聞き取り調査
皇太子ルドルフを亡くして以降、エリザベートは常に喪服を着続けた。
葬儀が済んでも、その死がちっとも受け入れられなかった。
エリザベートの肉体に魂が宿る以前、佐藤であった際のあだ名はダメ男製造機であった。
影のように付き従う女官イルマにそれとなく訊ねた。
「私がルドルフを駄目にしてしまったのかしら」
「いえ、それは違うかと」
「じゃあ、どうしてルドルフは亡くなったの」
「歴史的な必然です。皇妃のせいではありません」
「エリザベートの暗殺が確定事項であるように、ルドルフの自殺も確定事項だったということ?」
「その通りです」
皇妃エリザベートの魂が佐藤であろうとなかろうと、皇太子ルドルフの自死は避け得ぬものであった。そういう結論であるなら仕方がないが、死の真相は釈然としないものだった。
「まずもって、マリー・ヴェッツェラって誰なのよ」
「気になるなら、お調べになったらいいのでは」
「でも、ルドルフについての話題はタブーじゃないの」
「皇妃が独自に聞き込むのであれば、問題ないのでは」
「ええ、そうするわ」
エリザベートは手始めにステファニー妃を呼びつけ、洗いざらい事情を聴取した。
「ルドルフのことだけど……」
重々しく切り出すと、長身のステファニー妃は顔面蒼白だった。
「あなたの知っていることをすべて教えてちょうだい。マリー・ヴェッツェラとは何者なの」
「マリー・ヴェッツェラなど、ただの小娘です。問題はミッチー・ガスパールです」
「……どういうこと?」
「ルドルフはマイアリングに行く前夜にミッチー・ガスパールを訪ね、明け方まで過ごしています」
死の間際に会いに行くほど、皇太子ルドルフはよほどご執心だったようだ。
ステファニーはルドルフの動向にやけに詳しいが、離婚問題に揺れていたこともあって、密偵に身辺を探らせていたからに違いない。
「ミッチー・ガスパールに一緒に死のうと持ちかけ、断られた。それでマリー・ヴェッツェラをマイアリングに呼び寄せた」
「それはあなたの憶測かしら」
ステファニー妃はなんとも答えなかった。
「マリー・ヴェッツェラは死を供にする代役だった。そういうことね」
「はい……」
「それで、ルドルフとマリーはいつ出会ったの」
「前年の冬です。もともと二人は知らぬ仲ではありませんでした。マリーの母親の男爵未亡人ヘレーネ・ヴェッツェラは頻繁に宮廷に出入りしていましたから」
「そんな人、いたかしら」
エリザベートは宮廷生活を放り出して、気ままに旅に出掛けていたせいで、宮廷内の人間関係なんぞに気を配っていなかったのが今さらながらに悔やまれた。
「マリーはトルコ系の血を引いていました。父親はオーストリアの外交官で、トルコ人銀行家の娘エレーナ・パルタッツィと結婚し、二男二女をもうけました。しかし、エジプト駐在時代に病に倒れ、カイロで死去しています」
「なるほど、それで男爵未亡人ということね」
「エレーナは家族とともにウィーンに移り住み、名前をウィーン風のヘレーネと改めた。財産はあったので慈善事業に寄付したりして爵位は授けられた。でも、正統の貴族からはちっとも相手にされなかった。何とか娘を良縁にありつかせようとして、無理やりにでも宮廷に食い込もうとした」
宮廷内の人間関係に聡いステファニー妃が忌々しげに続けた。
何かにつけ、宮廷に出入りしていた男爵未亡人ヘレーネ・ヴェッツェラ。
上流社交界の末席に連なっていた十七歳のマリー・ヴェッツェラ。
話を聞くうち、おおよその構図が見えてきた。
「貴族からは相手にされていなかったのでしょう。どうしてルドルフと接点があったの」
「私との仲が冷え切っていましたから……」
ステファニーが微妙に申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「マリー・ヴェッツェラはかねてから皇太子に憧れていたようです。皇太子に一目だけでも会いたいと手紙を書いたところ、ルドルフはマリーの家の近くに馬車を停めて待っている、と返事をしたそうです」
