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山猿駆除同盟

「――シシィ、大丈夫かい。シシィ」


 目覚めると、すぐ目の前にフランツ・ヨーゼフの顔があった。

 あまりにも心配そうで、血の気が引いていた。


 エリザベートが寝かされていたのは簡素なベッドだった。

 天蓋付きのベッドのようなものではなく、なかなかに質素だった。


 縁談を台無しにした山猿には粗末なベッドで十分ということだろうか。

 心配し過ぎて青褪めたフランツとは対照的に、ゾフィー大公妃は冷ややかだった。


「なんて不作法な娘なの。一時の気の迷いよ、考え直しなさい」


「いいや、私は彼女と結婚する。エリザベートと結婚できないのなら、私は一生誰とも結婚しない」


 フランツ・ヨーゼフが決然と宣言した。


「ああ、フランツィ。どうしてしまったの。あなたが私の言いつけに背くなんて。今まで私の言うことには全て従ってきたじゃない」


 ゾフィー大公妃がこの世の終わりかのように嘆いた。


「皇帝になれたのは誰のおかげ?」

「すべて母さんのおかげだよ」


 皇帝親子のやり取りを黙って聞いていたが、率直に言ってマザコンとしか思えなかった。


 フランツは母親の操り人形で、ゾフィーが影の皇后と呼ばれるのも納得だった。

 そんな母の意のままだった皇帝が初めて反旗を翻した。


 それほどまでにエリザベートと添い遂げたいのだと思うと、若干申し訳なくなる。


 ベッドで調子悪そうにしているが、「見た目(ガワ)はエリザベートですけど、中身佐藤ですよ」と口添えしたくてしょうがなかった。


 佐藤って誰だよ、と問われても、お答えしようもないのだけれど。


 山猿を娶るか娶るまいかを巡って、壮大な親子喧嘩が勃発した。


 国家にとっての一大事なのだろうが、皇妃オタクのイルマは黙りこくっていた。


 完全なる影となって、宮中の暗がりに溶け込んでいる。


 ――暗殺されない皇妃は皇妃ではありません。


 そう言い切ったイルマはあまりにも狂気じみていた。


 あ、これ、話し合っても駄目なやつだ。


 即座に判断し、気絶(シャットダウン)を選択したが、物語はまだ続いていた。


 イルマの言う「終わりです」という言葉の意味がよく分からないが、どうにも必ず辿らなければならない道筋があるようだ。


 始点:皇帝フランツ・ヨーゼフとの結婚(回避不可)

 終点:1898年9月10日の暗殺(回避不可)


 この二点だけは動かせないのではなく、動かしてはならない。


 暗殺を避けたければ、暗殺場所に行かなければいいだけ、と解決策を提示しつつ、でも行かないと皇妃ではないと突き放す。


 エリザベートを皇妃たらしめる様式美への執着を感じた。


「……イルマ、あなたは何者なの?」


 宮中の暗がりに向かって問いかけるが、やはり答えはなかった。






 


 フランツ・ヨーゼフ皇帝とゾフィー大公妃が辞去したのを見計らって、母のルドヴィカにちくりと嫌味を言われた。


「どうしてあなたなのよ。持参品を用意し直さなきゃならないじゃない」


 残念ながら、嫌味の意味がよく理解できなかった。


「どういう意味?」


 宮中の暗がりに溶け込んでいたイルマがそれとなく耳打ちした。


 皇妃オタクの使命感からか、ルドヴィカの嫌味の意味を事細かに教えてくれた。


「バイエルン公家ヴィッテルスバッハ家の公女がオーストリア帝国ハプスブルク家に嫁ぎ、皇妃となるにあたって、身ひとつで宮廷に転がり込むわけにはいきません」


「まあ、そうでしょうね」


「皇后となるに相応しい最高級品をウィーンの宮廷まで持参しなければなりません。いわゆる結婚持参品ですが、姉のヘレーネが婚約するはずでしたから、エリザベートの持参品など用意してあるはずがないのです」


 ただの付き添いに皇帝が世紀の一目惚れをしてしまったのは、なかなかに厄介な事態を招いてしまったようだ。


「結婚持参品って、どんなものを持っていくの?」


 結婚相手と同棲するなら、お気に入りの家財道具でも持参するのだろうか。


 ふと想像してみたが、男性との同棲経験がないので想像がつかない。


 結婚相談所で紹介された男性は、一人暮らしの佐藤の家に気まぐれに訪れてくるばかりだった。一緒に住む部屋を探そうと言われ、マンションの頭金を払ったが、一向に引っ越す気配がなく、ずるずる都合の良い相手のように扱われていた。


