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二重帝国構想

 ここ何年かの間にハプスブルク家の栄光に陰りが見え始めた。


 イタリア統一を目指すサルデーニャ王国がフランスの支援を受け、オーストリアに宣戦布告した。フランツ・ヨーゼフ皇帝が陣頭指揮をとったが、多数の死者を出した。


 その後、普墺戦争でプロイセンに敗北し、オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦は解体された。多民族王朝であるハプスブルク帝国は独立運動の気運の高まりとともに国力が衰退していった。


 さらにはハンガリーでも独立欲求が高まっていた。政治情勢とは縁遠いエリザベートも、愛するハンガリーに独立気運が漂っていると知って他人事ではいられなかった。


 普墺戦争に敗北した痛手もあり、ハンガリーで革命が起きたとしても鎮圧のために軍を派遣することは困難だった。ハンガリーの政治家たちはオーストリアから独立する絶好のチャンスだと考えていた。


 実質的に、オーストリアにはハンガリーとの交渉しか手が残されていなかった。


 なんとかハンガリーを懐柔できなければハプスブルク家の崩壊は免れない。


 だが、ウィーンの宮廷にはハンガリー語をまともに操れる人材がいなかった。


「なんとかハンガリーの独立を押さえ込みたい。だが、妙案もない」


 フランツ・ヨーゼフ皇帝とゾフィー大公妃はかつてハンガリー人の独立運動を鎮圧したため、ハンガリー人から恨まれていた。そこでエリザベートに白羽の矢が立った。


「それでなくとも私と母上はハンガリー人に不人気だ。その点、君はハンガリー語も堪能で、現地での人気も高い。ハンガリー代表団との交渉を任せてもいいだろうか」


「ええ、構いません。お任せください」


 皇帝の裁断で、ハンガリーの事情に詳しいエリザベートが交渉を一任された。


「せっかくの機会なので、子供たちもハンガリーに連れて行ってもよろしいですか」


 滞在の拠点となるゲデレー宮殿に子供たちを連れて行ってもいいか、お伺いを立てると、ゾフィー大公妃が大反対した。


「長女を失ったことを忘れたのですか」


「忘れたことなどあるものですか」


 ハンガリーは長女ゾフィーがわずか二歳で早世してしまった因縁の地でもある。


 しかし、子供たちはもうそれなりに大きくなった。教育のためと称して、エリザベートは子供たちから引き離されてきたが、宮廷のしきたりで雁字搦めの息の詰まるウィーンではなく、愛するハンガリーという国を子供たちにも見せてあげたかった。


 皇妃と姑が睨み合い、フランツ・ヨーゼフ皇帝は苦り切って仲裁した。


「かのマリア・テレジアもハンガリー女王として戴冠する際、ハンガリーに子供を連れて行ったそうです。ルドルフもギーゼレも間もなく十歳です。もう小さくはない。心配はいらないでしょう」


 予想もしていなかった援護射撃に、エリザベートが素直に礼を言った。


「ありがとう、フランツ」


「いいや、大したことないさ。どのみち宮廷にはハンガリー語に堪能なものは少ない。例の侍読係を連れて行くつもりかい」


「ええ、そのつもり」


「君はいかなる政治的な責任を負わない。政治的な判断は私がする」


「私の役割は分かっているわ。私はあくまでハンガリーとの橋渡し役。武力や法では解決できない不信を和らげる装置ということでしょう」


「たいした理解力だ」


「だてにあちこち放浪していないわ」


 ハンガリーでの案内役はイーダ・フェレンツィが務めることとなった。


 エリザベートは子供たちを連れて、ハンガリーを訪れた。


 新たな教育係ラトゥールが子供の心に寄り添ってくれる教育をしてくれているおかげか、目に光がなかったルドルフはすっかり元気を取り戻していた。しかし、エリザベートに気がかりがなかったわけではない。


