遺書
葬儀が終わった深夜、皇妃エリザベートはルドルフの棺が安置されたハプスブルク家の霊廟を訪れた。暗く凍える地下室に蝋燭を灯し、愛息の死をいつまでも悼んだ。
「……ルドルフ、ルドルフ、ルドルフ」
宮廷には重苦しい沈痛な空気が立ち込め、執事も女官も侍女も一様に下を向き、音も立てないように足早に立ち去っていく。
まるで禁忌かのように、誰も皇太子の死については触れようとはしない。
皇后エリザベートは部屋に閉じこもったまま、いつまでも喪服を脱がなかった。
死の二年前に両親に宛てた遺書を何度となく読み返した。
私は今、この遺書を完全に平静な気持ちでしたためております。
皇帝、皇后両陛下、私が死んだ時には、どうかこの遺書の執行人となって下さいますよう、心からお願い申し上げます。
私は娘エリザベートを、動産、不動産を含めた全財産の包括相続人にすることに決めました。妻ステファニーは、私の全財産を利用享受できることを認めますが、再婚する場合はその利用権を停止いたします。
ルドルフ
遺書では、妻ステファニーよりも娘エリザベートにより多くの配慮を示していた。
二年前に記された遺書ばかりでなく、直近の遺書も見つかったが、ルドルフは皇帝にだけ遺書を書き残さなかった。
父は最後の瞬間に息子から見捨てられたのであった。
妹ヴァレリーへの遺書には亡国の予感が綴られていた。
国の要である皇帝がいなくなれば、この国は滅びる。
皇帝亡きあとは、ただちに国を出るように。
皇帝には書き残さなかった遺書も、妻のステファニーには書いた。
ステファニーよ。
これであなたは私から解放されることになります。
あなたなりの生き方で、どうか幸せに過ごしてください。
私たちのたった一人の娘エリザベートのことはよろしく頼みます。
私は静かに死んでいきます。
それだけが私の名誉を救ってくれるでしょう。
さようなら。
ルドルフ
エリザベートは憤ったように言った。
「……まるで当てつけのような遺書ね」
ルドルフがなぜ自死を選んだのか、どうしても飲み込めなかった。
皇后宛ての遺書は、どうにも当たり障りがなかった。
素晴らしい晩で、ブラートフィッシュのウィーン民謡は実に見事でした。
「ブラートフィッシュ? 誰のことかしら」
皇后エリザベートは宮廷中に命じた。
「皇太子の死について、なんでもいいわ。知っていることがあれば教えてちょうだい」
ひとりの侍女がエリザベートを訪ねてきた。
「ステファニー様の侍女でございます」
罪の重さに耐えきれないと言った面持ちで、ルドルフ皇太子がマイアリングへ向けて、死の旅路に向かう直前の出来事を語った。ルドルフは娘のエリザベートの居室を訪れたが、
「エリザベート様はお手洗いでございます」
と侍女が答え、部屋に通さなかった。
落胆したルドルフは、行き交ったステファニーの侍女に怒ったように言った。
「会わせてもらえなかったよ。まったく気の利かない奴だ」
侍女は宮廷の廊下を遠ざかっていくルドルフ皇太子の背中を見ていた。
「宮廷を去る直前に寄ったのは、娘の居室であったということね」
「左様でございます」
「最後に一目でも会えていたら、なにか変わっていたかしら」
エリザベートが沈痛の面持ちで言った。
ステファニーの侍女が所在なさげに立ち尽くしていた。
「ありがとう。もう結構よ」
「はい。失礼いたします」
皇后に向かって一礼すると、侍女はそそくさと退出した。
孫娘のエリザベートはわずか五歳という幼さで父を失った。
ルドルフの死後まもなく、ステファニーは娘のエリザベートを連れ、ウィーンから逃げるようにアドリア海沿岸のミラマーレの別荘に引き籠った。
幼い娘には「お父様は狩猟中の不慮の事故でお亡くなりになった」と説明しただけだった。
「……不慮の事故、そんなことがあるものですか」
皇后エリザベートが苦々しく呟いた。
愛息を失ったフランツ・ヨーゼフ皇帝は表面的には毅然とした態度をとっていた。
滞りなく葬儀を終えると、ただちに政務に励んだ。
わずかでも皇帝が弱みを見せれば、帝国全土の信頼が揺らぐ。
早朝四時起きの日課はいささかも変えず、ルドルフの銅像建立を禁じた。ルドルフの名前を禁忌として、外見的にはルドルフの死をハプスブルク家の恥と切り捨てた。
しかし、内心は違う。
皇帝の心は粉々に打ち砕かれていたのだろう。
ルドルフが皇帝にだけ遺書を残さなかったことが絶望感に拍車をかけていた。
フランツ・ヨーゼフ皇帝がエリザベートの居室を訪れ、呻くように言った。
「ルドルフは私の喜びの全てであり、私は彼のために働いてきた。だが、もはやその喜びはない。今や私は帝国と自分の義務のためだけに働いている」
黒喪のエリザベートは黙って皇帝を抱きしめた。
暗く打ちひしがれた皇帝はエリザベートの腕の中で静かに涙をこぼした。
「私は己の身体が続く限り働くが、いつまでも続くかは神のみぞ知る。これからどうしたらいいか」
「悲しいのは分かっております。気持ちは同じです」
厳粛な葬儀の際、一粒たりともこぼれなかった滴がいつまでも途切れなかった。




