13
~ 丸野 ショウタ ~
おそらく、お母さんです、と谷津崎さんに告げられたのは、ユカリ君が大食いを開始してから、一週間くらいした頃だった。
リビングには、谷津崎さんと宇ノ沢さん、ユカリ君、そして、様子を見に来てくれたイツキさんがいた。
そうですか、と返事をした声が、我ながら単調過ぎていた。乾いた声だった。
母はどうして、この家に留まっているんだろう。なにがしたいんだろう。どうしたいんだろう。
「なにかを訴えてはいませんが、丸野さんに、執着してます。それと、モモカさんに」
「……モモカさんに?」
「はい。霊が反応するのは、丸野さんとモモカさんにだけです。あ、でも、モモカさんには興味を示す、と言った方が正しいかも」
「それは……、彼女には影響はないんでしょうか?」
僕だけならともかく、モモカさんにも興味を示していると聞いて、大きく動揺した。みんなにも、それは伝わったらしい。僕の質問に、谷津崎さんも、ユカリ君も、困った顔をした。
「分からないんです。私もユカリ君も、こんなに重たい霊っていうか……なんて言ったらいいんだろう……、重たい霊、ってしか表現できないんですけど……は初めてで。どういう影響がでるか……。ユカリ君がいるから、私たちは、疲れたなあ、くらいで済んでるんだとは思うんです」
「ユカリ君がいたら、霊の影響、受けないんじゃなかったの?」
考え考え話す谷津崎さんに、何をどう聞いていいのか判断できずにいると、イツキさんが間に入ってくれた。
「霊の重さの程度によるみたいです。ここまでだと、ユカリ君がいても、疲労感は大きいです。ただ、体調不良まではいかないんですけど」
「そっか。それって、霊が丸くんたちにしか興味を示さないから、その程度で済んでるかもしれないってこともある?」
「あ、そうですね。そういうの、あるかもしれないです」
「なるほどね。丸くんは、霊の影響は全くないみたいだけど、モモカさんはどうだろうな?丸くん、どう?」
「あ、えっと。……分からないです。僕、この家に泊まり込んでるから、モモカさんとも、ここでしか会ってなくって」
「そっか。確認した方がいいな」
「はい」
そうだ。モモカさんだったら、今の状況で、自分の体調不良の話はしないだろう。彼女は、そういう人だ。誰かを思いやることができる、素敵な女性で。僕やみんなが大変だから、って、自分のことは後回しにするだろうし、多少のことでは、何も言わないだろう。
「あ、僕、モモカさんに連絡してみます。それと、もしかして、なんですけど」
「はい」
「サヨコさんが寝込んでしまったのって、母に関係ありますか?」
「……断言はできないですけど」
……なんてことだ。僕、自分の都合で、縁も所縁もない人に甘えて、挙句の果てに、その人を体調不良に陥らせてしまったのか……!ご家族の人、心配しているよな。なんてことをしてしまったんだ、僕。
「イツキさん」
すがりつくようにイツキさんの名を口にしたけれど、彼も、困ったように左右に首を振るだけだ。
「あの、他に体調不良の人は、いないですか?」
「はい。確認しましたけど、みんな、強い疲労感程度で済んでるみたいです」
「そうですか。それは」
よかった、と言いかけてハッとした。テイクアウトしてきたピザを食べているユカリ君の前に座り込む。
「ユカリ君、ユカリ君は?」
「平気ですよ。ただちょっと、顎が疲れてきたくらいです」
「無理しないで!無理だけは。休憩して」
ピザを頬張ったばかりのユカリ君が、口をモゴモゴと動かしつつ頷いたけれど、気持ちは焦るばかりだった。
さっきはよかった、って思ったけど、みんな、強い疲労感があるなら、いいわけない。いつこの状況が打破できるか分からないのに。積み重なった疲労が限界を超えて、次はまた、誰かが倒れるかもしれない。
みんな、快く協力してくれたのに、迷惑ばかりかける。ただでさえ、時間を拘束して、食事も手配してもらったりして、とんでもなく大事になってしまっているのに。
どうしようどうしよう。これ以上、誰かに迷惑をかけるくらいなら、もう、これ以上は霊の対策をやめて、僕がこの家に住めばいいんだろうか。僕は住んでも平気だから、モモカさんとは別居って形になるだろうけど、それも……。いっそのこと、家ごと売却してしまおうか。ワケアリ物件であっても、この家の条件的に、買い手はつくだろう。ああでも、母さんは。僕がいなくなっても、この家に留まり続けることになるんだろうか。
「丸くん、落ち着いて」
イツキさんが、そっと僕の肩に触れた。目の前に、ユカリ君の膝が見えた。気付かずに、傾いてしまっていたらしい。
「まずは、モモカさんの体調、聞いておいでよ」
「あ……、そうですね」
スマホを手に立ち上がり、リビングを出る。廊下で電話を鳴らすけど、タイミングが悪いのか、出なかった。メッセージを打つ。「体調はどうですか」、これで、正直に言ってくれればいいんだけど。
