闇が広がる
エリザベートは次女ギーゼラにも長男ルドルフにもろくに面会させてもらえず、時ばかりが過ぎていった。エステルハージ女官長に幾度となく面会を拒絶された。
「お会いすることはできません。大公妃より仰せつかっております」
ギーゼラは二歳年下の弟ルドルフをたいそう可愛がった。ルドルフ皇太子の手を引いて、嬉しそうに庭をちょこちょこと散歩した。
二人の様子を遠くからこっそり見るだけで、触れ合えもしない。
まるで姑に孫を人質に取られているような気分だった。
フランツ・ヨーゼフ皇帝の趣味は狩猟だったので、ルドルフの三歳の誕生日プレゼントに子供用の狩猟小屋を作らせて贈った。
その狩猟小屋で、ルドルフとギーゼラはおままごとをして遊んだ。
皇帝は目に入れても痛くないぐらいの溺愛ぶりで皇太子を愛したが、常に公務で忙しく、子育ては母親のゾフィーに丸投げだった。
「ルドルフには狩猟小屋をプレゼントしたのに、ギーゼレには何をあげたのよ。いくらなんでも差別が過ぎるわ」
皇帝は娘のギーゼラも可愛がり、初めて履いた靴を記念に残してあげた。
ギーゼラは「パパからもらった最高の宝物」と言って大切にした。
宮廷のしきたりでは、女性は一度履いた靴は二度と履くことができない。
にも関わらず、靴を捨てずに残しておいたということは、皇帝が宮廷の厳格なしきたりを破ってまで、子供の為に記念品として残したということになる。
「美談じゃないですか」
「それ、本当に思ってる?」
イルマが本心を言っているようには聞こえなかった。
ギーゼラはいつまでも皇帝からもらった靴を大切にしていた。
それ以外に、皇帝から贈り物らしい贈り物はなかったのだろうか。
「最初の靴以外、父親から心のこもった贈り物はなかったってことじゃない」
エリザベートは怒り心頭だったが、事あるごとに姑に盾突いていたので、やんわりと子供たちから遠ざけられることになった。エステルハージ女官長とゾフィー大公妃が二重の壁となって立ちはだかった。
姑は声音こそ優しかったが、皇太子を産んだエリザベートを用済みと判断したようだ。
遂には、温暖な地域での転地療養を勧められた。
「あなたは少し疲れているようね。コルフ島に療養に出掛けるといいわ」
「お気遣いありがとうございます。子供たちも連れて行きます」
「いいえ。子供たちの面倒は私が見るわ。旅に連れて行くのはおよしなさい。まさか長女のことを忘れたわけではないでしょうね」
旅先のハンガリーで亡くなった長女ゾフィーの一件を持ち出されては何も言えなかった。
手練手管を駆使して、ゾフィー大公妃は孫たちを自分のもとに留め置いた。
大西洋に浮かぶポルトガル領のマデイラ島で長期療養した後、イオニア海に浮かぶコルフ島に赴いた。小高い丘からイオニア海を望む景色は絶景で、ここいらに別荘を建てたいと思えたほどだった。子供たちと離れて暮らすのが当たり前となったが、療養地で暮らしても寂しさが紛れることはなかった。
エリザベートがコルフ島での療養から戻ると、ルドルフ皇太子への教育はいっそう苛烈になっていた。ルドルフの教育係に軍人出身のレオポルド・ゴンドレクール伯爵が就任し、神経質で虚弱な皇太子を鍛えるため、軍事教練まがいのスパルタ式教育を押し通した。
まだ六歳のルドルフは姉のギーゼラと同じ部屋で寝起きしていたが、ゴンドレクール伯爵は手始めにギーゼラを別の部屋に移してしまった。
「皇太子たるもの、甘えは一切許されません。ルドルフはすぐに将軍の道を目指して行進を始めました。彼は極めて順調なスタートを切りましたよ」
ゴンドレクール伯爵は「恐怖に打ち勝つため」と称し、ルドルフを夜中に森に置き去りにしたり、就寝中に枕元で発砲し、叩き起こしたりする虐待まがいの教育を続けた。
鞭打ちはしょっちゅうで、冷水にルドルフの首を漬け、長い間息を止める訓練をさせた。
猪をけしかけたり、ルドルフを馬の鞍に括り付けて、馬を走らせたりもした。
ルドルフはすっかり脅え切って、目が虚ろになっていた。
伯爵の教育の中身を伝え聞くなり、エリザベートは激怒した。
「……あり得ない! ただの虐待でしょう」
ハプスブルク家の伝統だから、と周囲は黙認していたが、肝心のフランツ・ヨーゼフ皇帝が皇太子の教育に異議を唱えなかった。
