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花嫁の門出

 バート・イシュルでの婚約から半年余りが過ぎた。

 ウィーンへの輿入れを控えたエリザベートは故郷のミュンヘンに別れを告げた。

 バイエルンとオーストリアは隣国であるため、里帰りはさほど困難ではない。

 しかし、そうはいってもまだ十六歳の少女である。

 公爵家の家中の人々と別れの挨拶を交わし、エリザベートは大粒の涙を流した。

 公爵邸の前に押し寄せた多数の市民から、花嫁の門出を祝福する声が発せられた。

 アイドルグループのプロデューサーよろしく、イルマが泣きの演技を要求した。

 皇妃の影を自称するイルマは様式美にうるさい。

「はい、ここで立ち上がり、泣いてください」

「……は? 馬車の中だけど」

「いいから、さっさと泣く」

 馬車の中で立ち上がり、エリザベートは突然感極まった。

「見送りありがとう! バイエルンの皆さん、愛してる!」

 顔を涙で濡らし、愛するミュンヘン市民にハンカチを振り、別れの挨拶をした。

 なんとも感動的な瞬間に詰めかけた観衆は涙を流さずにはいられず、全員がこれ以上ないほどに心を打たれた。

 挙式に出席する親族とともに、ミュンヘン北方に位置するレーゲンスブルクへ向かった。

 ウィーンでの挙式に出席する家族は、両親以外には長兄ルートヴィヒと姉ヘレーネのみであり、弟や妹たちはこの旅に同行していない。

 本来、結婚するのはエリザベートではなく、姉のヘレーネのはずだった。

 姉ヘレーネは馬車の中で黙りこくっているが、どういう心境で挙式に参列しているのか、触れるのが少し恐ろしかった。あまり喋りかけてほしそうでもなかったため、そっとしておくことにした。

 ウィーンへ向かう花嫁一行の交通手段は、馬車ではなくドナウ川の汽船だった。

 乗船地はバイエルン領のレーゲンスブルク。

 そこから船は東方のウィーンを目指し、ドナウ川を下った。

 レーゲンスブルクの街では市民に盛大な歓迎をされ、花で彩られた汽船シュタット・レーゲンスブルク号に乗船した。

 夜半に最初の宿営地であるバイエルン領シュトラウビンクに到着した。

 楽隊演奏で出迎えられ、ここでも市民から熱烈に歓迎された。

 市内はお祭りムード一色だった。欧州屈指の名家へ輿入れするプリンセスを祝福しようと、街は旗や花で飾りつけられ、明るく照らし出された。

 公共旅館に投宿した公爵一家は翌朝、汽船に乗り込み、出発の際も軍楽隊と合唱団の音楽のもと、多数の市民から歓声を浴びた。

「アイドルの卒業公演みたいね」

「それ以上ですよ。国と国の結婚ですから」

 エリザベートは船の手すりへ歩み寄り、白いハンカチを振って応えた。

 市民も帽子やハンカチを振り、涙を流しながら花嫁を見送った。

 オーストリア入国前の最後のバイエルン領であるパッサウに差し掛かり、シュタット・レーゲンスブルク号はいよいよオーストリア領のリンツに到着した。

 上陸地点には予想だにしないほどの大観衆が皇帝の花嫁を出迎えた。

 リンツの街全体がお祭りムードに沸き立ち、市内各所が煌びやかなイルミネーションで照らし出された。花嫁一行が泊まる宿泊施設も旗と花で盛大に飾り付けられた。

「……うわあ」

 熱烈な歓迎ぶりにエリザベートはしばし言葉もなかった。

「やあ、エリザベート」

「……フランツ。どうしてここに?」

「ちょっとしたサプライズさ。君の顔をひと目見たくてね」

「わざわざ来てくれたの?」

「ああ」

 新郎のフランツ・ヨーゼフが密かにリンツをお忍びで訪れ、入国したばかりのエリザベートを出迎えてくれた。まるで付き合いたての高校生カップルのごとき初々しさだ。わずかに言葉を交わしただけだが、わざわざ会いに来てくれたことが嬉しかった。

「さすが、ハイスペ。ぐふっ、ぐふっ、ぐふっ」

「イルマ、気持ち悪い」

「どうですか、高まってきましたか」

「いや、まあね」

 選ばれなかった姉の気持ちを考えると、手放しで喜べはしない。

 翌朝、ドナウ汽船会社が用意した特別仕様の蒸気船フランツ・ヨーゼフ号に乗り換えた。

 ウィーン近郊のヌスドルフへ向け、船旅を続けた。

「船が自分の名前か。意外とナルシストなのかな」

「クイーン・エリザベート号の方がよかったですか」

「いや、べつに」

「皇帝と一緒じゃなくて残念でしたね」

 サプライズ登場した皇帝は別の船で一足先に出立していた。

 イルマに茶々を入れられたが、華やかに飾り立てられたドナウ川の川沿いの村々を見るのに夢中だった。河岸の各所にバイエルンとオーストリア両国旗、紋章、花、リボンなどで彩られた家屋が立ち並んでいた。凱旋門や記念柱などの祝賀用の構造物も目についた。

