埋まらぬ半分
末娘のマリー・ヴァレリーが結婚式を挙げた。
お相手は、一目惚れした貧乏貴族フランツ・サルヴァトール。
結婚を進めるにあたって、ヴァレリーはオーストリアの皇位継承権を放棄した。
祝いの場に相応しくないため、エリザベートはこの時ばかりは喪に服すのはやめた。
淡い灰色のシルクのガウンを纏い、ことさら陽気に振舞ってみせた。
「お母様、本当にこれでよかったのかしら」
ヴァレリーが決断を後悔するような素振りを見せたので、エリザベートが勇気づけた。
「あなたは自由よ、ヴァレリー。何にも縛られることはない」
ルドルフの死以降、はじめて笑った気がした。
しかし、その笑みが心からのものとは思えなかった。
ルドルフを亡くして以降、エリザベートは常に喪服を着続けた。
その一方で、フランツ・ヨーゼフ皇帝は朝四時に起き続け、老境にある今もなお、若き日と変わらず職務に邁進している。
「まるで機械仕掛けね。少しは息抜きしないと壊れてしまうわよ」
ルドルフの悲劇だけは繰り返したくなかったが、愛息を失った痛みを分かち合うには、互いに事情を知り過ぎていた。
顔を合わせれば、どうしたってルドルフの影がちらつき、心が休まることもない。
それに、喪服を着込んだエリザベートを見るだけで、皇帝は無言のうちに責められた気になるだろう。
フランツ、あなたが息子を追い詰めたのよ、と。
残念ながら、皇帝を癒やせるのは皇妃ではない。
事情をよく知らぬ第三者の方がいい。
適任と言えば、ルドルフの遺児である弱冠五歳のエリザベートだが、彼女もまた精神的なケアを必要としているのは間違いない。
父親の死をまだ漠然としか認識していないが、いずれ詳しく知りたくなるだろう。
皇太子の死をフランツに語らせるのはさすがに忍びない。
「……どうしたものかしら」
エリザベートが頭を抱えていると、このところ皇帝がウィーンのブルク劇場に足繁く通っていることをイルマに知らされた。観劇の趣味があったなど知りもしなかった。
「誰かお目当てでもいるの?」
「舞台女優のカタリーナ・シュラットです」
聞けば、ブルク劇場の専属女優であるという。
フランツ・ヨーゼフの即位25周年を記念してブルク劇場で催された観劇会「じゃじゃ馬ならし」の舞台に立っており、皇帝はそれから彼女に関心を寄せていたという。
「即位25周年? もうずいぶん前じゃない」
エリザベートの時間基準は、フランツ・ヨーゼフとの結婚が基準だった。
皇帝がエリザベートと結婚したのは即位からおよそ五年が経った頃だった。
即位25周年とは、結婚生活二十年を意味する。
十六歳で結婚したエリザベートは三十六歳ということだ。
「今、私、何歳だったっけ」
「正確にお伝えしましょうか」
「……いや、いい」
絶世の美貌には陰りが見え隠れし、すでに四十歳の声を聞いて久しい。
心はいまだに若いままであるが、時が進むのを止めることはできない。
暗殺されるのは六十歳であると運命づけられているのだから、自身の年齢を正確になど知りたくもなかった。
「カタリーナは皇帝の推しということね」
「平たく言えばそうですね」
推しは心の拠り所になる。
何より、皇帝が興味を示している女優とやらが気になった。
「その女優、ちょっと会ってみたいわね」
「承知しました。手配いたします」
ブルク劇場の楽屋で対面したカタリーナ・シュラットは肉付きの良い女性だった。
エリザベートよりもひと回りほど年下のようだが、コルセットをぎゅうぎゅうに締めた皇妃自慢の腰回りの細さと比べると、愛らしい子豚も同然だった。
皇妃がわざわざ乗り込んでくるとあって、劇場周辺は騒然とした。
「初めまして、皇后陛下」
「堅苦しい挨拶はいいわ。あなた、独身?」
エリザベートが不躾に尋ねると、カタリーナは臆することなく答えた。
「夫とは別居しております」
「あら、そうなの」
「子供は?」
「一人息子のアントンがおります」
カタリーナはウィーン近郊の都市バーデンに生まれた食料雑貨商の娘で、ハンガリー貴族と結婚し一人息子のアントンをもうけたが、息子を引き取り、夫とは別居しているという。
「既婚者なのね。それは結構」
「あの……、今日はどういったご用向きでしょうか」
「ちょっと会ってみたかっただけよ」
「はあ……」
カタリーナは訳が分からないという面持ちだったが、飾り気のない性格は好感が持てた。
「また近いうちに会いましょう、カタリーナ」
エリザベートはひらひらと手を振り、嵐のように去っていった。
ブルク劇場からの帰り道、イルマ・シュターライが褒めるでもなく言った。
「なかなか皇妃っぷりが板に付いてきましたね」
「褒めてる?」
「自然に偉そうな感じで、とても良いと思います」
「心は庶民のつもりだけど」
「どうだか」
「イルマ、あなたの方がよほど皇妃っぽいわよ」
「失礼いたしました。皇妃オタクなので口調が移ってしまったのかもしれません」
イルマはまったく悪びれもせずに言った。
「カトリーナを皇帝付きの女官にするというのはどう?」
「宮廷に仕える女官は、結婚すると退官するのが原則です」
「そうだっけ?」
絶妙なアイディアだと思ったが、イルマにあっさりと却下された。
「エステルハージ女官長は既婚者じゃなかったっけ」