動転、というよりも、狼狽が収まらない。サワサワした気持ちが、ずっと神経を逆なでしている。
リビングに戻ろうとしたら、玄関が開いて、石伊さんと草岡さんが入ってきた。
「こんにちは」
「いつも、すみません。あの、体調はどうですか、二人とも」
「アタシは平気だ」
珍しく、草岡さんが先に返事をくれた。石伊さんは、草岡さんの後ろに隠れるようにしていて、……元気がない。もしかして、石伊さんも。さっき、谷津崎さんは大丈夫だって言ってたけど、ほんとは具合いが悪いんだろうか。
「あの……?」
「えっと。私は大丈夫、です。ただ、サヨコさん、もう、来られないかも」
「あ、は……、そんなに具合いが悪いんですか。病院は」
ボソボソと下を向いたまま話す石伊さんが肩を落としたままだから、モヤモヤと漂っていた狼狽に不安がプラスして、僕に襲い掛かった。
お前のせいだ、お前が……っていう、母さんがヒステリーを起こした時の声が、耳鳴りみたいに聞こえてくる。
「違うってよ。病院いくほどじゃねえけど、大事を取って、ってことらしい。な?石伊」
「うん……」
草岡さんの大きな声に意識が引き戻されて、耳鳴りが消えた。いけない。もういない母さんに引きずられては。
「入るぞ」
そう言って草岡さんがリビングの扉を開けたときだった。
「来るな!!」
イツキさんの鋭い声が響いた。いつも、ひょうひょうとした調子で話すイツキさんとは思えないくらいの激しさで、足が止まった。先頭にいた草岡さんの背中に、石伊さんが突っ込んだ。その石伊さんを背中で押すように、草岡さんが勢いよく後退して扉を閉めた。よろけた石伊さんが尻餅をついた。
考える前に、体が動いた。退いた草岡さんと扉の隙間に体を滑り込ませた。止めようとした草岡さんの手を振り払って、リビングへと飛び込んだ。
「なっ…………」
ほんの数分前までは、ユカリ君がピザを食べて、宇ノ沢さんが台所にいて、谷津崎さんとイツキさんが僕と話していただけだったのに、一気に様相が変わっていた。
ユカリ君は壁際に押さえつけられたようにへばりついていて、谷津崎さんは真っ青な顔で、宇ノ沢さんと台所で震えていた。そして、イツキさんはリビングの中央に、険しい顔をして立っていた。
「来るなって言っただろ、丸くん!リビングを出ろ!」
脂汗を流しながら、何かを制御するように、イツキさんは両腕を前に出している。
「ユカリ君、みんなを連れて、リビングを出てくれ。今ならなんとかなるから」
壁にへばりついていたユカリ君が、ガクガクと頭を動かして動こうとしたけど、足に力が入らないのか、よろけて座り込んだ。
「丸くん!出てくれ!」
ユカリ君は、イツキさんの向こう側だ。宇ノ沢さんと谷津崎さんのいる台所へと足を向ける。抱き合うように座り込んだ二人は、左右に首を振った。
「む、無理です……、こ、腰が……」
腰が抜けたのか。どうして?僕がリビングから出ている数分で、一体、何があったんだ?
「腰が抜けて、立てないみたいです」
「そっか。……すまん。俺にはこれ以上は無理だ。丸くんだけでも、リビングから出てくれないか?」
誰に何を謝ったのか。イツキさんは、脂汗を流したまま呟いた。両腕はつきだしたままだ。腰が抜けたり、足に力が入らなくなるほどに、ユカリ君たちには何が視えているのだろう。僕には、なにも視えないのに。でも、僕のせいなのに!
「できません。僕のせいなのに!」
「言うと思ったよ。でも、丸くんが出てくれた方が、楽かも……」
「母さん!どうしたいんだよ!?なんで、こんなことになったんだよ?!」
視えないけれども、母さんがこの事態を引き起こしてることに間違いはない。どうしてこんな、人に恐怖を与えるような存在になってしまったんだ。一体、なにがしたいんだ。
「霊を刺激するのはよくない」
すぐ隣で、男の声がした。誰かが扉から出入りした気配は微塵もなかった。ド、っと心臓が大きく波打った。隣に視線を動かす。サングラスの、やけに硬い印象を放つ人が立っていた。この人は、里中さんのときの。
「お前の母親は、自分の罪も罰も理解できずに、ああなった。楽になることはない。これ以上は害悪だ。連れて行く」
訥々とした口調には、なんの感情も入ってなかった。事実を事実として話しているだけだと、直感で分かった。
ああなった、と言われても、僕には何も視えない。
「ど、どこに」
「愚かで醜い存在が行く場所だ」
それはどこ、と口を開きかけたときに、視界の端に二つの影が映った。長い黒髪の女性と、里中さんのときにいた、もう一人の男の人。
「遅えよ」
「ごめーん。仕事、詰まってるんだよねえ」
「お忙しいことで」
「まあね、イレギュラーなこともあるしねっ」
