ラストダンス
エリザベートが最後に採用した女官として、イルマ・シュターライが顕現した。
皇妃の影として、一心同体のように付き添ってきたイルマが肉体を伴って目の前に存在している。いささか奇妙な気分だった。
「あなた、そんな顔をしていたのね」
年齢はおそらく二十代半ばほどであろうか。イルマは鼻っ柱が強そうでもあり、繊細そうでもある捉えどころのない顔立ちをしていた。
「イルマ、あなた年齢は幾つ?」
「皇妃より二十六歳年下でございます」
「それで幾つなのよ」
「三十歳でございます。年齢など記号に過ぎませんが」
ちょっと棘のある言い草もご愛敬だ。不敬罪に問うようなことでもない。
「エステルハージ女官長が四十歳年下だったわね。年を食ったものだわ」
絶世の美女と謳われたエリザベートにも着実に老いの影が忍び寄っていた。
持病の坐骨神経痛が悪化しており、病院があるアムステルダムに治療に通い、温泉地で保養するようになった。旅行先はもっぱら近距離ばかりになった。運動不足の女官たちが音を上げるようなハイキングに出掛けることなど、めっきり絶えた。
「皇妃が正しく暗殺されるその日まで、誠心誠意お仕えいたします」
「忘れていたのに、いちいち思い出させないでちょうだい」
「失礼いたしました」
皇妃オタクのイルマにとって、エリザベートの暗殺は絶対に揺らいではならない人生の締め括りである。
エリザベートは自分の年齢も、今が西暦何年かもきちんと把握せずに過ごしていた。
終わりが確定している最後の日付を指折り数える趣味はない。
「私はたしか享年六十歳なのだったっけ」
「左様でございます」
「寿命はあと四年ぐらいってこと?」
つい残された時間を数えてしまい、エリザベート・佐藤は後悔した。
「嫌だわ。死ぬ日のことなんて考えたくもない」
暗殺される日のことはできるだけ頭から締め出していた。
それでなくとも、このところ身内が立て続けに亡くなっていた。
父のマクシミリアンが亡くなったのを皮切りに、息子のルドルフ皇太子が不可解な心中を遂げた。息子を失った翌年、姉のヘレーネが亡くなった。
それから母のルドヴィカが亡くなり、弟のマックス・エマヌエルも亡くなった。
愛娘のマリー・ヴァレリーは結婚し、巣立っていった。
この人生は借り物だと分かりきっているのに、どうしようもない喪失感が襲ってきた。
「ねえ、イルマ……」
「なんでしょうか」
さして親密そうでもない事務的な口調にある疑念が湧いた。
「ひょっとして、あなたが暗殺の手引きをしたの?」
妥協により成立したオーストリア=ハンガリー二重帝国は、多民族国家として内部に複雑さを抱えながらも、一定の経済発展と文化的な繁栄を享受していた。
帝国は依然として、ヨーロッパの大国としての地位を保っていた。
盤石とは言えないまでも、帝国の崩壊がすぐそこに迫っているようには思えなかった。
「ある意味ではそうとも言えるかもしれません」
イルマはなんとも意味深な調子で言った。
息子のルドルフを亡くして以降、ずっと黒喪を纏っていたエリザベートが達観したように微笑した。皇帝に一目惚れされた十五歳から、暗殺されるまでの六十歳までの間、イルマは影のようにぴたりと寄り添ってきてくれたのだ。
イルマはおよそ半世紀にわたって、皇妃の影であり続けた。
暗殺の手引きが目的であるなら、いつだって実行できた。
「今さら手引きもクソもないわね。悪いわね、忘れてちょうだい」
国費を使いまくって放蕩に耽ったところで、死は平等に訪れる。
それならば、せめて残った時間を味わい尽くすに限る。
「私の遺体は海に沈め、墓はコルフ島の波打ち際に建ててちょうだい」
「……承知しました」
残された時間は飛ぶように過ぎていった。
喪服に身を包んだエリザベートの傍には、常にイルマ・シュターライの姿があった。
フランス元皇后が暮らす南フランスを訪れ、息子を亡くした母親同士で慰め合ったりもした。
いつもと変わらず保養に出掛け、イルマと供に訪れたのはスイスのレマン湖畔だった。
レマン湖東岸のモントルーの北にあるコーに到着し、一週間ばかり滞在した。
登山電車で岩場に登ると、雄大なアルプスの山並みに囲まれたレマン湖が一望できた。
「……美しいわね」
心が洗われるような美しい風光に感激し、ウィーンにいる皇帝に手紙を書き送った。
蒸気船でレマン湖西岸のジュネーブに移り、モンブラン川の畔にあるホテル・ボー・リヴァージュに投宿した。
「ホーエネンブス伯爵夫人という仮名で投宿しております」
「そう、ありがとう」
お忍びで旅から旅に明け暮れていたエリザベートは仮名で投宿することがざらだった。
しかし、ヨーロッパ中に知れ渡っている美貌は隠しようもなかった。
その上、侍従や女官が十人以上も同行していたため、オーストリア皇后エリザベート陛下御一行であることはホテル関係者にはバレバレであった。
日傘を片手にジュネーブの街を観光して回り、お菓子やアイスクリームを買い求めた。
