妥協(アウグスライヒ)
――妥協。
アンドラーシ伯爵がフランツ・ヨーゼフ皇帝に提案した「オーストリア=ハンガリー二重帝国構想」の原案のままで、オーストリアとハンガリーが一体化することを議会が承認した。
エリザベートが仲立ちして交渉が成立し、戴冠式はブダ地区のマーチャーシュ教会で執り行われた。
不揃いの二本の塔が天を貫くようにそびえ立っている。
ブダの丘に立つマーチャーシュ教会は、朝から人の波に包まれていた。
ドナウ川を越えて集まった群衆は祈りとも歓声ともつかぬざわめきを絶やさない。
石畳に反射する初夏の光が無数の旗の赤と白と緑を眩しく照らしていた。
ハンガリーは、長い沈黙の末にようやく名を呼ばれたのだ。
高らかに鐘が鳴る。
重く、しかしどこか解き放たれるような音だった。
フランツ・ヨーゼフ皇帝が姿を現すと、群衆の視線が一斉に吸い寄せられた。
万雷の拍手と叫びが教会前の広場を揺らす。
だがその熱は、皇帝よりも、むしろ彼の隣に立つ皇妃へと注がれていた。
オーストリア皇帝および皇后だった二人は、ハンガリー国王および王妃として戴冠した。
「Erzsébet!」
白いドレスに身を包み、黒髪を結い上げたその姿が見えた瞬間、誰かが叫んだ。
「われらの王妃だ!」
それは誰が言い始めたのか分からない。その言葉は瞬く間に波紋のように広がり、群衆の口々から同じ呼び名となって溢れ出した。
ハンガリー語で。
彼ら自身の言葉で。
エリザベートはほんのわずかに立ち止まり、群衆を見渡した。
見知らぬ顔ばかりだ。だがその眼差しに宿るものは、かつてウィーンで向けられたどんな視線とも違っていた。服従でも、好奇心でもない。弛まぬ監視でもない。
期待だ。
そして、敬愛。
エリザベートは深く息を吸い、ゆっくりと頭を下げた。
たったそれだけの仕草で、広場の熱はさらに高まった。
この国は彼女を見上げる者としてではなく、同じ地面に立つ者として迎えていた。
そのことをエリザベートははっきりと理解した。
戴冠式の厳粛な儀式が進む間も、教会の外では熱が冷めることはなかった。
祈りと歓声が混じり合い、ブダの丘全体が一つの鼓動を持ったかのように脈打っていた。
この日、オーストリア=ハンガリー二重帝国は「妥協」によって生まれた。
だが、少なくともこの場所では、妥協ではなく――。
互いに互いを選び合ったという幻想が確かに息づいていた。
オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立した翌年、エリザベートは三女のマリー・ヴァレリーを出産した。ルドルフ皇太子とはちょうど十歳差だった。
「アンドラーシに似ていないか」
「失礼ね。あなたにそっくりよ」
フランツ・ヨーゼフ皇帝は自分の子種であるか疑ったが、そんなに疑うならば、エリザベートにも考えがあった。
マリー・ヴァレリーはオーストリアのウィーンではなく、ハンガリーで生まれた。
オーストリアとハンガリーが対等な立場となった妥協後であったため、ハンガリーの民衆たちから「ハンガリーの姫」として熱狂的に歓迎された。
「この子の名はマリー・ヴァレリーとします」
命名に特別な意味などなくていい。むしろ特別であるのは、生まれた場所だ。
ハプスブルク家の伝統的な命名を踏襲しないことで、「私はあなた方を支配しません」と示し、ハンガリーへの親愛と母としての奪還を密やかに表明した。
次女ギーゼラも長男ルドルフも手元で育てられなかったが、ハンガリーで生まれたこの子だけは自分の手元で育てよう、とエリザベートは決意した。
大公妃ゾフィーも晩年に差し掛かっており、かつての威厳を失いつつあった。
エリザベートに対して大っぴらに苦言を呈することはなかった。
姑もついに妥協したのだった。
エリザベートが唯一手元で育てたマリー・ヴァレリーは母の寵愛を受けて育ち、日に日にエリザベートの生き写しのような美貌となった。
ヴァレリーは娘であると同時に、母の良き理解者だった。
死が見えてしまう危うい皇太子ルドルフはベルギーの王女ステファニーと結婚し、一女をもうけた。まだ幼かったルドルフは「僕が結婚し、子供ができたら、きっとお母様の名前をつけます」と宣言した通り、娘に母と同じ名をつけた。