後から現れた男の人が軽口をたたきつつ片手を上げると、イツキさんは両腕を下ろした。安堵したように息をつく。彼らは、知り合いなのだろう。
「そいつは俺の担当だ。連れて行く。問題はなかろう」
「ないけど」
「ねえねえ、そりゃないでしょ」
「ないけど、もうちょっと時間あげたら。この霊、ちょっと自我、取り戻してたじゃない。そこの大食いの男の子のおかげで」
「取り戻しかけたところで、意味はない。今、襲おうとしていた」
「ま、それはそうなんだけど」
「それに、ソイツはもう、協力できんだろう。怯えている」
「怖い目に会ったら、誰でも怯えるでしょ」
「時間を多少やったところで、その男に頼らずに、どうやって自我を取り戻す?取り戻したところで、ソイツは反省も後悔もせん。薄汚いままだ」
「それはどうかなあ?自分を助けようとして、見も知らぬ人たちが頑張ってくれてるのを見てるんだよ?」
「それでも分からぬのが、人だ」
「珍しいんだから、もうちょっと待ってあげなさいよ。まだ、襲ってないじゃない」
「そうだよ~。狩られた魂が自我を取り戻しかけるって、相当、奇異なことだよ」
「それに何の意味がある?結果が変わらなければ、あの時、お終いにしておけばよかった、となるだけだ」
会話の内容は、意味不明だった。聞こえてはいるけど、内容は全然、理解できない。
「丸くんは?どうしたいんだ?」
脂汗を拭っていたイツキさんが、急に僕に水を向けた。体がビクリと反応する。
「息子は関係なかろう。息子と母親の人生は、別だ」
「そうだよ。だけど、そうでもないよ」
隣のサングラスの男が僕を見下ろした。
「どうしたいんだ」
どうしたい。できるなら、母さんを助けたい。でも、こんなに怯えているユカリ君たちを目にしてしまったら、そんなエゴの塊みたいなこと、口には。
場違いな音が、その場に鳴り響いた。スマホの着信音だ。こういうときって、不思議だ。理解不能な状況でも、日常的にしている動作は、反射で出る。手が勝手に動いて、ポケットにしまってあったスマホを取り出す。メッセージを確認した。モモカさんだった。
「私は大丈夫だよ!後で、お惣菜、持っていくね。ショウタ君も、体調、気を付けてね。みんなによろしく」、そのメッセージはありふれた日常の、なんでもないものだったけど、ふ、と肩に入っていた力が抜けた。
サングラスの男を見上げる。
「僕自身は、母を助けたいです。そのチャンスがあるなら。ただそれは、僕一人の力ではできません。僕には、母を視るどころか、感じる力さえないから」
サングラスの男の眉毛が、片方だけ上がった。
「視ることも感じることもできずに、どうやって救う?」
「助けてもらうしかないです」
「ほう。ずいぶんと身勝手だな。見てみろ。お前たち親子のせいで、どれだけの人が迷惑している。恐怖にさらされ、体調だってよくないのではないか」
ぐらり、と足元が歪む。現実を突きつけられて、自分の愚かさやエゴに襲われる。母さんの声が聞こえてくる。
「丸くん!俺の声、聞こえるか?こっちだ」
いつの間にか視界が暗転していた。ハッと意識が戻る。見回すと、さっきまで立っていたユカリ君も、うずくまっていた。イツキさんの手前で、サングラスの男とイツキさんの知り合いの男の人が、大きな鎌を手に向き合っていた。
「これ以上は待てん。生者を危険にさらせん」
「だよねっ」
「分かっているなら、使い魔を退けさせろ。使い魔を斬る必要はない」
「だから、ちょっと待ってよ、って。ウチの番人が話してる最中だし」
その言葉を背にして、イツキさんが僕のところに駆け寄ってきた。
「丸くん、いいか。気をしっかり持て。霊が、丸くんが弱っているところに反応して、襲い掛かろうとしている。暴れるたびに、ユカリ君たちに負担がかかる」
「……母さんが」
頷いたイツキさんが、僕の目を覗き込んだ。いつもは笑みを含んでいるけれど、今は、真剣そのものだった。
「助けたいんだろう?」
「はい。母を、助けたい、です」
「ほら、おとなしくなってきたじゃん?」
「今、多少落ち着いたところで意味はない。どけ」
「ねえ。泣いてるんだけど。この霊」
それまで二人に背を向けて、何かを覗き込むようにしていた女の人が、体を伸ばして振り向いた。
「だからなんだ」
「この状態で泣くんだから、おおめに見てあげたら」
ドン、と鈍くて重たい音がリビングに響いた。地響きかと思うくらいのそれは、サングラスの男が自分の鎌の柄を、床についた音だった。彼女の言葉は、サングラスの男の神経を、ものすごくものすごく、逆なでした、ようだった。
「いい加減にしろ。どいつもこいつも。自分のことしか考えられぬのか!!お前らには、目の前で怯えている三人が見えんのか。死者を救う為に、生者をこれ以上脅かしていい理由など、一つもないっ!」
静まり返ったリビングで、サングラスの男が鎌を構えなおす。無駄な動きなんて一つもない、流麗で、それでいて、残酷な動きだった。
