最初の皇女
エリザベートが産んだ子は女児だった。
皇位継承権のある男児ではなかったからか、宮廷には失望の色が垣間見えた。
「可愛い女の子だよ、エリザベート」
フランツ・ヨーゼフ皇帝が労ってくれたが、性別がどうであっても、無事に生まれてくれただけで十分だった。
ベッドにぐったりと横たわったまま、エリザベートは弱々しく笑った。
体力的に疲弊し切っており、宮廷の期待など知ったことではなかった。
「女の子だったのね。そういえば名前を考えていなかったわ」
「それなんだけど……」
皇帝が微妙に言い淀んだ。
日に日に大きくなるお腹、侍従や女官、医者が入れ替わり立ち替わりやってくるせいで、おちおち子供の名前を考えているような暇がなかった。現代医学であれば、妊娠検診の際のエコー検査で性別が判明するだろうが、十九世紀末では望むべくもなかった。
産んでみてはじめて、女児であると分かった。
家柄も容姿も申し分なく生まれてきた女児に相応しい名前を付けてあげたい。
名前は親が子に与えてあげられる祝福であり、呪いにもなる。
これからは国際的な時代だから、との理由で名付けられたエリザベスなる奇矯な名前は、平々凡々たる佐藤家の女児にはまったく似つかわしくないが、名門一族たるハプスブルク家の長女の名にはぴったりだと思う。
ハーフでもなく純和風な顔立ち、佐藤という平凡な名字とは絶妙にマッチしない夜の接客業の源氏名のような響きのせいで、佐藤エリザベスは自身の名前を名乗ることも、名前を呼ばれることにも抵抗があった。
小学校では名前をよくからかわれた。
――こいつ、佐藤のくせにエリザベスだってよ。
――だっせー名前。
――エリザベスって顔じゃねえだろ。
散々にからかわれて、誰にも名前を呼ばれないよう人付き合いを避けた。
そのせいか、性格が引っ込み思案になった。
エリザベスなどという名前を付けた両親を恨んだが、呪いのような名を今こそ祝福に変えることができる絶好の機会が訪れた。
「エリザベスなんてどうかしら」
エリザベート・佐藤が静々と提案したが、皇帝はにべもない反応だった。
「名前はもう決めてある」
「どんな名前?」
皇帝はちらりとゾフィー大公妃の顔色を窺った。
「……ゾフィー」
「え?」
エリザベートは当惑した。
「お義母さまと同じ名前ってこと?」
「ああ」
聞き間違いだろうかと、思わず耳を疑った。
しかし、聞き間違いではなかったようだ。
ゾフィー大公妃は生まれたばかりの女児を取り上げ、ぴしゃりと言った。
「ご苦労様。この子は私が責任を持って育てるわ。あなたは何もしなくて結構よ。早く体調を回復させて、男の子を生んでちょうだい」
皇帝の世継ぎを生むだけのただの産む機械扱いされた。
生まれたばかりの子を取り上げられた。
挙句、その子の名が姑と同じ名であるという。
「……酷すぎる」
新たな命が誕生したという祝福の空気はどこにもなかった。
姑である皇帝の母の名前を、最初の娘につけた。
どこをどう切り取っても、姑のいびりとしか感じられなかった。
「どうしてお義母様の名前をつけるの。姑のいびりなの?」
エステルハージ女官長がまだ目を光らせていたが、もうどうだってよかった。
「私の子供を返して!」
エリザベートが暴れると、フランツ・ヨーゼフ皇帝が窘めるように言った。
「いびりなどではないよ。ハプスブルク家としては当然過ぎる命名だ」
「どういうことよ。分かるように説明してちょうだい」
フランツ・ヨーゼフ皇帝はベッドの傍らに腰掛け、声を荒げずに言った。
「王家や貴族にとって名前は単なる個人名ではなく、政治的シンボルだ。同じ名前を継ぐということは、この人物は偉大な祖先の正統な後継者である無言の宣言なんだ」
皇帝は静かに続けた。
「ハプスブルク家が同じ名前を繰り返すのは、我々は常に同じ王朝であり、同じ力を持つと内外に示すためだ」
「名前がブランド名みたいなものってこと?」
皇帝は曖昧に頷き、ゾフィー大公妃を気遣うように言った。
「ハプスブルク家では最初の子に最重要人物の名をつける。この宮廷の最重要人物が誰かは言うまでもないだろう」
宮廷で最も影響力が強く、若き皇帝の精神的支柱であり、政治的にも尊敬されている大公妃ゾフィーこそがハプスブルク家の最重要人物である。
その名が王朝の正統な後継者として迎え入れられた最初の皇女に冠された。
姑としてのいびりではなく、ごく正統で、むしろ配慮された命名であった。
「ごめんなさい。そんな意図があったなんて。私、宮廷のマナーに疎いから」
エリザベートが萎れたが、皇帝が優しく頬を撫でてくれた。
「自分の子に相手の名をつけるというのは、最大級の敬意と忠誠の表明だ。存命中の人物で、なおかつ王朝の中枢にいる人物の名を使うのは敵意どころか、強い協調のサインと言える。分かってくれるかい、エリザベート」
皇帝の母こそが事実上の宮廷の実力者であり、外国から嫁いできたエリザベートが拒否できることではなかった。
釈然としない気持ちは残ったが、命名については了承した。
生まれたばかりの我が子に触れられない虚しさがひたすらに募るが、それが宮廷のしきたりであるならば仕方がない。
自らを納得させるようにエリザベートは小さく呟いた。
「……ゾフィー。私の子」