「お兄様ったら、ほんとうにお母様が大好きね」
結婚適齢期となったマリー・ヴァレリーが苦笑した。いくつかの縁談話が舞い込んだが、ヴァレリー自身が相手を気に入らず、破談となった。
エリザベートがそれとなく訊ねた。
「マリー、あなたは私の背中になにか見える?」
「いいえ」
マリー・ヴァレリーも影の存在を視認できないようだった。
「やっぱり見えるのはルドルフだけか」
エリザベートが小声で呟いた。
「お母様、なにかおっしゃった?」
「ただの独り言よ。気にしないで」
婚約を破談にしたマリー・ヴァレリーが夢見るような目でエリザベートを見つめた。
「お母様が結婚したのは、お父様の一目惚れだったのよね」
「そうよ」
「政略結婚ではなく、恋愛結婚だったの?」
「まあ、ある意味では」
エリザベートが微妙に言葉を濁した。
世紀の一目惚ればかりが語り継がれるが、ある意味では略奪婚と言える。
本来、皇帝が見合いをする相手は姉のヘレーネだったのだから。
ついでに言えば、別居婚でもある。
フランツ・ヨーゼフ皇帝とともに過ごすのは年に数えるほどだ。
「いいな。私も一目惚れした相手と添い遂げたい」
一目惚れされたいではない。
一目惚れしたい。
誰からも好意を持たれてしまう美貌の持ち主ゆえの悩みだった。
マリー・ヴァレリーは音楽や美術、演劇の分野の才能が豊かだった。
乗馬や射撃、フェンシングなどを教え込んだが、ヴァレリーは長い距離の散歩や乗馬には同行しなかった。生来の山猿ではない。エリザベートと違って、お淑やかだった。
「マリー、あなたが望むなら相手が煙突の掃除屋でも構わないけれどね。たとえ一目惚れしても、何年か付き合ってから結論を出した方がいいわよ」
「そういうもの?」
「ええ、そういうものよ」
結婚したい気持ちが本物かどうか確かめろ、と助言しているが、いったいどの口が言っているのだろうか。
皇妃オタクのイルマがニヤつきながら母娘の会話を盗み聞きしている。
マリー・ヴァレリーの口振りを真似て、イルマが歌うように言った。
「いいな。私も一目惚れした相手と添い遂げたい」
「いちいち茶化すんじゃないわよ」
エリザベートが気がかりなのは死が見えてしまう皇太子ルドルフのことだった。
多忙を極めるルドルフとは、皇帝以上に顔を合わせる機会がない。
虐待じみた教育を受けていた頃から、二十年近くが経った。
時が経つのはあまりに早く、ルドルフも子持ちのいい大人だ。
エリザベートが心配そうに呟いた。
「ルドルフはまだ見えるのかしら」
イルマは何も答えないが、皇妃の個人年表らしきものをつけていた。
エリザベート(1837―1898)
☑始点:皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚(1854)
☑ :第一子ゾフィー(1855―1857)
☑ :第二子ギーゼラ(1856―)
☐ :第三子ルドルフ(1858―)
☑ :妥協(1867)
☑ :第四子マリー・ヴァレリー(1868―)
☐ :〇〇〇〇〇〇事件(1889)
☐終点:暗殺(1898年9月10日)
「仕舞ってちょうだい。私に歴年を意識させないで」
「失礼いたしました」
始点と終点が決まった物語を生きる身としては、刻々と持ち時間が減っていくのを知らされるのはあまりいい気分ではない。ちらりと見えてしまった年表のせいで、人生の節目はもう少ないことを突きつけられた。
人生の折り返しはとっくに過ぎている。マリー・ヴァレリーがどんな相手と添い遂げるかは知らないが、後は子供たちに遺産でも遺してやれればいい。
「皇妃は浪費家のイメージがありますけど、娘に多額の遺産を遺しているんですよね」
エリザベートの内心を見透かしたようにイルマが何気ない調子で言った。
「……娘にだけ?」
なんとなく、心がざわつくような言い草だった。
亡くなった長女には完了を示す印があった。
次女と三女は生まれただけでチェックが付いている。
しかし、ルドルフだけが空白だった。
ペン先は、そこだけを避けるように止まっていた。