「どけ。どかぬなら、使い魔ごと斬る」
「そういうわけにもいかないんだよねっ」
「お前ごと斬ってもいいんだぞ」
「俺?斬られたっていいけどさ。でもさ、選択し終わってからにしてよ。ま、この状況で、この霊にはないよ、選択肢。でも、生者にはあるんだよ。ね?」
「しょうがないわねえ、まったく」
女の人がナイフを抜く。みるみる間に、それは二人と同じ大きさの鎌になった。サングラスの男に向かって、何かを庇うように背を向けて、鎌を構える。
「おい」
「仕方ないでしょ。生者の選択肢を奪うのは、私たちには許されてない。さ、この状況をどうにかしてちょうだい?番人さん。あんまり、時間ないわよ」
肝心の母さんが視えていない僕には、視覚的に状況判断をする情報が欠損している。感じることもできないから、他のみんなが、どれくらい恐ろしい思いをしているのかも、分からない。
だから……、これ以上、助けたいと声を上げることはできなかった。うろついた視線の先で、イツキさんが僕に向かって笑った。すい、とユカリ君の方へと動く。
「ユカリ君、どうする?」
イツキさんに背中を揺すられたユカリ君は、ひっくり返った声を上げた。顔は上げないままだった。
「やりますっ!!だって、俺、まだ、メッチャ腹減ってますカラッ!!」
からっ、という語尾は、完全にひっくり返っていた。震えていたし、声量の調整もできないみたいで、素っ頓狂な声だった。
「無理、しなくてもいいんだよ」
「そうだ。俺が霊を連れていってやる。そうしたら、お前が腹を空かせる必要もなくなる」
「…………………や、やります」
「馬鹿な男だ」
「わ、わわわ、私、料理、作りますっ!!だからっ!!」
サングラスの男の声にかぶさるように、叫び声が響いた。リビングの扉から、いつの間にか、石伊さんが這って入ってきていた。止めようとしたんだろう、草岡さんがその背中にしがみついている。
「ほう?お前もか」
サングラスの男が首だけを動かして石伊さんを見た……いや、草岡さんを?真っ青な顔をした草岡さんが、傍目で分かるくらい、顎をガクガクさせている。その口からは、単語しかこぼれてこない。
「私が!やるんです!彼女はいいでしょ!!」
背中にへばりついている草岡さんをかばうように、石伊さんが彼女を抱きしめた。頭を抱え込んで、サングラスの男からの視線を遮断する。
「いじめないでよ!!」
顔を真っ赤にして涙目になりながらも、石伊さんは毅然と言った。手も肩も、足も震えている。
「さ、丸くん。なにか言うことがあるんじゃないか?」
いつもの、飄々としたイツキさんの口調だった。
「ありがとうございます………、よろしく、お願い、します」
宇ノ沢さんと谷津崎さんの、押し殺すような息遣いと、石伊さんの荒い息、睨み合う不思議な男女三人。その空間が崩れたのは、サングラスの男が口を開いたからだった。
「よかろう。霊も危険な状態からは脱した。見逃してやる」
リビングに、ホッとした空気が漂った。
「ただし、今回、見逃すにあたって、ペナルティをもうける。いいな?」
「言いわけないでしょー。生者にペナルティって、どういうことよ?本来、この世は生者のものなんだから、どう決断しようと、彼らの勝手なんだけど」
「俺たちが三人も出張って、使い魔まで駆使している。なにもなかったことにはできん。この霊が自我を取り戻せなかったら、息子のお前も連れて行く。いいな?」
鎌が、すい、と僕の方を向いた。ギラリとしたその刃が、もう、今すぐ僕を連れていってしまいそうな迫力で、息が詰まる。
「そのくらいの覚悟もなく、責任も負わずに、安易に他者を危険にさらそうとはしていないな?」
誰かに何かを願うなら、それ相応の責任も覚悟も必要だ。それは当然だ。サングラスの男の言葉を、脳内で噛み締める。
すぐに、はい、と言い切れなかったのは、モモカさんの笑顔が浮かんだからだった。彼女を、置いて行ってしまうことになる。僕の、大切な大切な、人。
「即答できぬか。これだから」
「別に、丸くんじゃなくてもいいだろ。俺が一緒に行ってやるよ」
僕と鎌の間に、遮るように入ってきたのは、イツキさんだった。
「イツキさん!!そんな!!」
「どうなんだよ?それとも、俺じゃダメかよ」
「お前は関係ないだろう」
「ないよ。でも、ちょっと見過ごせねえからさ。いいのか、悪いのかだけ答えろよ」
サングラスの男が、どこか焦りを浮かべている鎌を持ったままの男をチラリと見た後、頷いた。
「よかろう。そのときは、お前を連れて行く」
「待って!」
サングラスの男が、いきなり消えた。鎌を持っていたもう一人の男の、焦った声は間に合わなかった。
「さ、これでよしっと。ユカリ君、ご飯、食べられる?」
「きゅ、休憩してからで……」
