労災ハイキング
イルマの発案で、ハイキングとは名ばかりの怒涛の競歩大会が幕を開けた。
健康と美貌の維持のために特別に誂えられた鉄入りの靴を履いて、野山を早足に歩く。
体力お化けのエリザベートはちっともペースが落ちないが、お付きの女官が次々と脱落していった。
「……皇后陛下、お、お待ちを」
振り返ると、小高い崖から転落する女官の姿が見えた。
疲労骨折でもしたのか、ぐったりと倒れている女官の姿もあった。
「まあ、だらしないわね」
気が付けば、女官の誰も付いてきていなかった。
どれだけ歩いても疲れない心肺機能はたしかに山猿並みと言えた。
幾度となくハイキングを決行していたら、ゾフィー大公妃の息のかかった女官たちが次々と音を上げて宮廷を去っていった。
「あなたは何をやっているのですか。どうして女官たちが骨折するのですか」
「ただのお散歩ですが」
姑にこっぴどく叱られたが、やっていることはただのお散歩だ。
内容がちょっぴりハードなだけ。
三十キロばかり歩いた時にはさすがにやり過ぎだと反省した。
イルマは影であり、実体を持たない。
発案こそイルマであるが、怒涛の競歩を実行しているのはエリザベート自身が進んで取り組んでいることだと宮廷では目されていた。
皇妃の監視役として雇い入れた女官たちが離脱し、姑がぼやいた。
「こんなに大量に女官が辞めるなんて。新しく補充しなくては」
「労災はたっぷり払ってあげてください」
「……ロウサイ? また、マジャール語を……」
「業務上に負った負傷に対して、治療費を払ってあげてくださいと申し上げてるのです」
「あなたが無茶苦茶な散歩をするからでしょうが!」
珍しくゾフィー大公妃が声を荒げた。高齢のエステルハージ女官長は過酷なハイキングにはそもそも付いて来られず、エリザベートはこのところ野放し状態だった。
「仕方がありません。新しい女官を採用しましょう」
ゾフィー大公妃はエステルハージ女官長に採用を命じた。
「条件はどういたしましょうか」
「足腰が丈夫なもの」
上級貴族にあるまじき条件が付加され、エリザベートはほくそ笑んだ。
採用条件を記した書面に、影の存在であるイルマがこっそり条件を追記した。
――ハンガリー語が堪能なもの
程なくてして、採用候補リストが届けられた。
皇后陛下にも採用の意見を賜っているという建前のため、ゾフィー大公妃に渡されたものと同じ候補者リストがエリザベートにも届けられた。
「どうして下級貴族なんぞが候補に入っているの。しかもハンガリー人まで」
ゾフィー大公妃の激怒の声が宮中にこだました。
エリザベートはイルマにそれとなく訊ねた。
「下級貴族のなにが悪いの。貴族は貴族でしょ」
「ハプスブルク帝国の上流社会は、上級貴族と下級貴族に厳密に分かれています。上級貴族は大公を名乗る貴族か、侯爵ないし伯爵の称号を持つ人たちで、上級貴族の家系は八十家族しかありません。この八十家族は幾重にも婚姻関係で繋がっています」
「へえ、そうなんだ」
イルマが続けて解説した。
「下級貴族は勲功によって与えられる男爵、士族、ただのVONしか付かない身分に分けられます。いずれにしても下級貴族は宮中に参内できません」
「フォンってなに? フォン・ド・ヴォーなら聞いたことある。フランス料理の出汁だっけ」
「貴族の姓の前に冠する称号です」
「……惜しい。だいたい合ってた」
エリザベートをあっさり無視して、イルマが淡々と続けた。
「上級貴族と下級貴族が一緒になれるのは、謝肉祭の事前舞踏会の時だけです」
「血統が全てってことね。例外はないの?」
「軍人は士官になれば、宮廷舞踏会に招待されることがあります。フランツ・ヨーゼフ皇帝自身、帝国の最高位の軍人です」
白いズボンに、ブルー、緑、茶色の上着、羽飾りの軍帽。
帝国軍人は舞踏会を盛り上げる格好のデコレーションだった。
「実際の戦闘はからっきしでも、ハプスブルク王朝の軍服は華麗ですからね。舞踏会に姿を見せるだけで盛り上がります」
「相変わらず口が悪いわね、イルマ」
「事実を申し上げたまでです」
エリザベートがこほんと咳払いし、脱線した話題を本筋に戻した。
「下級貴族を女官に採用するのはとんでもないこと。つまり、そういうことね」
「左様でございます」
エリザベートは採用候補リストの末尾に目を向けた。
ハンガリー人であり、下級貴族出身。
本来、皇妃の女官にはなれない身分だ。
「……イーダ・フェレンツィ」
髪も目も濃い茶色で、穏やかで上品な顔立ちをしている。
落ち着いた雰囲気で目立ち過ぎないのが良かった。
「皇妃の二歳年下でございます」
「年も近いのね。ちょうどいいわ」
「いかがいたしますか」
共犯者のごとくにイルマが言った。
どのみち、今のエリザベートに女官を採用する権限はない。
「個人的に友達になりましょう。それなら、なんの問題もない」




