不穏
末娘のマリー・ヴァレリーが近く、トスカーナ大公と結婚することが決まった。
皇太子ルドルフの十歳年下のヴァレリーの婚約祝いの打ち合わせと称して、ルドルフとヴァレリーを呼びつけた。ホーフブルク宮殿に先に到着したヴァレリーは娘というよりも女友達というような気安い仲だ。
「婚約祝いは建前で、お兄様の離婚問題の件ですよね」
「家族晩餐会でも開いて、ルドルフとステファニーのよりが戻ればいいのだけれど」
「お兄様は離婚なさったとしてもどうするおつもりなのでしょう。カトリックでは死別以外の再婚が禁じられていますし、プロテスタントにでも改宗するおつもりなのでしょうか。戒律儀礼に厳しい宮廷が許すはずもないと思いますけど」
ヴァレリーが懸念を口にした。
「結婚生活はままならない。離婚したとしてもカトリックのままでは再婚できない。いずれにしても一筋縄ではいかないわね」
「はい」
末娘とお喋りしていると、軍服姿のルドルフが姿を現した。
いやに疲れ切った顔をしており、まるで生気が感じられなかった。
「顔色が悪いようだけど、どうかなさいましたか」
エリザベートがそれとなく訊ねたが、ルドルフは心ここにあらずだった。
「いえ、なにも。大丈夫です……」
ブーツはびしょ濡れで、軍服はあちこちが薄汚れていた。
「軍服がずいぶん汚れているけど」
「王立オペラ劇場の前でデモ隊と衝突しまして」
ルドルフは何事もなかったかのように言った。
プロイセンのフリードリヒ大王と戦った女帝マリア・テレジアの除幕式が近付いており、歩兵軍総司令官のルドルフが視察に訪れた。マリア・テレジアは反プロイセン、反ドイツの愛国心の象徴であるが、親ドイツ派グループがマリア・テレジア像の建設に反対し、除幕式を妨害し続けていた。
ルドルフは宮廷馬車に乗り、王立オペラ劇場近くまで行くと、デモ隊と衝突した。
ドイツ民族主義者たちは徒党を組み、シュプレヒコールを上げた。
「ホーエンツォレルン家万歳! ドイツ万歳!」
目抜き通りを埋め尽くしたデモ隊はルドルフが乗った宮廷馬車を認めるなり、ぐるりと周囲を取り囲んだ。反ハプスブルク感情を爆発させ、当てつけのように叫んだ。
「ドイツ皇帝万歳っ! ドイツ皇帝万歳っ!」
身動きできない馬車から辛うじて脱出したルドルフは、ホーフブルク宮殿まで冬の雪の夜道を歩いて帰ってきたようだ。
「まあ、そんなことが。ともかく無事でよかったわ」
エリザベートはほっと胸を撫で下ろした。
自由人のエリザベートの影響もあり、ルドルフは民族主義には理解がある。
ハンガリーやチェコ、スロヴァキア、南スラブ人たちの主張にはよく耳を傾けた。
ハプスブルク王朝の枠内で、共存共栄をはかろうとしていた。
しかし、他民族との共存を許さないドイツ民族主義には狂暴な独善性を嗅ぎ取っていた。
「ハプスブルク家が滅びるとすれば、スラブ民族主義のためではなく、ドイツ民族主義によってでしょうね」
あまりにも深刻な調子でルドルフが言った。
「ハプスブルク家が滅びる? お兄様、少々お疲れなのでは」
妹のマリー・ヴァレリーが笑って取りなしたが、ルドルフの虚ろな表情は変わらなかった。
ルドルフの懸念は、歩兵軍総司令官としての実感なのだろう。
しかし、エリザベートは知っている。
ハプスブルク家が滅びるのは自身が暗殺されるよりも先のことだ。
厳密にいつかは知らないが、エリザベート自身の結末は確定している。
暗殺され、60歳で亡くなる。
その先のことに関しては、残念なことに予備知識がない。
「帝国は今すぐに滅ぶということはないでしょう。それよりもルドルフ、私たちが死んだ後もヴァレリーを可愛がってくださいね」
長女ゾフィーはわずか二年で早世してしまった。
親よりも早く子が亡くなることほど悲しいことはない。
次女ギーゼラ、長男ルドルフ、三女マリー・ヴァレリーには、死期が確定している母より長く生きてくれたらいい。
生きていてさえくれれば、結婚生活で少々しくじったことなど大した問題ではない。
なにか思うところがあったのか、ルドルフが突然、子供のように泣きじゃくった。
マリー・ヴァレリーがおろおろと駆け寄った。
「どうなさったのです、お兄様」
ルドルフがあまりにも激しく泣くので、エリザベートもマリー・ヴァレリーもつい泣き出してしまった。なぜ泣きじゃくるのか、皇后には見当もつかなかったが、皇太子ルドルフはいつまでも泣き続けた。