「だよなっ。じゃあ、みんなで休憩しようぜ。俺、今日、コーヒー豆、差し入れで持って来てんだ。今から淹れるよ」
気が付くと、黒髪の女性も、鎌を持っていた男の人も、いなくなっていた。安堵と混乱がリビングを満たしている中、ピンポンが鳴った。
「渕田です~。今日はサンドイッチ作ってみたんだけど……あれ?どうしたの?」
頻繁に差し入れを持って来てくれるようになった渕田さんが、怪訝そうに玄関先から声を上げていた。
~ 草岡 ユミ ~
生唾を飲もうとしても、唾がなかった。心臓はうるさいし、体も震えた。でも、石伊の腕の中はあったかくて、少しだけ、心が和らいだ。いじめないでよ!という、石伊が上げた声に、じわ、と涙がにじんだ。
コイツ、自分だってこんなに心臓ドキドキしてて、怖くてしかたないだろうに。腰抜けて立てねえから、這ってたのに。アタシをかばったのかよ。そんな状態でさ。バカだな、石伊。アタシはもう、人生終わってんだよ。それにアタシは、あんたに、こんな風にかばってもらえるような人間じゃないんだ。
石伊がアタシの頭を抱えている間に、その場は収束した。サングラスの男どころか、他の”お迎え“もいなくなって、井頭がコーヒーを淹れようとしているのに、石伊はアタシの頭を抱えたまま、動かなかった。
「おい……?」
玄関先で、丸野が渕田とやり取りしている会話を聞き流しつつ、石伊の腕の中から抜け出す。「いつもすみません。ありがとうございます」「いえいえ~。それじゃ、また。頑張ってくださいね」という、なんとも生活感が滲んでいるやり取りが、逆に、リビングの非日常感を際立たせている。
ユカリもココもシヅカも、なんとかソファへと座った。お湯が沸く、シューッという音が聞こえ始めた。
「なあ。石伊、気絶してんだけど」
「ええっ?!」
差し入れのサンドイッチを受け取って戻ってきた丸野が大声を上げた。ぼんやりとサンドイッチを眺めた。すっげえ量だな。アタシだったら、食べるのに一週間くらいかかるな、この量。この量一人で作ってくるんだから、なにげにすげえよな、あの、ココの幼馴染み。
「そうですよね。石伊さん、普段、あんな感じじゃないですもんね」
みんなでソファ周辺に座る。井頭が淹れてくれたコーヒーは、器具が違うせいか、店で飲むのと味は違ったけど、美味かった。みんな、消耗していて、気を失った石伊を運ぶのは無理だったから、丸野が布団を運んできた。そこに寝かせた石伊は、まだ、眉間に皺を寄せたまんまだった。もったいねえな。せっかく肌きれいなのに。刻まれちまったらどうすんだよ、皺。
人差し指を伸ばして、石伊の眉間の皺を伸ばす。みんなに背を向けたまま、独り言みたいに呟いた。
「サヨバアが寝込んじまって、責任感じてたみたいなんだ。それで、ムキになったんじゃないか」
「サヨコさん?」
「サヨバア、なかなか本調子にならないからさ。元気だけど、最年長だしな。もっと気を付ければよかった、って言ってたんだ」
「サヨコさん、元気だからなあ。パワフルだし、年齢、忘れちゃうよな~」
はは、と井頭が軽薄そうに笑う。その場の空気を軽くしようとしてそうだ。
「そうですね。サヨコさんって、とにかくよく笑うし、元気だし。声も明るいしね」
「でも、言われてみると確かに、最年長も最年長でしたね」
「そんなに悪いんですか、体調」
井頭の思惑とは反対に、しんみりとしちまったけど、丸野さんだけは、気が気じゃない様子で身を乗り出してきた。
「石伊しか会ってねえから、詳しくは知らない。でも、まだちょっとここには来れなさそうだ」
「そうですか。お見舞いを……」
どいつもこいつも、暗い顔してんなあ。コイツら、生きてんだよな?生者はもっと、人生を謳歌してくれよ。
フン、とわざと鼻で笑ってみせた。
「サヨバアなんて、ただのうるせえババアだっつうの。そんな心配しなくたって、ケロッとするさ。そんでまた、やかましくこの家に来るって。だから、さっさと大食い再開させた方がいいんじゃねえの」
「……そうです」
「石伊。起きたのかよ」
「眉間をそんなに引っ張られてたら、起きるよ」
「お前の眉間の皺、刻まれてたぞ」
「別にいいもん、眉間の皺くらい」
むくり、と起き上がって、真っ直ぐみんなを見た。
「サヨコさんだったら、やるって言うと思ったんです、あの時。きっと、諦めないだろうなって。でも今、来られないから。だから、私が料理、作ります。できる限り。頑張ります」
気絶してたくせによ。いっつも、言いたいこともロクに言えずに俯いてるくせに。でもよ、石伊は今、最高にカッコいいよ。布団の上だろうと、髪の毛がグチャグチャだろうと。強い意志で、まっすぐそう言える石伊は生気に満ち満ちていて、見とれてしまうくらい、眩しかった。
~ 宇ノ沢 シヅカ ~