「ずいぶんと無責任な返事ね」
泥沼の離婚問題に頭を悩ませていたルドルフはそれでなくとも多忙で、気を紛らわすためのほんの出来心であったのかもしれない。約束の日の夜半、指定された時刻にマリーが顔を出すと、そこには紛れもなく皇太子の馬車が待っていた。
「でも、いつも夜更けに馬車で逢引きなんていかないでしょう」
「はい。ですから、ルドルフは従姉にあたるラリッシュ公爵夫人に仲立ちをしてもらっていました」
「まあ、ラリッシュ夫人……」
エリザベートは裏切られたとばかりに心痛の面持ちを浮かべた。
ラリッシュ夫人は、エリザベートの長兄ヴィッテルスバッハ大公とさる女優との間に生まれた女性で、本来であれば宮廷への出入りなど許されない立場であった。
しかし、エリザベートが特別に宮廷への出入りを許して可愛がっていた。
ルドルフもラリッシュ夫人とは気楽に何でも話し合う仲であった。
マリー・ヴェッツェラだけではおいそれとは宮廷に立ち入れないが、ラリッシュ夫人が一緒にいれば、誰も怪しみはしなかった。
「……ある意味、私が招いた種ということね」
「ラリッシュ夫人はマリー・ヴェッツェラと連れ立って、ホテルや宮廷内のルドルフの部屋にやって来ました。一度や二度だけではありません。私の知る限り、二十回はルドルフの部屋に忍び込んでいます」
ひと通り話を聞き終え、エリザベートはステファニー妃を労った。
「苦労をかけたわね」
「いえ、滅相もない」
ステファニー妃が言いにくそうにぽつりと口にした。
「以前、皇帝に申し上げたことがあるんです」
「フランツに?」
「はい」
皇太子ルドルフの顔色が優れず、疲労が色濃いことにステファニーは気が付いていた。
このままでは何か恐ろしいことが起こりそうな予感がした。
皇太子妃とはいえ、許可なしに皇帝執務室に立ち入ることは許されない。
だが、何よりも心配が勝った。
皇帝執務室の扉を開け、ステファニーは皇帝に進言した。
「ルドルフ殿下に大変なことが起きそうな予感がいたします。何か思い悩んでいるようで、何事にも上の空でいらっしゃいます」
「そなたの思い過ごしだ。ルドルフは公務に忙しく、疲れているだけだろう。心配することはない」
皇帝はまともに取り合わず、ステファニー妃の肩に手を置いて慰めた。
宮廷では皇帝も皇后さえもルドルフの思い詰めた心理に気が付かなかった。
ステファニー妃だけは勘付いていたが、親族の誰にも漏らすことはなかった。
どうして私に言ってこなかったの、と詰っても手遅れだ。
「今となってはもう取り返しのつかないことね」
エリザベートは悄然と立ち尽くすステファニー妃に告げた。
「話してくれてありがとう。もう下がって結構よ」
ステファニーは気づいていた。
皇帝は取り合わなかった。
エリザベートは長らく不在だった。
誰か一人が悪いわけではないが、全員が少しずつ手遅れだった。
エリザベートの影である女官イルマが窘めるように言った。
「皇太子の死は歴史的な必然です。調べるだけ無意味では」
「いいの。私の気が済まないだけだから」
「そうですか。では、気の済むまでお調べください」
歴史の修正を許さないイルマにしては優しいが、ついでのひと言が余計だった。
「どのみち、歴史が書き換わることはあり得ませんから」
続けて呼び寄せたのは、マリーの母の男爵未亡人ヘレーネ・ヴェッツェラだった。
皇后エリザベート直々に呼びつけられたヘレーネは見るからにびくついていた。
「ルドルフの件を蒸し返して罪を問いたいわけではないの。安心してちょうだい」
「はあ……」
「あなたの知っていることを話してちょうだい」
骸骨のように頬のこけたヘレーネ・ヴェッツェラは脅えながら話し出した。
「皇帝の指示で娘を連れてウィーンを離れました。ロンドンに渡り、半年ほど滞在しました」
フランツ・ヨーゼフ皇帝はステファニー妃の進言を軽んじてはいなかったらしい。