新聞記者に隠し撮りされていたのか、皇妃エリザベートがジュネーブに滞在していることが新聞記事に報じられていた。
その日の午後、エリザベートは再びレマン湖東岸に向かう予定だった。
宮廷侍従長、宮中秘書官、皇后侍従などは一足先に特別列車で出発した。
エリザベートは女官のイルマ・シュターライと後から蒸気船で発つことになった。
市内で、皇帝や娘、孫たちへの土産を買い、いったんホテルに戻って休憩した。
ホテルのすぐ傍にある船着場から蒸気船が間もなく出発しようとしていた。
蒸気船の出発の鐘が聞こえてきたので、心持ち急いで埠頭に向かった。
「船出はもうすぐです。急ぎましょう」
イルマに急かされ、足早に歩いている途中、エリザベートは駆け寄ってきた若者と接触し、仰向けに倒れた。日傘を盾にしたが、うまく避け切れなかった。
ちくりと胸が痛んだが、ただそれだけだった。
エリザベート・佐藤が軽口を叩いた。
「……なに、あれ。ぶつかりおじさん?」
現代日本では、駅や繁華街などの混雑した場所で、女性をターゲットにわざと体当たりしたり、鞄や体で突き飛ばして憂さ晴らしする迷惑な中年男性が社会問題となっていた。
「大丈夫ですか」
「ぜんぜん平気よ。ちょっと胸がチクッとしただけ」
エリザベートは平然と起き上がり、そのまますたすたと船着き場に向かった。
「無政府万歳! くたばれ貴族階級!」
エリザベートに接触した若者は通行人に捕えられ、大声で叫んでいた。
「なんだったのかしら、あれ」
「……ルイジ・ルケーニ」
「えっ?」
イルマの呟く声が急に遠ざかっていくように聞こえた。
くらりと目眩がした。
意図的な気絶ではない。よろよろと踊るように倒れ込んだ。
船着き場のタラップを登り、船上に至ったところで、エリザベートは昏倒した。
イルマは動転しつつも乗船者の中に看護婦を見つけ、応急処置をさせた。
コルセットを緩めると、肌着には血が滲み、左胸にべっとりと血糊が付いていた。
エリザベートはほんの一瞬だけ、意識を取り戻した。
「いったい何が起こったの……」
イルマはエリザベートの胸をはだけ、心臓付近に小さな刺し傷があることを発見した。
蒸気船はすでに出港していたが、イルマが叫んだ。
「大変……、心臓を……。このお方はオーストリア皇妃エリザベート様です。ただちに引き返してください」
イルマは船長に必死で懇願した。
船は急いで船首を回し、医者が慌てて駆けつけ、応急手当を受けたが、皇妃エリザベートは二度と目を覚ますことはなかった。
1898年9月10日、エリザベートは通り魔に暗殺された。享年60。
「……不幸な事故だったんです。そうとしか言えない」
最後の女官イルマが弁解するでもなく言った。
凶器は、陳腐な自作のヤスリだった。
犯人はイタリア人の無政府主義者――ルイジ・ルケーニ。
暗殺というほどの計画性があったわけではない。
偶然、新聞記事で、オーストリア皇妃のエリザベートがジュネーブに滞在していることを知った。
王族を殺したかった。王族なら誰でも良かった。
凶器とすら言えない代物であったが、それがたまたま命中した。
エリザベートはすれ違いざまに刺された際、あまりにきつくコルセットを締めていたために出血が抑えられ、自分が刺されたことに気付かず歩き続け、結果として手遅れとなった。
――まあ、このウエストの細さがのちに命取りになるんですけど。
イルマ・シュターライの意味深な言葉がようやく腑に落ちた。
「――いかがでしたか。これで貴方も立派な皇妃オタクです」
佐藤エリザベスは薄れゆく意識の中で、ここが病床であると気がついた。
女官イルマは、成仏できなかった魂に「一途に愛されるエリザベート体験コース」を案内する係であったらしい。
ありがとう。なかなか楽しかった、と言いたかったが、声にならない。
貢いだ相手に滅多刺しにされたのが致命傷になったのだろう。
凶器がショボいヤスリであろうが包丁であろうが、死ぬときは死ぬのだ。
刺されれば命を落とすこともある。
絶世の美貌の皇妃であろうが、名もなき佐藤であろうが、命は儚い。
皇妃案内人――イルマ・シュターライが淡々と告げた。
「本コースはたいへん人気でございまして、皇妃案内人の数が圧倒的に不足しております。立派な皇妃オタクとなられた貴方様には新たな皇妃案内人となる資格がございます。ひと通り史実通りにご案内し、皇妃没後に回想録を書いて業務終了となります。ぜひ、この機会に挑戦してみてはいかがでしょうか」
一途なスパダリに愛されたい人生だった。
死を間もなくに迎えて、その気持ちに変化があったかは定かではない。
そんなことより、皇帝とのお見合いから暗殺まで付き合うのは結構しんどいと思う。
次なる皇妃案内人のお役目に同意するか否か。
皇帝との結婚を受け入れるよりも悩む難問だった。
今際の際で、絞り出すように意思を告げる。
イルマ・シュターライが満足そうに頷き、その場で回想録を書き始めた。
「なお、運命の変更は承っておりません。あらかじめご了承ください」