 ルドルフ皇太子は死そのものが見えてしまうことには変わりがなかった。


 その点は虐待的な教育を受けていた数年前から変わることがなかった。


「ルドルフ、あなたはまだ見えるのね」


「はい」


 エリザベートが背負った闇をルドルフもまた見えていた。比較として、ギーゼレにも闇の存在(イルマ)が見えるか尋ねてみたが、ギーゼレにはただの影にしか見えないようだ。


「ギーゼレ、私の背中になにか見える?」


「なんのこと?」


 次女のギーゼレは不思議そうに首を傾げた。


 闇の正体については曖昧に伝えた。


 エリザベート自身、イルマの正体については正確に掴めていない。


「ルドルフは時々、怖いものが見えてしまうみたいなの。私が留守の間、ルドルフの様子を見ていてくれるかしら」


「わかった」


 エリザベートがハンガリー代表団との交渉中、ギーゼラが二歳違いの弟ルドルフの面倒を見ていた。まだ十歳にならないうちの二歳差はかなりの違いだ。ことさらギーゼラが頼りがいのある姉のように振舞うのが微笑ましかった。


 イーダ・フェレンツィに案内され、観光もした。エリザベート皇妃と連れ立って歩くと、ギーゼラ皇女とルドルフ皇太子はどこに行っても大歓声の歓迎ムードだった。


 公務の合間を縫ってフランツ・ヨーゼフ皇帝がハンガリーを訪れたが、大歓声で迎えられたエリザベートとは違い、白けた空気が漂った。


 同じオーストリア皇室であるのに、ハンガリーの民衆の反応は正反対だった。


 このギャップにはギーゼラもルドルフも驚いたようだ。


 ギーゼラがなんとなく言いづらそうに言った。


「ハンガリー人はオーストリアを憎んでいる。とても危ないところだから、気を付けなきゃだめよ、って言われてたけど、ぜんぜん違った」


「誰がそんなことを言ったの?」


「おばあちゃん」


 母親(エリザベート)は悪魔だと吹聴していたゾフィー大公妃ならば言いそうなことだ。


「お父様の人気がなかっただけでしたね」


 ルドルフが父親を蔑むような調子で言った。次期皇帝を厳しく育て上げるため、虐待的なスパルタ教育を施した父親を好いてはいないのだろう。その気持ちは分からなくもないが、待望の皇太子を厳しく育てたいというフランツの気持ちも分かる。