一瞬で、ビックリするほどリビングが様変わりして、私はそれに飲まれてしまった。霊が視えてるわけじゃない。だけど、呻き声が聞こえてきた。地の底から響いてくるような、そんな、……聞いたこともないような呻き声。それと同時に、リビングに巨大な影のようなモノが満ちて、ココがスライディングをするように、私の方へと退いてきて、丸まった。
ココを起き上がらせようとして、かくん、と膝が落ちた。そこからは、二人で抱き合っているしかできなかった。ただただ、目の前で起きる出来事を、映画のワンシーンのように。
頭は現実だなんて思えなかった。
だって、ふいに知らない人が三人、リビングに現れたと思ったら、大きな鎌まで出してきて。話していることも、全然、理解できなかった。霊だって、ハッキリとは視えない。
でも、感じた。頭以外の、いろんな感覚が。耳が、肌が、心が、ううん、全身が、恐ろしいと叫んでいた。ブルブル震える体を抑えることはできなかった。
わけが分からないまま、突如として、非現実的なやり取りは終わった。もう、影も視えないし、呻き声も聞こえない。
でもまだ、ちゃんとは動けなかった。ただ、いつまでも、こうして床にへたり込んでいるわけにはいかない。井頭さんに促されるままに、なんとか、ココと二人でソファへ移動した。
ココは顔色は悪いけど、前みたいな感じじゃない。渕田さんがサンドイッチを持ってきたときに、反応してたし。受け答えはできなかったけど。そのことに、ものすごく安堵した。やっぱり、ユカリ君がいるから、あんなに怖い思いしても、霊の影響は受けづらいのかな。だとしたら、ユカリ君って、すごいな。霊だけじゃなくて、一緒にいる人を癒す力もあるんじゃないの?
正面に座ってるユカリ君は、真っ青な顔をしている。そうだとして、ユカリ君を癒せる人って、いるのかな。ん?でも、本人は無意識だろうし、必要ないのかな。お互いに、日常的に感じることはない能力だから、生活する上では、関係ないのかも?
井頭さんがコーヒーを全員分、淹れてくれた。この家は、さほど揃ったカップ類はないから、マグカップやコーヒーカップは、まちまちで、全員、ほぼ違う器を手にしている。
「美味しい……」
隣でココが呟いた。背筋が伸びた。
「ココ、どう?体調、悪くなってない?」
「うん。怖かっただけ。体調は全然、平気。ユカリ君、ありがとう」
「えっ……?は、はい?」
名前を呼ばれたユカリ君が、言われたことを理解してなさそうな感じで、半疑問の返事をした。ぐうう、とお腹が鳴る。
「あ、どうぞ。渕田さんの差し入れのサンドイッチです」
コーヒーのマグカップを片手に、ユカリ君はサンドイッチを眺めて、ちょっとだけ逡巡した後に手を伸ばした。
「……いただき、ます」
どこか決意を含んだその言葉を聞いて、石伊さんが立ち上がった。
「私、料理、作り始めます」
「石伊。ちょっと休憩しろ。お前、さっきまで」
「怖い思いしたのなんて、みんなだよ。やるって言ったんだから、私、やる」
「しょうがねえなあ」
チッ、と舌打ちをしつつ、台所へと立った石伊さんの後を、ユミさんが追った。いつもは石伊さんの方がお姉さんみたいだけど、今は、ユミさんがお姉さんみたいだった。
ガサガサと買い物袋の音がしばらくした後に、小さく会話が聞こえてくる。「お米研いで」「はいはい」「ちゃんと計ってよ」「わかってるっつーの」という、なんだかんだといつも通りの会話に、場が少しずつ和んでくる。
丸野さんが俯き加減に、ちょっと連絡してきます、と席を外した。黙々とサンドイッチを頬張るユカリ君と、脱力したように座ったまま、少しずつコーヒーに口を付けるココ。いつもと変わらない、飄々とした風でコーヒーを飲む井頭さん。静かに、ココに問いかけてみた。
「ココ、どうする?」
「どうって」
「怖かったでしょ」
返事はなかった。うん、とも、ううん、とも。怖くないわけがない。視えない私でさえ、あれほどの恐怖を感じたんだ。
黙々とサンドイッチを食べながら、ユカリ君が言った。
「谷津崎さんも、シヅカさんも、無理しないでください。俺、大丈夫です。責任とか、感じなくっていいです」
ハムチーズサンドの辛子が、思った以上に利いたらしい。辛そうに顔をしかめた後、今度はツナサンドへと手を伸ばす。サンドイッチの具材は、豊富だった。他に、タマゴサンド、BLTサンド、カツサンド、生クリームとブルーベリージャムのサンドイッチまである。
ココが無表情でユカリ君に視線を合わせた。感情って、目にも宿るんだね。無の目っていうのは、無だけに迫力がある。普段、意識してはいなかったけど。
大丈夫です、とユカリ君はもう一度、繰り返した。
「最初は頼まれただけでした。でも、食べてるうちに、変わってきました。救えるものなら、救ってあげたいです」
「僕が言う事ではないですが、……どうしてそこまで、母の為にしてくれるんですか?」
いつの間にか戻ってきていた丸野さんが、真っ直ぐな口調で聞いた。