ヴェッツェラ親子を物理的に遠ざけたが、遠くに離されれば離されるほど、燃え上がるのが恋というものだ。結果として、皇帝は不毛な恋を焚き付けただけだ。
「ウィーンに戻ってまいりましたが、それから娘は足繁く皇太子のいらっしゃるホーフ部ブルク宮殿に足繁く通うようになりました。私もなんとか引き離そうとしましたが、もうどうにもならなくなっていました」
どうにも弁解じみて聞こえるが、丸っきりの嘘とも聞こえなかった。
宮廷になんとか食い込もうとしていた未亡人の母親が、ルドルフ皇太子には相手にされないからと、むざむざ手を引かせるだろうか。せめて手切れ金ぐらいは要求しそうなものだ。
それにロンドンに渡っていたという証言もなかなかに怪しい。
「皇帝がほんとうにそのような指示を?」
「……はい。……いいえ」
ヘレーネは曖昧に頷き、それから小さく首を横に振った。
「皇帝の指示というのは偽証かしら」
「い、いえ……」
「フランツに聞けばすぐ分かることよ」
エリザベートは時の皇帝の名をあまりにも気安く呼んだ。
虚偽であることなど、すぐに分かるわよ、という脅しだ。
皇后の圧力にヘレーネは今にも泣き出しそうだったが、歴史を変えたいわけでも、誰かを断罪したいわけでもない。
ただ、母として納得したい。
愛する息子が心中事件を起こしたその心根を知りたかった。
ただただ、それだけのことだ。
「ロンドンに渡ったのは、お腹の中のルドルフの子を中絶するためだった。実はそういうことだったんじゃない?」
十九世紀末に妊娠中絶が社会的に容認されているかの知識はないが、現代であれば、いくらでもあり得そうなことだ。
「まさか……」
男爵未亡人の目が泳ぎ、それっきり二の句を継げなかった。
「ヘレーネ、あなたが知っているのはそれだけかしら。他に言い残したことは?」
「い、いえ。他には何も……」
脅え切っているヘレーネもまた、娘を失っている。
ルドルフの葬儀は盛大に行われたが、マリーの遺体は僧院に埋葬され、近親者は誰ひとりとして立ち会うことが許されなかった。
皇帝の指示とはいえ、明らかに命に差があるのは良い気分ではなかった。
「あなたも娘を亡くしているのよね、ヘレーネ。遺体を見ることも悼むこともできなかった。申し訳ない。どうか許してちょうだい」
「め、滅相もございません。皇后陛下」
深く頭を下げた後、子を失った母同士で抱擁を交わした。
男爵未亡人が立ち去ると、普段着となった喪服がずしりと重たく感じられた。
宮中の影と化していたイルマが暗闇から頭をもたげた。
「皇妃はお優しいですね」
「ただの偽善よ」
宮廷内では、皇妃がルドルフ皇太子の死の真相を探っている、と噂になっていた。
だが、いささかの迷いもなかった。
「ラリッシュ公爵夫人を呼んでちょうだい」
宮廷に呼びつけられたラリッシュ夫人は亀のように縮こまっていた。
「お久しぶりね」
「はい。お久しぶりでございます、皇后陛下」
ラリッシュ夫人の双眸には脅えの色が滲み、親密さはすっかり消え失せていた。
「そんなに脅えないでちょうだい。ルドルフの一件を知りたいだけだから」
「ルドルフ皇太子のことを、ですか」
「ええ。あなたの知っていることを教えてちょうだい。何ひとつ隠さずね」
ラリッシュ夫人は決して皇妃と目を合わさず、ずっと下を向いていた。
「あれは三ヶ月ほど前であったでしょうか。マリーと一緒に、宮殿にいらっしゃるルドルフ皇太子を訪ねました。皇太子は私とだけ話したいから、と言って、マリーひとりをご自分の部屋に残して出ていらっしゃいました。その時、ちらりとですが、見えてしまったのです」
「……何を?」
エリザベートがごくりと唾を飲み込んだ。
「皇太子の机の上に、頭蓋骨とピストルが置いてあったのです」
部屋に戻っていった皇太子にマリーは不安そうに言ったという。
「恐ろしゅうございます、陛下」と。
ラリッシュ夫人が顔を上げずに言った。