 少々やり過ぎて、教育に熱を入れてしまっただけだ。


 ハンガリーでの不人気ぶりを見せつけられ、ウィーンにとんぼ返りしてしまった皇帝が不憫なので、ちょっとくらい擁護しておくことにする。


「あなたが生まれたとき、フランツはとても喜んだのよ。この子は私の喜びの全てだって」


「そうですか」


 ちっとも嬉しそうでないルドルフは馬車の外に流れるドナウ川を見つめた。


 遠い目をしながら、ルドルフがぽつりと言った。


「僕とギーゼレにはお姉ちゃんがいたんですか」


「ええ、いたわ」


 長女のゾフィーが二歳で亡くなったとき、ルドルフはまだ生まれていなかった。


 次女のギーゼレはまだ一歳になっておらず、記憶はほとんどないだろう。


「どうして、おばあちゃんと同じ名前なんですか」


「お義母様への敬意よ。自分の子に相手の名をつけるのは最大級の敬意と忠誠の表明なの」


 皇帝の受け売りをそのまま伝えると、ルドルフが真摯な面持ちで言った。


「僕が結婚し、子供ができたら、きっとお母様の名前をつけます」


 普段は離れて暮らしているため、遠慮があるのだろう。


 過剰に甘えてくることはなかったが、突然の宣言に心を打たれた。


 ハンガリーを案内するイーダ・フェレンツィの手前もあってか、ことさら陰に徹しているイルマがニタニタしていた。実体がないのに、どうしてか表情が分かる。


「マザコンの育成に大成功してしまいましたね」


「いいじゃないの。これ以上に嬉しいことある?」


 小声でひそひそやり取りしていたが、やはりルドルフは影の存在を視認していた。


「お母様はなにとお話しているのですか」


「空想上のお友達かしら」


 エリザベートが慌てて誤魔化すと、ルドルフがくすりと笑った。


「お母様は自由ですね」


「私は見えてもいいけど、ルドルフは見えては駄目なのよ」


「なぜですか」


「なぜって……」


 イルマが死の化身である可能性があるから。


 そんな言葉が喉元まで出かかったが、寸前で飲み込んだ。


 ハンガリーまでルドルフを連れてきてしまったが、なるべくイルマから遠ざけておく方がいいだろう。しかし、この旅が終われば、また子供たちと離れ離れになる。


 無性に、自分の手で子供を育てることができなかった悲しさが込み上げてきた。


 たまの面会だけではかえって寂しさが募るだけだった。


「もしもの話だけど」


「なんですか」


「兄弟ができるとしたら、弟と妹、どっちがいい?」








 イーダ・フェレンツィを通じて、ハンガリー政府の法政大臣デアーク・フェレンツと接触を図り、アンドラーシ伯爵との知己を得た。ハンガリー贔屓のエリザベートは毎日のようにフランツ・ヨーゼフ皇帝に手紙を書き、アンドラーシ伯爵とハンガリー問題について協議するよう求めた。


 しかし、皇帝はぐずぐずとしており、いつまでも重い腰をあげようとはしなかった。


「いったい、どういうつもり……。フランツ」


 なかなか交渉のテーブルにつこうとしない皇帝に焦れ、エリザベートは自身の誕生祝賀会にアンドラーシ伯爵ら、ハンガリー議会の代表団をウィーンに招待した。


「お招きいただき感謝申し上げます。皇帝陛下、皇后陛下」


 立派な口髭を蓄えた野性味溢れるアンドラーシ伯爵はマジャール貴族が着用する金で刺繍された儀式用の服を着ていた。コートとブーツには煌びやかな宝石が刺繍され、トラ皮の絹布を肩に乗せていた。


「まあ、ワイルド」


 ハンガリーの民族衣装に身を包んだエリザベートがアンドラーシ伯爵を褒めそやすと、いよいよフランツ・ヨーゼフ皇帝の機嫌が悪くなった。小声で二人の仲を詮索してきた。


「アンドラーシ伯爵とできているのか」


「もしかして嫉妬してるの、フランツ」


 宮廷のしがらみから解き放たれ、美貌の絶頂にあるエリザベートが皇帝を小突いた。


 エリザベートはほとんど完璧なハンガリー語で、祝宴の挨拶を述べた。


「皆さまをウィーンにお迎えできましたことを心から嬉しく思います。ハンガリーの人々はいつの時代にあっても、自らの誇りと自由を大切にしてこられました。その姿勢に、私は深い敬意を抱かずにはいられません」


 エリザベートはちらりとアンドラーシ伯爵に流し目を送った。


「アンドラーシ伯爵、あなたのように祖国の声を真正面から背負い、それでもなお対話の場に立とうとする方がいらっしゃることは両国にとって大きな希望でありましょう。対話とは時を待つことではなく、勇気を持って席に着くことから始まるものです。今日がその第一歩となることを心から願っております」


 スピーチを聞いたハンガリーの代表団は「Eyján(エーヤン) eyján(エーヤン) Erzsébet(エルジェーベト)」と熱狂的な歓声をあげた。「エリザベート万歳」という意味だ。


 聞きようによっては皇帝の神経を逆撫でする含みのある発言だが、ハンガリー語を習得しているのはオーストリア側ではエリザベートとイーダ・フェレンツィぐらいのものだ。


 フランツ・ヨーゼフ皇帝はにこやかな笑顔を保ちつつ、沈黙している。


「皇帝陛下、こちらにお目通しいただきたい」


 表敬訪問は和やかな雰囲気で進んだが、アンドラーシ伯爵が「オーストリア=ハンガリー二重帝国構想」の書簡を提出すると、にわかに旗色が変わった。


 書簡を読み終えるなり、皇帝がアンドラーシ伯爵に向かって怒鳴り散らした。


「……アンドラーシ、貴様は凶悪な政治犯だったが、私の情けで恩赦してやったではないか。その政治犯がまたしても、ハンガリーの自治権を要求するなど、どこまで腐った根性をしているのだ。直ちにハンガリーへ帰れ! 私の前に二度と姿を現すな。次にお前を見かけたら、今度こそ、本当に絞首刑にしてやる!」


