反ハンガリー
皇妃エリザベートの美に関する執着は尋常ではなかった。
化粧品の宣伝しかしていないそこらの美容本より、「皇妃美容本エリザベート・メソッド」なるものを出版した方がよほどヒットするような気がした。
無論、毎日の美容はエリザベート自身が望んだものではない。
解釈違いを許さない皇妃オタク・イルマの徹底指導の賜物だ。
皇妃の影であるくせに、皇妃の口を乗っ取ってあれこれ指示を出す。
「さあ、美容の時間よ。ぐずぐずしないでちょうだい」
「はい、皇后陛下」
美容面に関して、エリザベートに主導権は一切なかった。
バラの蒸留水を使った化粧水で肌を引き締め、保湿。
全身にクリームを塗り込み、一日三回のマッサージ。
毎晩、仔牛の生肉でパック。
湯船に牛乳と蜂蜜を入れて肌を滑らかに保つ。
早朝は水風呂に入り、肌を引き締めた。
とりわけ、髪の手入れには凄まじい執念を感じた。
毎日二、三時間をかけ、卵黄とコニャックで洗い、クルミの殻の煮出し汁で処理する。
それから、また三時間ほどかけて、訓練を受けた専属の女官が皇妃自慢の髪を結い上げる。
足首まで届くほど長く豊かな髪を美しく維持するだけで、ほぼ半日が費やされた。
されるがままに美の実験体となる日々には飽き飽きしていた。
女官が髪を結い上げている最中も、エステルハージ女官長が目を光らせていた。
常にエリザベートを監視しており、鬱陶しいったりゃありゃしない。
「クリミア戦争ってなんだっけ。なんか教科書で見た気がする」
皇帝が掛かりきりになっている戦争の名を呟いただけで、ぴしゃりと叱責された。
「政治に口を挟むのはおやめください。皇妃のお役目は一日でも早く、お世継ぎとなる健康な男子をお産みになることです」
世が世なら、速攻でハラスメントとして通報される言動だった。
「ハプスブルク家の繁栄のためですか」
「左様でございます」
「繁栄というより、繁殖よね」
「まあ、なんという言葉遣い」
挑発したわけではないが、エステルハージ女官長が血相を変えた。
「2500年だかに日本人の名字がすべて佐藤姓になるとかいう研究があったじゃない。そうはならないと思うんだよね。佐藤は多いだけで、繁殖力が優れているわけじゃないから」
「サトウ? ニホンジン? いったい何の話をしているのですか。まさか、マジャール語を話しているのではありませんね」
ただの独り言を宮廷内で話してはならない禁じられた言語扱いされた。
ふくよかな女官がエリザベートが脱いだ下着に血が付着しているか否かを確認した。
それとなくエステルハージ女官長に耳打ちする。
「……そう。分かったわ」
どうにもエステルハージ女官長は、ゾフィー大公妃にエリザベートの月経周期まで報告しているようだ。
姑に月経周期まで把握される不自由さには、さすがに反抗心がもたげた。
どうにかして、女官長の首をすげ替えれないだろうか。
常時六、七人はいる女官はすべて姑の息がかかった上級貴族だった。
皇后の身の回りの世話、服装の補佐、公務の随行、日々の行動の監視など、役割は多岐にわたり、身分の高い上級貴族のみからしか選任されない。
「女官長、質問してもいいかしら」
「なんでございましょうか」
「私に仕える女官はずっと同じ方が務めてくださるのかしら」
エステルハージ女官長はかしこまった調子で言った。
「いいえ。宮廷の高官以外の男性と結婚すると、辞めねばなりません」
「結婚したら、辞めるということ?」
「お相手次第かと存じます。良縁を求めて女官となる者もおります」
女官は基本的には独身で、結婚したら辞めるというのが通例であるらしい。
「いかがでしょうか、皇后陛下」
「素敵ね。ありがとう」
ようやく髪が結い上がり、姿見に映った自身の姿をまじまじと見つめた。
見た目がいいからと、自己評価が爆上がりするタイプではない。
所詮、中身は佐藤だ。
だが、見た目が圧倒的に良いということは理解している。
これほどの美貌であるが、フランツ・ヨーゼフ皇帝が身を持ち崩すことはなかった。
ダメ男製造機の佐藤は、付き合った相手はことごとく仕事を辞めるのが常だった。
当初は真面目に働いているのに、いつの間にやらヒモとなり金をせびるようになる。
それなのに皇帝は仕事を辞めるどころか、新婚ほやほやの若妻など見向きもしないストイックさで働いている。
きっちり朝四時に起き、夜九時に就寝する日課が崩れる気配がない。
「ダメ男製造機よりも皇帝の方が強かったか」
エリザベートが呟くと、耳慣れない奇妙な言葉遣いであったからか、周囲の女官は誰も反応を示さなかった。ハンガリーのマジャール語だと思われているのだろう。
姿見をまじまじと見つめ、エリザベートは己の容姿を確かめた。
「美貌ゆえに国を傾かせた傾国の美女。そういうのではないのよね。クレオパトラとか。よく知らんけど」
姿見に向かってぶつぶつ話しているが、誰も反応しない。
イルマさえ何も言わない。
どうにも現代的な言葉遣いをすると、マジャール語だと勘繰られるようだ。
独立自治を求めて大規模な反乱を起こしたハンガリーに対する悪感情ゆえ、宮中の人間はハンガリーに関していそうなものにはおいそれと触れない。
宮廷内はどこもかしこも反ハンガリー。
そこまで忌避することだろうかと思ったが、ふと名案が浮かんだ。
女官をすべてハンガリー人で固めれば、宮廷の誰も手出しできないのでは。
しかしながら、女官の採用人事はゾフィー大公妃の専権事項だろう。
新米皇妃の分際で、勝手に雇い入れることなどできそうもない。
「宮廷画家がお見えになっております。こちらへ」
「はいはい」
皇妃の美しい姿を後世に残すためか、宮廷画家が肖像画を描きに来た。
ただ微笑んで佇んでいるのもなかなかに辛い。
気を紛らわすため、イルマにそれとなく相談した。
「なにか悪巧みですか」
「ハンガリー人の女官を雇いたいんだよね。でも、私にそんな権限ないでしょう」
イルマが寄越したのは斜め上の回答だった。
「ハイキングをいたしましょう」
「……へ?」