 仕事の都合でなかなか引っ越しができないと先延ばしにされたが、マンションの頭金は着服されていた。そればかりか既婚者であることが判明した。


「妻に関係をバラしたらぶっ殺すぞ!」


 一方的に騙していたくせに、激昂した相手は手近にあった包丁を滅茶苦茶に振り回した。


 刺したら怖くなって、それで何度も何度も刺した。

 動かなくなるまで、何度も、何度も。


 佐藤だった時の悪しき記憶が蘇ってきて、ぞわりと寒気がした。


 ……大丈夫。


 エリザベートの肉体を触ってみるが、どこからも出血はしていない。


 腕も、肩も、首も、脇腹も、心臓も、肺も、どこも刺されてはいない。


「あくまでもイルマ調べではありますが……」


 気を取り直して、皇妃オタクの声に耳を傾ける。


「総量はトランク25個分、衣装費用の総額は5万グルデン」


「ごめん。ぜんぜんイメージが湧かない」


 十九世紀の貴族が使用していたトランクは革製品のため、大変な重さがあった。


 馬車を何台も仕立て、衣装をたっぷり詰め込んだトランクを運ばせた。


「日本円に換算すると三千万円もないぐらいですね。庶民からすると破格ですが、皇后になる身分の女性としてはかなり質素なものです」


 イルマが結婚道具一式をつらつらと述べた。


「洗濯用の水入れ、小皿、鏡、コーヒーポットなどの銀製品。舞踏会用夜会服(バールクライダー)4着、晴れ着(プッツクライダー)17着、普段着の絹のドレス14着、夏のドレス19着、コルセット4つ、乗馬用特製コルセット3つ、髪飾り12種類、帽子16種類、肌着144着、革製の長靴6足、ビロードやサテン、絹製の靴113足……」


 エリザベート・佐藤が思わず突っ込んだ。


 ドレスはともかく、靴が100足以上はさすがに多過ぎる。


「靴、多過ぎじゃね」


「皇后は同じ靴を一日以上履いてはいけない。それがハプスブルク家のしきたりです」


「なに、その慣習。マジで無駄……」


 エリザベートが呆気に取られたが、結婚持参品のいちいちを暗記している皇妃オタクもなかなかに狂っている。


「でもさ、ネット通販も車もない時代なんだよね」


「左様です」


「ネットで注文すれば、すぐ届くってわけじゃないもんね」


「そうですね。運ぶにしても馬車です」


 結婚持参品をただ持参すればいいというだけではない。

 皇后となるに相応しい最高級品でなければならない。


 母のルドヴィカが嫌味のひとつも言いたくなる気持ちが察せられた。


「ルドヴィカはバイエルン中の工房をフル回転させましたが、それでも時間が足りませんでした。大慌てだったのは、姉ヘレーネの結婚準備の品に手をつけなかったというのも理由のひとつではありますが」


「なに、それ。ちょっといい話……」


 ルドヴィカの献身に心を打たれそうになったが、再三の嫌味に心がすっと冷えた。


「どうしてあなたなのよ。どうしてヘレーネじゃないの」


 この期に及んで、ルドヴィカは皇帝の心変わりに一縷の望みを抱いているようだ。

 しかし、皇帝フランツ・ヨーゼフとの結婚という物語の始点を動かすわけにはいかない。


 苛ついた母が退室し、寝室に最後まで居残っていたのは姉のヘレーネだった。


 エリザベートを見下ろす目に殺意めいたものまでは漲らせていないが、内心憎らしくは思っているだろう。


 皇妃周りの陣営において、母(ルドヴィカ)と伯母(ゾフィー)は山猿駆除同盟を結成している。


 山猿保護同盟は皇帝ただひとり。


 しかしながら、皇帝は重度のマザコン疑惑があるため、いつまでその寵愛が続くかは分からない。


「あなたが羨ましいわ、シシィ」


 ヘレーネが宮中の暗がりにこぼすように言った。


 押し殺した声音があまりに切なかった。保護同盟に加えようという打算がなかったわけではないが、ここでこそ言うべきだと思った。


 なるたけ神妙な面持ちで、棒読みにならないよう感情を込めた。


「皇帝のことは慕っております。でも、あの方が私のことを想ってくれる、というのが分からないの。こんなに若くて至らない娘なのに。皇帝が幸せになるよう何でもするつもりよ。でも本当にうまくいくのかしら」


 イルマとの特訓の成果か、白々しさは漏れ出ていなかったと思う。


「できるものなら代わってあげたい。でも、すべては皇帝陛下がお決めになったこと」


 ヘレーネが涙交じりに抱擁してくれた。


「ああ、あの方が皇帝でさえなければ……」


 エリザベートは運命の悪戯を呪うように嘆き、姉妹でひしと抱き合った。


「シシィ、私はあなたを全力で守るわ」


 事前に特訓していなければ、即興でこんな台詞を口にできたはずがない。


 イルマの正体は謎だが、演技指導はなかなかに適切だった。

 助言を無視するよりも、聞き入れた方がなにかと良さそうだ。


 皇帝が大公妃ゾフィーの操り人形ならば、皇妃は女官イルマ・シュターライの操り人形。


 操り人形同士、さぞやお似合いではないか。


 よろしい、イルマの助言通りに踊ってやろう。

 暗殺されるその日まで。

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