 宮廷内がにわかに騒然とした。ついさっきまで和やかだったオーストリアとハンガリーの交渉の場は一気に緊張し、両国の関係が破綻しかかっていた。


「ちょっと、フランツ。いきなりなんなの。いくらなんでも失礼じゃないの」


 エリザベートは皇帝を別室へ押し込め、突然豹変した真意を問いただした。


「くだらない嫉妬じゃないでしょうね」


「違う」


 母親に怒られ、下を向いたままの子供のような皇帝が言った。


「……コッシュート」


「え?」


 どこかで聞いた名だが、エリザベートはすぐに思い出せなかった。


「アンドラーシはハンガリー革命の指導者コッシュートを支持した反逆者だ。反逆罪で死刑を宣告されたが、亡命して死刑執行できなかった。私が情けをかけてやったんだ。代わりに奴の肖像画を吊るした」


「つまり、あなたはアンドラーシの命の恩人というわけね」


「ああ」


 なかなかに根深い問題なのか、皇帝は怒りが収まらない様子だった。


「コッシュートの支持者にあなたは暗殺されかけたんだっけ」


「そうだ」


 皇帝に即位して間もないフランツ・ヨーゼフはハンガリー人の仕立て屋見習いヤノーシュ・リベーニィに暗殺されかけた過去がある。しかし、ハンガリー人全てを恨んだわけではない。革命運動に加担した若き日のアンドラーシに温情を与えた。


「アンドラーシ伯爵はどんな要求をしてきたの?」


「拾った命だ。図々しいにも程がある」


 皇帝が吐き捨てたが、要求次第だろう。


「二重帝国だっけ。具体的にはどんな構想なの」


「ハンガリーは別個の国家として独立するが、頂点にはハプスブルク家の皇帝をいただく。オーストリアとハンガリーは共通の皇帝をいただく二重の国家ということだ」


 皇帝は怒り心頭だったが、ハンガリーだって妥協している。


 たんなる同君連合ではなく、ハンガリーに対して内政上の支配権を与えながら、少なくとも理論的にはハプスブルク帝国の不可分の一部であることを承認させ、全体として一つの国家を維持する。


「反乱を起こされて、戦争になるよりいいんじゃないの」


 エリザベートがあっけらかんと言ったが、皇帝がなおも引き下がらなかった。


「アンドラーシはあまりに無礼だ。今度こそ絞首刑に処す」


 皇帝の怒りが収まりそうにないが、ここまで根回ししてきたエリザベートの立場がない。


「ねえ、フランツ。よく考えてちょうだい。私がハンガリーに働きかけて、彼らをウィーンに招いたのよ。それなのにアンドラーシ伯爵を絞首刑にするの? それって私が伯爵を絞首刑にしたのと同じことじゃない」


「いや、そんなつもりは……」


「伯爵を絞首刑にするなら私も一緒に吊るしなさい」


 エリザベートは自身が暗殺されるのが60歳の時だと知っている。


 裏を返せば、まだ死なないということだ。


 エリザベートが強気に迫ると、皇帝がすぐに降参した。


「分かったよ、エリザベート。伯爵の無礼は許そう」


 伝家の宝刀である離婚話を切り出す必要もなかった。


「だが、どうして伯爵のことをそこまで庇う」


「どうしてかしらね」


 エリザベートは皇帝に交渉の場に戻るよう、そっと促した。


「変な意地を張らないで妥協しなさい、フランツ」


「妥協すれば、私のもとに帰ってきてくれるのかい」


 質問には真っすぐ答えず、エリザベートがそれとなく報告した。


「新しく兄弟ができるとしたら、ルドルフは妹がいいと言っていたわ」

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