな石橋だ。
対岸にも集落はあったが、谷影のせいで見えにくい。対照的にユウェンの姿は夕日に照らされ、くっきりと浮かんだ。
旅装から地位ある者にふさわしい黒衣に着替えたせいか、風格が少年魔王そのものだ。
ユウェンは自嘲ぎみに唇を歪めた。
「たんに、俺がそう呼んでいる。視えるから」
「そう……」
無意識にゲーム画面で見た青年姿の魔王の面影を探してしまい、ロザリンドは自分を戒めた。いまの彼は「ユウェン」。生まれ変わって初めて知った、魔王の少年形態で、銀の双角も黒翼もない隠形なのに。
――なにしろ、『銀のひめごと』における魔王ユーグラシルは、れっきとしたラスボス。ゲーム終盤でゼローナに攻め入るスチルが本当に美麗だった。
その禍々しさが嘘のような静けさにも節操なくときめく自分を、(ちょっと落ち着きなさいよ!)と叱咤しながら。
「ええと、どうして父が封じたとわかったの?」
「魔力の波長にはくせがある。貴女の回路には、オーディン王の魔力がちょうど楔みたいに働く箇所があった。それがちょっと不思議で」
「ははぁ」
ロザリンドは曖昧に笑った。
――何を隠そう、強力な魔法封じは日ごろの行いがあまりに悪かったせいである。
王国にいたころはゲームのヒロイン・ヨルナにせっせと意地悪をして、早急に悪役王女として追放して欲しかったからなのだが、文字通り釘が刺されているかと思うと出奔の甲斐がない。そこは黙っておく。
代わりに咳払いをして、再び少年の横顔にこっそり見入る。
すると、ユウェンの足がぴたりと止まった。
「行かないの? 向こう岸」
「ああ」
頷いたユウェンは、腕を伸ばして対岸のさらに下流域を指差した。
橋の半ばまで来たからわかる、ちいさな家屋がごちゃっと集まった区域だった。
「会談のあいだ、貴女は谷を自由に歩けるよう長に掛け合っておいた。でも、あの辺りは行かないように。――旧エキドナの末裔が住んでいる。誘拐事件のこともあるし、へんに刺激はしないほうがいいだろう」