「なにを怒っているんだい、エリザベート。皇太子を強く育てるのは当然じゃないか」
「離婚です! いくらなんでも許せない」
宮廷のしきたりに我慢を重ねてきたエリザベートがついに爆発した。
「え?」
「ゴンドレクール伯爵をただちに教育係から解任すること、エステルハージ女官長の解任、子供たちと自由に面会できること、この三点を実行していただけない限り、離婚させていただきます」
交渉の余地はないとばかりにエリザベートが強硬に主張した。
「落ち着いてくれ。離婚はそんなに簡単な問題じゃない」
「私を選ぶか、お母様を選ぶか。二つに一つよ」
エリザベートが猛々しく離婚を切り出すと、皇帝はすっかり狼狽した。
イルマが茶化すように言った。
「母は強しですね」
「なにが軍人教育よ。ルドルフが幾つだと思っているの。とんだ毒親じゃない」
一歩も引かないエリザベートの剣幕に、皇帝が全面的に譲歩した。
「分かった。君の望む通りにしよう」
「子供はあなたの所有物じゃない。大切なのは自由と権利よ」
「しかし、ルドルフが軟弱な軍人になっては困る……」
「ごちゃごちゃうるさいわね。私と離婚したいの?」
「いいや。君の好きにするといい」
エリザベートは新しい教育係に、個人の自由や権利を尊重するハンガリー人のヨーゼフ・ラトゥール・フォン・トゥルンベルクを抜擢した。エステルハージ女官長を解任し、ここぞとばかりにイーダ・フェレンツィを皇妃専属の侍読係として雇い入れた。
ゾフィー大公妃が金切り声をあげて叫んだ。
「どこまで山猿を付け上がらせる気? 誰のおかげで皇帝になれたと思っているの」
「エリザベートは私の妻です。山猿などと見下すのはおやめください」
皇帝が日和ることなく母親に反逆した。これまで母の言いなりだった皇帝が全面的に皇妃に味方したのは意外な気がした。
「なんで? そんなに私と離婚したくなかったの」
エリザベート本人にも勝因がいまいち分からなかった。イルマが率直に答えた。
「美しい皇妃に逃げられた哀れな皇帝として歴史に汚名を残してしまいますから」
「なるほど。世間体ってやつね」
何はともあれ、エリザベートの宮廷内での待遇は格段に改善した。
常に監視役が複数人いたが、イーダ・フェレンツィを傍に置いておくと、反乱分子と目されるハンガリー人と関わり合いたくないのか、それとなく監視役が遠ざかる。
私室に籠ってしまえば、イーダと二人きりになるのは容易だった。
「正式に採用していただき感謝申し上げます、皇后陛下」
「いいのよ。そんなにかしこまらないで」
イーダの前では気楽に過ごせるので、口調も底までかしこまる必要はない。
どこか言いづらそうにイーダが口を開いた。
「あの……、このようなことを申し上げていいのか」
「どうしたの?」
イーダはエリザベートの背後に広がる暗がりに視線を向けた。
「陛下は只者ではない。闇が広がっていますね」
「なんのこと?」
エリザベートはすっとぼけたが、どうやらイーダは影の存在であるイルマを視認できるようだ。この宮中で、実体のないイルマの存在に気が付いたものは誰もいなかった。
「……イーダ、あなた何者?」
いつにない警戒心を抱きつつ、エリザベートが探るように言った。
「飯田・フェレンツィでございます」
改めて名乗られたが、エリザベートはきょとんと目を丸くした。
「知っているわよ」
「失礼ながら、陛下が鏡に向かって話しかけているとき、佐藤なる名字を耳にし、もしやと思いました。私は飯田でございます。ご飯の飯に、田んぼの田」
唐突な打ち明け話にエリザベートが膝を打った。
「ああっ、飯田ね。だから、イーダ。ということはあなたも」
「はい。ミュージカルで皇妃にハマった皇妃オタクでございます」
「……ミュージカル? ネトフリじゃなくて?」
ネトフリなど邪道だと言わんばかりにイーダが熱弁した。
「ミュージカル『エリザベート』はウィーンで初演され、日本では東宝版、宝塚版で上演されております。セゲドの野外劇場で初演されたハンガリー版もあり、皇妃と言えばハンガリーでございますから、どうしてもハンガリー語で鑑賞したく勉強いたしました」
「ああ、そうなの」