「俺、霊とは話せないです。でも、思念を感じたんです。ここで、過ごしているうちに。強い、孤独と寂寥感。それが、俺の飢餓と繋がってる感じがしました。あれほどの孤独と寂寥を抱えていたら、狂おしいほどに飢餓を覚えると思います」
「かわいそうってこと?」
胸を衝かれたような表情をして黙り込んだ丸野さんの代わりにか、井頭さんが訊いた。視線を落とした後に、首を左右に振る。
「違います。孤独や寂寥から、救われて欲しいなって思ったんです。その可能性が俺にあるなら、やってみようって思ったんです」
サンドイッチを食べながら、ポツリポツリと、言葉を選びながら話すユカリ君は、しっかりと自分で考えて決めていた。毎日毎日、食べながら、考えていたんだろう。
二十歳そこそこの大学生なのに、こんなに重たいことを背負わせてしまった自分が、情けなかった。無力だし。だからこそ、せめて、最後まで一緒にいないといけない、と思った。
「私も、最後まで見届ける。今まで通り、ここに来る」
この状況では、なかなか言葉が出ないだろう。当事者でありながら、誰よりも霊に対して鈍感な丸野さんは、どういう表情をしていいのかさえ分からずに、心細そうに座っている。
「私、私は……」
ココが口を開いた。視線が集まる。
「今、決められない。ごめんなさい」
当然です、と丸野さんが頭を下げた。
~ 谷津崎 ココ ~
じゃあ俺、この後用事あるから帰るわ、と井頭さんが立ち上がって、声をかける間もなく、さーっと帰ってしまった。あの三人のこととか、ダチョウに見えたナニカのこととか、霊のことも、なにも説明はなかった。井頭さん、ダチョウを操っていたし、あの三人のことも知っていそうだったけど。
霊は、恐ろしかった。おどろおどろしい、って表現は、このためにあるんだと思うほどの、圧倒的な暗闇と絶望感を纏って、とんでもないうめき声を上げて、丸野さんに一気に襲いかかろうとした。
向かって来たのは、私じゃなかった。それでも、リビングは、部屋ごと真っ暗闇の中に突き落とされたような感覚に陥った。こんな霊は、接したことがない。ここまで激しく明確に、生者に向かって牙をむく霊。怖くて怖くて怖くて、反射的に背を向けて、滑り込むようにシヅカの方へと走った。気付いたら、ダチョウが檻のような形に変形して、霊を閉じ込めていた。閉じ込められても、霊は暴れていた。暴れるたびに、黒くて恐ろしいナニカがリビングに充満する。目を閉じて耳を塞いで、縮こまることしかできなかった。
井頭さんが立ち上がった後、私も立ち上がった。
「帰ります。ごめん。シヅカ、私、先に帰るね」
「……うん。なにかあったら、すぐ連絡ちょうだいね」
「分かった」
心配そうにはしたものの、シヅカは異を唱えることなく、すんなりと頷いた。シヅカのこういうところが、付き合いやすいところだ。どっちにしろ、帰る家は一緒だし。
フラリ、と丸野さんの家を出る。駅の方へと向かおうとして、足が反対方向へと向いた。歩きながら、ダチョウの姿を思い浮かべる。あの足、どうなってるんだろう。鉄格子の部分、足の部分がぐーんって伸びてなってたよね。ダチョウって、あんな機能、あるんだっけ?あるわけないよね。ただのダチョウじゃないんだよね。霊を封じ込めてたし。
なんて、間抜けなことを考えていたら、三丁の鎌が脳裏をよぎった。ぶるり、と身震いする。ノロノロとした足取りが止まりそうになった時、聞き覚えのある声が私の名を呼んだ。
「あれ~?ココちゃん?」
「さっちゃん……」
「どうしたの?あっ!今、帰り?」
「あ、うん、そう……」
にこにこと近寄ってきたさっちゃんに、曖昧に頷く。さっき、サンドイッチを差し入れしてくれたんだった。お礼、言わないと。
「さっちゃん、サンドイッチの差し入れ、ありがとうね」
「いいの、いいの!暇だから。パート行く以外は、家の事するくらいだし」
「旦那さんたちは?」
「……まだ、帰ってこないんだあ」
一拍置いた返答は、彼女の寂しさが含まれていた。にこり、ともう一度、笑顔になって、さっちゃんが買い物袋を掲げた。
「ココちゃん、時間あるなら、家でお茶でもどう?ドーナツ買ってきたんだ」
ドーナツって気分じゃなかったけど、まっすぐ家に帰りたくなくて、私は頷いた。
さっちゃんの家は、ちょっと贅沢な作りだった。小ぢんまりとはしてるけど、注文住宅なんだって。すごい、って純粋に思った。同じ年だけど、人生って、人によってこんなに違うんだ。私は独身で会社員をしていて、さっちゃんは家庭を築いていて。どっちがいい、とか、悪い、とかじゃなくって、人それぞれ、違う人生があるんだ。みんな一緒なわけじゃない。
通されたリビングは、天井が高くて、窓も大きく取られていて、清潔で風通しも良かった。さっちゃんが、普段からこまめに手入れしてるんだな、っていうのが、よく分かる。明るい色の家具は、さっちゃんの好みなんだろうか。