「私、結婚式はやらなくていい派で、その分貯金したい派だけど、ここまで歓迎されると、ちょっと考え方変わるかも」

 ダメ男に貢いで、もやし生活だった日々から考えると、まったくの別世界だった。

「意外と楽しんでますね」

「うん。だって、楽しんだもん勝ちでしょ」

 エリザベートはいよいよオーストリアの帝都ウィーンに足を踏み入れた。

 船着き場は、ウィーン市北部のヌスドルフ。

 フランツ・ヨーゼフ皇帝、皇族、ウィーン大司教、軍や行政府の高官が姿を見せ、詰めかけた多くの民衆も花嫁を乗せた汽船の到着を待ちわびていた。

 船の接近を知らせる信号を受け、皇帝と皇族がヌスドルフの船着き場へ向かう。

 礼砲が轟き、国歌が響き渡る。

 新婦エリザベートを乗せた船が岸に着いた。ピンクのシルクのドレスに白いカシミアのマンティーラを纏い、白のベールをあしらったピンク色のシルクの帽子を被ったエリザベートが姿を現した。

「待っていたよ、エリザベート!」

 船着き場の橋が下がりきらないうちに、皇帝は甲板へと至る階段を駆け上がった。

 溢れんばかりの若々しい魅力と優美さで、光り輝く花嫁を熱烈に抱きしめた。

 オーストリアの強き統治者とは思えぬはしゃぎっぷりだが、花嫁を待ちわびていた皇帝は底抜けの笑顔だった。

 皇帝の母であるゾフィー大公妃が甲板に渡ると、周囲がぴりりと緊張した。

「どうして、あなたなのよ」と嫌味でも言われるのか、とエリザベートは身構えた。

 皇帝の母ゾフィーは感極まり、エリザベートを抱きしめた。

「え、と……」

「息子が選んだ人生の伴侶よ。歓迎しないはずがないわ」

 エリザベートを山猿のごとくに毛嫌いしていた人物とは思えぬ歓迎ぶりだった。

 皇帝の母君が優美さを放つ姫君を抱きしめる感動的で非常に美しい瞬間に、詰めかけた観衆たちも感涙に咽び泣いた。

 ヌスドルフで両家の対面と挨拶を終え、一行は馬車でシェーンブルン宮殿を目指した。

 先頭の馬車には皇帝と新婦の父マクシミリアンが同乗した。

 二台目の馬車に新婦エリザベートと新郎の母ゾフィー。

 三台目に皇帝の父フランツ・カールと新婦の母ルドヴィカ。

 以下、両家の親族を乗せた馬車が続いた。

 エリザベートは三日間にわたる長旅で、すでに疲労困憊だった。

 ずっと笑顔を絶やさずにいることもなかなかに大変だった。

 馬車の中では大公妃ゾフィーと同乗させられ、息が抜けない。

 観衆の目がなくなるや、早速、嫌味を言われた。

「疲れた顔を見せないでちょうだい。本番はここからよ」

 ここまではほんの余興といった口ぶりだった。

 新皇妃エリザベートはシェーンブルン宮殿のバルコニーへ上がり、大勢の民衆を前にして微笑みながら会釈し、万雷の歓声に応えた。

 挙式を翌日に控えたエリザベートはシェーンブルン宮殿を出て、市内中心部のホーフブルク王宮へ馬車で向かった。馬車によるこの移動は、新皇妃がウィーンの市壁をくぐり王宮入りする重要な儀式も兼ねていた。

 しかし、パレードの雲行きは怪しかった。

 午前中は太陽が明るく出ていたものの、正午から上空は分厚い雲に覆われ、歓迎用の装飾が吹き飛ぶほどの強風が吹き荒れた。

「……天気が急変したわね」

 エリザベートは心配そうに空を見つめた。

 母ルドヴィカとともに六頭立ての馬車に乗り込み、シェーンブルン宮殿を出発した。

 馬車はパレードの起点となるテレジアヌムに入った。

 白馬の八頭立ての馬車に乗り換え、入城儀式の舞台となるケルントナー門を目指した。

 馬車がケルントナー門手前のエリザベート橋に差し掛かると、教会の鐘の音と祝砲が市内に響き渡った。

 エリザベート橋では廷臣やウィーン市長が新皇妃を出迎えた。高位聖職者や貴族を乗せた二十台以上の馬車がエリザベートの乗った馬車を王宮までエスコートした。

 皇帝と皇族、新婦の家族の出迎えを受け、馬車はホーフブルクの王宮に入った。

 ぐったりと疲れ切ったエリザベートは、皇妃の影であるイルマに愚痴をこぼした。

「結婚って、マジで大変だね」

「本番は明日ですよ」

「もう無理。このまま死ねる」


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