↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/30

エステルハージ女官長

 新婚の皇帝夫妻はラクセンブルク宮殿で新生活を始めた。


 しかし、新婚早々にクリミア戦争が激化し、皇帝は早朝から深夜まで会議や閣議に追われ、新妻を顧みる余裕がまったくなかった。


 情熱的だったのは一目惚れの時だけだった。エリザベートが自嘲気味に言った。


「新婚なのに、もうすれ違い……」


 皇妃の宮廷生活にあてがわれたのは六十歳近い老女だった。


 厳めしい表情のエステルハージ女官長の目はまったく笑っていない。


 女官長の背後にずらりと居並ぶ侍従たちもぴりりと重苦しい空気を漂わせていた。


「ゾフィー大公妃に皇后付き主席女官に任命されました。女官長ゾフィー・エステルハージ=リヒテンシュタインでございます」


「あら、あなたもお義母様と同じゾフィーなのね」


 何の悪意もなく言ったつもりだったが、早速叱責された。


「宮中では軽々(けいけい)に個人名(ファーストネーム)で呼び合うことはございません。称号や役職名でお呼びください。ハプスブルク家の地位と尊厳を保つために重要な作法でございます」


「はあ……」


 初対面だから親しげ(フレンドリー)に接してみただけだろうと思ったが、取り付く島はなかった。


「ハプスブルク家の皇妃として、どこに出しても恥ずかしくない宮中作法を身に付けていただきます。宮廷儀礼違反は逐一、大公妃にご報告させていただきますので、そのつもりで」


 エステルハージ女官長は表情ひとつ変えずに言った。


「僭越ながら、皇妃は母語さえおぼつかないところがございます。母国語のドイツ語はもちろんのこと、外国語では英語、フランス語、イタリア語、チェコ語をマスターしていただきます」


「うげっ、そんなに必要?」


「多民族国家を支配するハプスブルク王家には、このくらいの言語は必要不可欠でございます。語学の天分に恵まれているハプスブルク家の皇妃として当然のことでございます」


 二言目には「ハプスブルク家、ハプスブルク家」と連呼する貴族意識の高さに辟易した。


 くどくどと宮中作法について説明を受けたが、いい加減に飽きてきた。


 皇妃の影であるイルマ・シュターライに女官長の本音を代弁させた。


「イルマ、翻訳して」


「ちょっとでもおかしなことをしたら、姑に密告して(チクって)やるからな」


 皇妃に一目惚れした皇帝の本音を「ぼくちゃん、妹(あっち)の方がいい」と翻訳したイルマは、相変わらず辛辣で的確だった。


「山猿駆除同盟の頭領(ボス)から直々に使わされた密偵ということね」


「平たく言うと、チクリ屋です」


 ふと、勉強しなければならない言語にハンガリー語がないことに気が付いた。


「ハンガリー語は勉強しなくていいの?」


「そんな言語、学ばなくて結構です」


 エステルハージ女官長がいきなり激高した。


 おいおい、いきなりどうした。


 ハンガリーと口にした瞬間に、とんでもない剣幕となった。


「学んではいけない理由は?」


「なにもご存じないのですね。ハンガリーはハプスブルク家の領内にありながら、独立自治を目論む地域ですよ。そんな言葉を宮中で喋ったらどうなるかお分かりになりませんか」


 まるで敵性国家のような扱いだった。佐藤は波風立てない平和主義者だが、肉体をお借りしているエリザベートは禁じられるとメラメラ反骨心が湧いてくる気質であるらしい。


 ハンガリー語の読み書きを覚えよう、とごくごく自然に思えてきた。


「宮中にハンガリー人はいないの?」


 エリザベートがエステルハージ女官長の背後に居並ぶ従者たちに目をやった。


「宮中でハンガリー語を話していたら、即座にスパイと疑われますよ」


 質問に答えていないが、エリザベートは視線でハンガリー人か否かを問うた。


 従者たちはちらちらと女官長を見つめるだけで、誰一人として手を挙げる者はなかった。


 素直でよろしい。


「各国の要人と挨拶程度は交わせるくらいの言語は身に付けてください」


「ハンガリー語は?」


「しつこいですね。私の話を聞いておりませんでしたか」


「ハンガリーも帝国の領土ですよね。そこまで敵視するのはおかしいのでは」


「歴史を何も知らないから、そのように無邪気におっしゃれるのです。ハンガリーではマジャール人が中心となってハプスブルク家からの独立自治を求める大規模な反乱が起こりました。ロシア帝国の軍事介入を頼ってようやく鎮圧しましたが、宮廷にとってハンガリーは帝国を分裂させかけた危険な反逆者の土地も同然です」