「例外もあります」
とっくに解任されている例外を持ちだすな、と言わんばかりだった。
「宮廷で雇うのは無理か。じゃあ、どうしよう」
「彼女の肖像画を宮廷画家に描かせるという名目で呼び出し、それとなく皇帝と鉢合わせさせるというのはいかがでしょうか」
「イルマ、あなた天才ね。早速、手配して」
「承知いたしました」
カタリーナ・シュラットの肖像画を宮廷画家のハインリヒ・フォン・アンゲリに描かせることにして、皇帝を画家のアトリエに呼び寄せた。
「フランツ、あなたに贈り物があるの」
「なんだい?」
「アトリエにいらしてちょうだい」
フランツ・ヨーゼフ皇帝がアトリエを訪れると、カタリーナがモデルとして座っていた。
肉付きが良く、明るい雰囲気のカタリーナは、細過ぎる腰に黒喪を纏ったエリザベートとは対照的だった。宮廷画家は素知らぬ顔で肖像画を描き続けている。
偶然を装って鉢合わせするよう取り計らうと、皇帝もカタリーナも言葉を失った。
「皇帝陛下……」
カタリーナは時の皇帝がまさか居合わせると思ってもいなかったのだろう。
モデルとなりながら、口をパクパクと開け閉めした。
事前になにひとつ聞かされていなかった皇帝も驚きを隠せなかった。
推しに会えて硬直する皇帝という絵図はなかなか見物だった。
「カタリーナ、フランツはあなたの推しなの」
「……オシ?」
「ああ、推しという言葉は分からないか。平たく言うと、あなたのファンね」
「皇帝が私のファン……。恐れ多いことでございます」
舞台女優のカタリーナが恐縮した。
皇帝はまごつきながら、その場に立ち尽くしていた。
どうにもよそよそしい二人だが、エリザベートがお節介を焼いた。
「カタリーナ、あなたには皇帝の心の支えになってもらいたいの」
「どういうことでしょうか」
「皇帝の近くにいて、癒しになってもらいたい」
若かりし頃は相当な美男であった皇帝も、間もなく六十歳を迎える。
禿げ上がった妖精の王オーベロンのようで、今さらロマンスもへったくれもないだろう。
「私には勿体ない話でございます」
「嫌なら構わないけど」
「いえ、滅相もございません。私などでお役に立つのでしたら」
カタリーナの了解は得たが、肝心の皇帝が及び腰だった。
なにか気まずいことをひた隠ししているような気配だとエリザベートは直感した。
アトリエの隅に皇帝を呼び寄せ、自白するよう尋問した。
「私になにか隠していることがあるでしょう、フランツ」
「い、いや……」
「正直に言えば許してあげるわよ」
ちらちらと許しを請うような視線で、皇帝が小さな声で自白した。
「実は愛人がいる……」
エリザベートは血相を変え、皇帝に食って掛かった。
「いつから?」
「じゅ、十年くらい前から」
「名前は?」
「ア、アンナ・ナホフスキー……」
「上級貴族なの?」
「い、いや。籠職人の娘だったか」
皇帝に十年来の愛人がいたなんて初耳だった。
ルドルフ皇太子の死に打ちひしがれてのことではない。
それよりもずっと前からのことだから、とんだ裏切りだ。
「つ、つい出来心で」
「あなたの出来心は十年も続くのね」
「わ、私が愛しているのはエリザベート、君一人だけだ。ただ、君と過ごせるのは年に何日もない。寂しくて、つい……」
エリザベートの視線は冷え切っていたが、皇帝は弁解を重ねた。
「その女とは即刻別れて。手切れ金はたっぷり払ってあげて」
「あ、ああ。言う通りにする」
「手切れ金をケチらないこと。それが円満な別れのコツよ」
前世のことを思えば、エリザベートとて助言する立場にない。
だが、それなりの手切れ金を払ってくれたなら騒ぎはしなかった。
相手が逆上するなんて、想像さえもしなかった。
エリザベートは独断で、皇帝とカタリーナの交際の条件を取り決めた。
「カタリーナには毎年、私の結婚持参金の半額を支払うわ」
「幾らだったか」
「5万グルデンぐらいだったかしら」
相当な大金であるからか、カタリーナが縮み上がっていた。
「そ、そんな……。いただけません、そんな大金」
「いいのよ。払うのは私じゃなくて、フランツだから」
金額がいくらであるかは問題ではない。
結婚持参品に要した金額の半額を毎年払う。
あくまでも半分、それが核心だ。
カタリーナには私の役割を半分担わせる。
そういう意味を込めての代価だ。
皇帝フランツ・ヨーゼフの血を半分、皇妃エリザベートの血を半分ずつ受け継いだ皇太子ルドルフが亡くなった。調べれば調べるほどに謎が深まる不可解な死だった。
いつもと変わらず公務を続けるのも、いつまでも喪服を脱がないのも、悼み方は違えど、皇帝も皇妃も半身を亡くしたに等しい。
どうしても埋まらない空虚な半分を満たしてやって欲しい。
甘美な愛情などとっくに冷めていたが、子を失った悲しみはいつまでも共有している。
「フランツのこと、よろしく頼むわね、カタリーナ」
「は、はい」
皇帝のもとにカタリーナ・シュラットを残し、エリザベートは立ち去った。
アトリエ近くに待たせてある馬車まで足早に歩く。
孤独な皇妃に付き添うのは、己と同化したような影ひとつ。
イルマ・シュターライが感情の混じらぬ声で言った。
「最後の日までご案内申し上げます、皇后陛下」