「あの頃から、マリーは死に関して関心を持ち始めたのかもしれません」
「どういうこと?」
「マリーからのクリスマスプレゼントに写真が添えられていました。その裏に、こう書かれてあったのです。私の最後の写真です。死ぬまであなたに忠実です」
にわかには作り話とは思えなかった。
ラリッシュ夫人に宛てた手紙は、実際はルドルフ皇太子に宛てたものだったのだろう。
そうであれば、よくよく意味が伝わる。
「……心中の約束をしたということ?」
エリザベートの声が心持ち震えた。
ラリッシュ夫人はひたすら縮こまっており、うんともすんとも答えなかった。
ステファニー妃の推測ではあるが、ルドルフは愛人のミッチー・ガスパールに「一緒に死のう」と持ち掛けている。
その裏で、年若いマリー・ヴェッツェラと心中の約束を交わしていた。
一の矢が駄目でも、二の矢の用意がなされていた。
死を供にする相手が相違したとしても、ルドルフの死の希求は半端なものではなかった。
「いったい、なにがルドルフをそこまで追い詰めたの……」
証言を聞けば聞くほど、余計に分からくなっていく気がした。
それから、思い出したようにラリッシュ夫人が言った。
「そう言えば、プラーター公園でルドルフ皇太子にお会いしました。ずいぶんと思い詰めた顔でこうおっしゃったのです。近く、マイアリングに行こうと思っている、と」
ルドルフは興奮気味で、異様に目が血走っていたという。
「あなたが助けてくれなければ、私は破滅してしまう。私の苦しみは誰にも理解されまい。マリー・ヴェッツェラを連れてきて欲しい。彼女だけが私の危機を救えるのだ」
あまりにも鬼気迫る様子であったため、ラリッシュ夫人は言われるがまま従った。
公爵夫人は約束通り、マリーを連れてホーフブルク宮殿を訪れた。
「十分ばかり、マリーと話をしたい」
そう言って公爵夫人を控えの間に残し、厄介払いした。
扉が締め切られる際、マリーがそっと紙片を手渡してきた。
紙片にはこう記されていた。
――私はもう生きていられません。今日、大きな一歩を踏み出すでしょう。
驚愕した夫人は扉を開けようとしたが、固く閉ざされ、開くことがなかった。
ふと窓から下を覗くと、マリーが馬車に乗り込むところだった。
皇太子はマリーを先に向かわせ、自身は後から向かう手筈のようだった。
「私、大慌てで皇太子を追いかけました。そうしたら、ピストルを向けられました」
銃口を向けられた恐怖が蘇ったのか、ラリッシュ夫人が涙を流した。
「このことは一切他言しないでくれ。あなたとはこんな形で別れたくはなかったが」
射殺も辞さない様子のルドルフは狂気に満ちていた。
ラリッシュ夫人が弁解するように言った。
「私、それからすぐに警視総監に通報いたしました。マリー・ヴェッツェラが行方不明になった、と。行き先がマイアリングだとまでは言いませんでしたが」
「あなたが正しく行き先を告げていたら。いえ、今さら言っても詮ないことね」
夫人は夫人の立場で、出来るだけのことはしたのだ。
あなたが皇太子はマイアリングに向かった、と言っていたら心中を防げたかもしれない、と責めるのはお門違いだ。
ルドルフはラリッシュ夫人を撃ち殺すのも辞さないほど、追い込まれていた。
「……強迫観念か」
将来を嘱望されたルドルフが死ななければならないと思い詰める強迫観念を抱えていたなんて、ちっとも見抜くことができなかった。
ラリッシュ夫人が辞去した後、何気なくイルマに訊ねてみた。
「皇太子の死は定説ではどうなっているの?」
しかし、イルマはいつにも増して素っ気なかった。
「自らお調べになると決めたのです。予備知識など不要では」
女官にあるまじき態度だが、実際その通りだった。
母として納得できるかどうか、ただそれだけなのだ。
後付けの定説を知ったところで、おそらく何の役にも立ちはしまい。
「分かったわよ」
「気の済むまでお調べください。残された時間はまだあるのですから」