「ふーん、何年前ぐらいの話?」


「ほんの五年前のことですよ。まさかご存じない?」


 だって、つい最近転生してきたばかりだし、とは言えなかった。


 エリザベートが嫁いだのは革命鎮圧からわずか五年後のことで、まだ戒厳体制と不信感が残る時代のようだった。


 ともかくハンガリーがいかに敵視されているかはよく分かった。


「ハンガリーは粗野で感情的で反抗的で洗練されていません。ハンガリー語の勉強などもっての外です」


 さすがに偏見ではないかと思ったが、反ハンガリー感情が最高潮に高まっている時期であれば、まともな話し合いさえ成立しないだろう。くどくどと話し続けるエステルハージ女官長に向かって、エリザベートはにこりと微笑んだ。


「お話はこれくらいでよろしいしょうか、女官長」


「いいえ、まだでございます」


「もう結構よ。カスタマーサポート、わたくし、佐藤が承りました」


 エステルハージ女官長が目をぱちくりとさせた。


 まるで異国の呪文のように響いたのかもしれない。


「……サトー? カスタマ?」


「おっと、つい癖で」


 コールセンターで働いていた時の癖で、ついつい口走ってしまった。


 見た目(ガワ)こそエリザベートであるが、中身は佐藤である。


 暴言や脅迫、大声で怒鳴る、脅すような言葉を投げかけられるのは日常茶飯事だった。


 女官長の長ったらしい嫌味やハンガリー嫌悪を聞き流すことくらい造作もなかった。


「それはどういう意味でございましょうか」


「あら、女官長がご存知のない言語だったかしら」


「……まさかハンガリー語?」


「宮廷ではハンガリー人を一人も雇わないの?」


「採用はゾフィー大公妃がお決めになります」


「そう。じゃあ、宮中にハンガリー人がいないわけでないのね」


 微妙に噛み合わない会話に女官長が痺れを切らした。


 侍従たちをぞろぞろと引き連れ、立ち去って行った。


 皇妃の影であるイルマ・シュターライが嘆かわしそうに言った。


「先の発言は少々解釈違いであったかと」


「解釈違い?」


 田舎の小娘と侮っていた女官長をやり込めるのは、さすがにやり過ぎであったようだ。


 皇妃オタクの信ずる皇妃像としては正しくない振る舞いであったらしい。


「現代知識をひけらかして翻弄するのはおやめくださいませ」


「はいはい」


「皇妃像にそぐわない言動は慎んでいただきますようお願いいたします」


「予備知識がないから、正しい皇妃像というのが分からないんだよね。皇帝と結婚する。最終的に暗殺される。その二つさえ満たしていればいいんじゃないの」


 エリザベートが安易な理解を示すと、イルマ・シュターライがあっさり否定した。


「そうでもありますが、そうでもありません」


「あくまでも皇妃オタク(イルマ)の信ずる皇妃像として振舞えと?」


「左様です。案外物分かりがよろしいようで」


「ひと言余計よ、イルマ」


「失礼いたしました」


「しょせん、私はイルマの操り人形ということね」


 少し憎たらしく言ってみたが、イルマはどこ吹く風だった。


「命令ではなく推奨です」


「イルマに制御されず、自由に振舞ってもいいの?」


 皇妃の影が引っ込み、宮廷に沈黙が落ちた。


 皇妃オタクはなんとも答えず、面倒な会話を打ち切った。


「――以上、カスタマーサポート、わたくし、イルマ・シュターライが承りました」


 孤独に取り残されたエリザベートがぽつりと言った。


「自分が言われるとムカつくな。もう言うの、やめよ」


 シャットダウンしたかと思いきや、イルマが再び話しかけてきた。


「ひとつ、補足させていただいてもよろしいですか」


「なに?」


「エステルハージ女官長はドイツ系貴族ですが、三十年以上前に結婚なさっていて、ハンガリー貴族のヴィンチェンツ・エステルハージ・デ・ガランタ伯爵と所帯を持たれています」


「ハンガリーの反乱のせいで、女官長も詮索されたってこと?」


 結婚は遥か昔であるのに、近年のハンガリーの反乱が処遇に影響した可能性はある。


 イルマは何も答えなかったが、もしかしたらエステルハージ女官長も伴侶がハンガリー出身であるせいで、嫌な思いをしたことがあるのかもしれない。


 皇后付きの主席女官となって早々にハンガリーを扱き下ろしたのは、彼女なりの処世術だったのだろう。


 私はハンガリーに特別な感情を抱いておりません、という宣言だ。


 宮廷の皆様と同じく、正しくハンガリーに反感を抱いております。


 いわば、余計な詮索をされないための布石。


「なかなかのツンデレなのかしら、女官長」


「さあ」


 エリザベートは内心で、ハンガリー語の習得を決意した。


「ハンガリーは帝国内で肩身が狭いってわけね。じゃあ、ちょっと勉強してみるわ」


「よろしいと思いますよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。