貴賤結婚
マリー・ヴァレリーに一目惚れのお相手ができた。
「あら、どんなお相手?」
「舞踏会でお会いしたの。従兄弟のトスカーナ大公フランツ・サルヴァトール」
「また、従兄弟……」
報告を受けたエリザベートが苦笑いした。
「でも、ちょっと問題があって」
「なに?」
「あまり身分が高くないの」
フランツ・サルヴァトールはオーストリア=ハンガリー二重帝国の属州トスカーナでも公位継承順位が低く、貧乏貴族であるため、持参金は少額で、二人のための城を建造することもままならないという。
「貴賤結婚ということね。皇帝は確実に反対するわね」
「お母様は反対?」
「直接見てないから、なんとも言えないけど」
ハプスブルク家のお家芸である政略結婚で、次女のギーゼラは十七歳で嫁いでいった。
子離れできない母親の典型のようだから、結婚制度に夢を見るものではない、という私見を交えるだけにとどめた。
「結婚というのはおかしな制度よ。十五歳だか、十六歳の時に見初められて、訳の分からないまま誓いを交わし、それから三十年経って悔やんでも、もうどうにもならない。どうして人は結婚したがるのかしら。どうして人は結婚が幸せなものだと考えることができるのかしら。私は今もちっとも分からないわ」
母に反対されたと思ったのか、マリー・ヴァレリーが項垂れた。
「やっぱり駄目なのかしら」
「いいえ。私が言いたいのは、結婚とは一緒に苦しめる人を探すということよ」
「お母様にとって、お父様はそういう人なのね」
マリー・ヴァレリーがどこか聞きづらそうに小声で訊ねた。
「……私は本当にお父様の子なの?」
エリザベートは一瞬、言葉に詰まった。
一時、「マリー・ヴァレリーはハンガリー議長アンドラーシ伯爵の不倫の子供だ」という流言がまことしやかに囁かれた。成長するうち、フランツ・ヨーゼフ皇帝にも似てきたため、いつしかその流言は霧散した。しかし、つい最近まで根強く囁かれることでもあった。
噂の出所は、皇帝がアンドラーシ伯爵に嫉妬したためではなかった。
マリー・ヴァレリーを追い落とそうとするウィーンの廷臣らによるものだった。
「今さら、そんなことを気にしていたの?」
「ええ」
「あなたは間違いなく私とフランツの子よ」
「でも、そうじゃないかもしれないって」
ヴァレリーは女性ではあるが、皇位継承順位は高いところにある。ハプスブルク家の女帝として名高いマリア・テレジアの前例もあり、女性でも帝位につけないことはない。
もしもマリー・ヴァレリーがハンガリー国王になったとしたら、ろくにハンガリー語も喋れないウィーン宮廷の廷臣たちは一掃されてしまう可能性がある。だがマリー・ヴァレリーにフランツ・ヨーゼフ皇帝の血が入っていなければ、彼女はハンガリーの女王になることができない。それがために流された根も葉もない噂だった。
中傷を受けたヴァレリーが傷ついたのは想像に難くない。
「気にしなくていいわ。妥協が成立する直前に流れたただの噂よ」
エリザベートが末娘を抱きしめ慰めた。
妥協が成立する陰の立役者となったイーダ・フェレンツィはこのところ、ハンガリー中の聖地を巡り歩いて、エリザベートの傍にいないことが多かった。変わらず傍にいるのは末娘のマリー・ヴァレリーと影の女官イルマ・シュターライだけだった。
「あなたが結婚してしまったら寂しくなるわね」
エリザベートが少し感傷的に言った。
マリー・ヴァレリーの表情はどこか浮かなかった。
「お兄様にも報告をしたんです」
「ルドルフはなんて?」
ヴァレリーは十歳違いの兄にこっぴどく叱責されたという。
「お前一人だけ、好きな相手と結婚できるなんて不公平だな。君主になれそうもない貧乏貴族との婚姻を母上がお許しになるはずないだろう。お兄様はそうおっしゃいました」
「……ルドルフ」
エリザベートは思わず頭を抱えた。
ルドルフ皇太子は政略結婚ではあるが、ルドルフ自身が惚れた相手であったはずだ。
それにルドルフはとんだ考え違いをしている。
「貴賤結婚を許さないのは皇帝だけよ。私は許さないなんて言わないわ」
「そう……ですよね」
マリー・ヴァレリーが心配そうに言った。
「お兄様は結婚生活がうまくいっていないのでしょうか」
「おそらくね」
「娘の名前にお母様の名前をつけるぐらい喜んでいたのに」
「きっと仕事が忙しくて、疲れていたのよ」
妹思いのルドルフがマリー・ヴァレリーに当たり散らすのは珍しいことだった。
「ルドルフが本当はどう思っているか、ちょっと探ってみるわ。ルドルフのことだから、きっと本心ではないわよ」
幼い日に受けた虐待的な教育のせいで、ルドルフは性格が少し捻じくれてしまった。
歩兵軍総司令官を務めるルドルフは軍務で忙しく、エリザベートとは滅多に顔を合わせることがなかった。エリザベートが直々に面会を申し入れ、ルドルフに真意を訊ねた。
ルドルフはあまり眠れていないのか、目の下に隈が目立ち、疲労が色濃かった。
「ヴァレリーの結婚には反対かしら」
「皇位でもなんでも、望めば捨てられる気楽な立場が羨ましかっただけです」
ハプスブルク家というあまりにも重い荷物を背負わされた皇太子が思いの丈を吐露した。
「苦労かけるわね、ルドルフ」
「いえ……」
エリザベートは自身の背後に広がる影に視線をやった。
死を背負っているものにしか見えないはずの闇を、三十歳近くとなったルドルフは見ることができるのだろうか。エリザベートがそれとなく訊ねた。
「ルドルフ、私の背中になにか見える?」
質問には答えず、逆に質問をされた。
ルドルフの瞳の奥には黒々とした影がちらついていた。
「お母様は離婚を考えたことはありますか」
「一度もない……とは言えないわね」
「そうですか」
それだけを聞ければ満足だったのか、ルドルフが微笑を浮かべた。
「マリーに伝えてください。どんな相手でも君が選んだ相手なら祝福する、と」