初対面のイーダと友達になれそうだと感じたのは、なにかしら現代と接点があるからのようだった。それにしても濃いメンバーが揃ったものだ。
独身偽装の男に貢いだ挙句に刺されて転生したエリザベート・佐藤。
ネトフリで皇妃に沼った皇妃オタク入間・シュターライ。
ミュージカルにハマってハンガリー語を習得した飯田・フェレンツィ。
いずれにしても現代に起源のある者同士、気安く話せそうだ。
「あなたは私の影が見えるのね」
「はい。この影は死の化身、黄泉の帝王トートでございますね」
「……は? イルマはただの皇妃オタクでしょ」
イーダが先走り過ぎて、どうにも理解が追いつかない。
影がとぐろを巻いたように蠢き、皇妃の口を借りてイルマが釘を刺した。
「私が黄泉の帝王だと?」
くくく、と悪役めいた笑みまで漏らした。
「死を背負っているものにしか見えない死の化身。あるいは死そのものでは」
イーダ・フェレンツィはイルマの正体を見抜いているらしいが、どうにも信じがたい。
「イルマはただの強火の皇妃オタク。黄泉の帝王なんて、そんな格好いいものじゃない。持論が暗殺されない皇妃は皇妃じゃないってだけ」
「陛下はご自身が暗殺されることはご存知なのですね」
「誰に殺されるか、どんな風に殺されるのかは知らないけど」
「あらかじめ死ぬ運命であることを知らされている。だから黄泉の帝王が見えるのか」
イーダはエリザベートが背負った影をどうしても黄泉の帝王と見なしたいらしい。
「ねえ、私って誰に殺されるの?」
エリザベートが訊ねたが、皇妃の影であるイルマがさらりと口止めした。
「予備知識がない方がより劇的でしょう」
「そうですね」
いつの間に連帯したのか、イーダ・フェレンツィも共犯者のように同意した。
「……イルマの正体の謎が増えただけじゃん」
予備知識のないエリザベートだけが蚊帳の外だった。
イルマ=死の化身――黄泉の帝王トート説。
エリザベートは自身が暗殺される運命であることを知っているから、黄泉の帝王を視認できる。イルマがただの皇妃オタクじゃないとしても筋は通る。
「いちおう筋は通っているか」
おずおずと居室の扉が開かれ、軍服を着込んだルドルフ皇太子が姿を現した。
「まあ、ルドルフ。こっちにいらっしゃい」
「お母さま……」
あどけないルドルフが遠慮がちに近付いてきて、ちょこんと膝の上に座った。
長らく面会を禁じられていただけに、どうしようもなく可愛らしい。
ルドルフはじっと宮中の闇を見つめ、不思議そうに首を傾げた。
「お母さまはいつもなにとお話しているの?」
死を背負っているものにしか見えないはずの闇をルドルフはきちんと視認していた。
「あなた、これが見えるの?」
「はい」
ルドルフが躊躇いがちに頷いた。
《《死そのものが見えてしまう皇太子》》。
エリザベートがわなわなと両肩を震わせた。
教育係のゴンドレクール伯爵に就寝中に枕元で発砲され、叩き起こされる凄惨な毎日が繰り返されれば、死と隣り合わせの日々に感じただろう。
恐怖に打ち勝つどころではない。
毎日が恐怖そのものだった。
これ以上、この子を死の化身に近付けてはならない。
危険を及ぼしそうなものはなんであれ、遠ざけた方がいい。
そう直感し、エリザベートは断腸の思いで言った。
「ルドルフ、あなたとお母様は離れて暮らした方がいいみたい」
「どうしてですか」
幼い皇太子が目に涙を浮かべた。
エリザベートは小刻みに震える皇太子を優しく抱擁した。
虐待同然だった教育係を解任した。やってあげられたのはそれだけだ。
「あなたを愛してるわ、ルドルフ。私があちこち旅行ばかりしているせいで怒られているの。だから私から影響を受け過ぎてもいけない。新しい教育係の言うことをよく聞くのよ。困ったことがあったら手紙を書いて。私はいつでもあなたの味方だから」
子供たちとの面会の自由は得た。
たとえ一緒に暮らせなくても、それで十分ではないか。
長女ゾフィーを失ってしまったようなことは二度と繰り返すまい。
「お母さま……」
軍服姿のルドルフはいつまでも離れようとしなかった。
エリザベートは親子の触れ合いを心ゆくまで味わった。
今日ばかりは死の化身も大人しくしていてくれたらいい。




