ハンガリーの誇り
フランツ・ヨーゼフ皇帝と、ずいぶん久しぶりに愛を交わした。
結婚以来、皇帝に会えるのは月に何度もなかった。
「宮廷の生活はどうだい、シシィ」
「息が詰まるわ。どこに行っても監視されているみたいで」
それとなく文句を言ったが、皇帝にはごく当たり前の生活なのだろう。
特別に同情されるようなことはなかった。いまいち反応が薄いので、甘えついでにおねだりしてみることにした。ハンガリー人であることはひとまず伏せて、イーダ・フェレンツィと友達になったことを報告した。
「謝肉祭で私より二つ年下の下級貴族の娘と友達になったの」
皇帝の反応は色良いものではなかった。
「下賤のものとはあまり親しくしない方がいい」
「どうして?」
「生まれながらの貴族と違って、なにを考えているか分からない」
特権意識に塗れた皇帝が断言した。
「ずいぶん偉ぶるのね。同じ人間なのに」
「――王権神授説」
「……えっ?」
「国王の権力は神から直接授けられたもの。神聖不可侵で、臣民はこれに従う義務がある。私は幼い頃から、そういう思想を叩き込まれて育った」
「神から授かったなんて、証明しようがないじゃない」
「神授説の要諦は、反乱を無効にし、反乱によって権力を得た人々の正当性を失わせることにある。神によって選ばれた王への反乱は神に対する反乱に等しい」
フランツ・ヨーゼフ皇帝は民衆を従わせるには、軍隊で押さえつけるしかないという教育を受けて育った。ずいぶんと壮大な話になったが、エリザベートが望むのはイーダを女官に採用したいだけだった。
「イーダはハンガリー人なのだけど、女官として雇いたいの。駄目かしら」
「ハンガリー人で、なおかつ下級貴族の娘か。母上が許すはずもない」
皇帝が即座に却下した。皇帝に口利きしてもらえれば、女官の一人ぐらい捻じ込めるかと思ったが、甘い考えであったようだ。
「下賤のものを近付けたら、暗殺の恐れもある。私は君を心配しているんだよ、シシィ」
「暗殺? イーダはそんな娘じゃないわ」
「君と結婚する直前、私はハンガリー人に暗殺されかけた」
皇帝は暗殺されかけた一幕を静かに語った。
「ウィーン市壁の堡塁の上から、軍事訓練を見下ろしていた時だ。包丁を持った男が背後から襲ってきた。軍服の防御用襟に当たって逸れたおかげで、かろうじて致命傷は避けられたがね」
「まあ、そんなことが」
「犯人はハンガリー人の仕立て屋見習い。名前はなんと言ったか。ヤノーシュ・リベーニィだったかな」
暗殺は未遂に終わったが、犯人は何度も犯行現場を下見し、包丁も両刃を研いで用意周到に犯行の準備を整えていた。
「……エーヤン・コッシュート」
フランツ・ヨーゼフ皇帝が秘密めいた言葉を口にした。
「意味は分かるかい?」
エリザベートは首を横に振った。
「エーヤンはハンガリー語で万歳、コッシュートはハンガリー革命の指導者の名前だ」
皇帝は暗殺犯に切りかかられたが、後頭部に傷は負ったものの、致命傷は免れた。犯人が再び切り付けようとしてきたところを副官のマキシミリアン・オドネル伯爵がサーベルで押しとどめ、通りがかった肉屋のヨーゼフ・エッテンライヒが犯人を取り押さえた。
「ご無事で何よりでございます。でも、なぜ暗殺に及んだの?」
「オーストリアに独立運動を鎮圧された恨みだろう」
「その後、犯人は……」
「絞首刑だ」
ハンガリー人に暗殺されかけた皇帝がハンガリーに嫌悪感を示すのは仕方のないことだった。だが、ハンガリー人皆が暗殺犯ということではあるまい。
「フランツ、あなたがハンガリー人を嫌っている理由はよく分かったわ」
エリザベートは皇帝の後頭部に残った傷痕を慈しむように触れた。
「イーダはいい娘だと思うの。ハンガリー人にだって、良い人はいるわ。女官として雇って欲しいなんて言わないわ。ただ友達になりたいの。時々、お茶会に招いてお喋りする。ただそれだけよ」
皇帝の腕に抱かれながら、エリザベートは上目遣いで言った。
「神にも等しい皇帝がまさかお母様には逆らえない?」
フランツ・ヨーゼフ皇帝はしばし黙り込んだ。
それから言った。
「君の好きにするといい。だが、ハンガリー人であるということは聞かなかったことにする。話し相手として、下級貴族の娘を招いてお茶会をする。それならば許そう。無論、監視の目はあった上だ」
ハンガリーを嫌悪する皇帝としてはずいぶんな譲歩だった。
エリザベートは猫のようにじゃれ、皇帝の頬に口づけした。
「ありがとう、フランツ。愛してるわ」
それから、イーダはエリザベートの非公式の側近となった。
貴族女官の序列には属さず、宮廷儀礼への参加もしない。
表向きはたんなる私的な話し相手だが、イーダにはハンガリー語の手ほどきを受けた。
自由を求め、君主国オーストリアに敵対したハンガリーという国にも興味を持った。
「ハンガリーの誇りは何?」
「言葉ですね。ハンガリー語の中で、個人的にいちばん綺麗な言葉を三つ挙げるとしたら、anya――母、csók――口づけ、キス、 szív――心ですかね」
自由への望み、愛への望みが感じられる心地よい響きだった。
独立戦争中に公教育大臣を務めた歴史家ホルヴァート・ミハーイの著作にも目を通した。ハンガリーという国について知れば知るほど、エリザベートはハンガリー贔屓になり、文化への造詣も深くなった。
ハンガリーの文化は、アジア起源のマジャール人とヨーロッパの伝統の融合だった。
「私、ハンガリー好きだわ。めっちゃ好き」
「それは良かったですね」
「なんか親近感が湧くもん。名字が先で、名前が後なのは日本と同じでしょ。温泉文化もあるし、お辞儀の習慣もある。カロチャ刺繍やマチョー刺繍もなんか可愛いし」
ハンガリー語で「こんにちは」は、「ヨー、ナポト」。日本人がなんにでも「すみません」と言いまくるように、ハンガリー人はとにかくこの挨拶を多用する。
エリザベートが駄々っ子のように騒いだ。
「温泉があるのが熱い! ハンガリー行きたい!」
イルマがしれっとハンガリー語で言った。
「ヨー、ナポト、キヴァーノク――良い一日を」