「はいっ、どうぞ」
「ありがとう」
「ううん。私こそ。お茶に付き合ってもらっちゃって、ありがとね。ところで、除霊はどう?」
「あ、えっと。まだ、かかりそうなんだ」
「そうなんだ?大変だよね、あの男の子。ユカリ君だっけ?ずーっと食べてるんでしょ?」
「う、うん。食べてる。休憩もするし、睡眠もしっかりとってるから、不眠不休で食べてるわけじゃないけど」
「でもさ、一日の大半、食べてるんでしょ?大変だよ~。すごいよね。私だったら、途中でやめちゃうかも」
ドキリ、と心臓が音を立てた。「途中でやめちゃうかも」、そのフレーズが、頭の中をかけめぐる。脳みそが考えをまとめる前に、口が動いてた。
「やめちゃう?」
「やめちゃうよー。根性ないもん、私。除霊なんて目に見えないこと、言い訳なんて、いくらでもできそうだし」
根性ない、か。根性ない人が、誰も帰ってこない家を、こんなに毎日、キレイに手入れしていられるだろうか。家族がいつ帰って来ても心地よく過ごせるように、手入れしてるんじゃないのかな。
彼女は確かに、ちょっとダメなところは多い。でもきっと、私の知らない、いいところ、いっぱいあるんじゃないだろうか。子どもの頃に、付き合いが途切れてしまってたから、私が知らないだけで。
返答に困って、ドーナツを一口かじる。有名店のドーナツだというそれは、チョコレートがたっぷりとコーティングされていた。ダークチョコが、中身の、甘いドーナツと混ざって美味しい。油も重たくない。
「美味しい」
「でしょ?ここのドーナツ、気に入ってるんだ」
飲んで飲んで、とコーヒーのおかわりを注いでくれる。さっちゃんは、謝ることができるようになった。そこから、なにかが吹っ切れたように感じる。前よりも明るいし。思えば、彼女、何の見返りもないのに、子どもが迷惑かけたからって、あれからずっと、一日に一回は、差し入れしてくれてる。
もう一度、お礼を、と口を開きかけたら、でもさあ、とさっちゃんが話しだした。
「中途半端で言い訳してやめちゃっても、逃げても、どこ行っても、自分からは逃げられないもんねえ。自分がなにから逃げたいか、ちゃんとわかってないと、逃げても無駄だよねえ」
苦笑いを浮かべながら、「私がそうだったもんね」と自嘲気味に言う。
自分がなにから逃げたくて、逃げようとしてるか、分かってないと、逃げても無駄。そうか、とは思えないけど、大事なことかもしれない、と思った。
また、にこり、と笑顔を浮かべて、さっちゃんは私を見た。
「嘘ばっかり吐いて、逃げてばっかりいた私が言うんだから、間違いないよ~。なにか迷ってて、逃げたいなら、逃げてもいいと思うけどね」
「……うん」
そっか。私、ちょっと傍目にも、悩んでるように見えたのか。だから、さっちゃん、お茶に誘ってくれたんだ。それで、こうして話ししてくれたんだ。
「よーくよく、考えてみる」
「うん。それがいいと思うよ。ココちゃんなら、大丈夫」
もう一度、にこり、と笑って、さっちゃんは大口を開けてドーナツを頬張った。
食べきれないくらい買っちゃったから持って帰ってよ、と持たされたドーナツは袋ごとで、更に、ショップカードも入っていた。ありがとう、と受け取って、さっちゃんの家を後にした。
今度こそ、駅へと向かって歩く。距離はあるけど、それくらいが今日はちょうどいい気がした。バスにも乗らず、タクシーも使わず、ドーナツの袋を下げて、ただブラブラ歩く。
怖かった。それはほんとうだ。恐ろしくて、どうしていいか分からなかった。霊の言っていることなんて、聞こうともしなかった。だって、そんな余裕はなかった。
でも、ユカリ君は霊の孤独を感じとってたんだ。私とは違う形で霊と交流を持てるってことなんだろう。憑かれている、っていうのは、どこかで繋がっているってことなのかもしれない。
なら、恐ろしかったのは、ユカリ君だって一緒だ。彼だって、なす術もなく座り込んでいたじゃない。
俺、やります、とサンドイッチを食べながら、誰を見ることもなく呟いたユカリ君が浮かぶ。宙を見つめたあの目は、何を見ていたんだろう。あの子はまだ、大学生で。でも、芯がすごくしっかりしている子なんだろう。「自分で考えて決める」ということができるんだ。それは、まだ学生のうちは難しいことだ、と自分が社会人になってから思った。
責任がある状態で決断するのと、責任がない状態で決断するのとでは、大きく違う。状況も覚悟も、負う責任も。大学の頃、成人しているし、いっぱしの大人の気分でいたけれど、そうではなかったことに気付いたのはいつだったか。「誰かが責任を取ってくれる環境」というのは恵まれているのだ。
今回、ユカリ君は自分しか責任がとれない状態で、除霊を続けると決めた。除霊は彼にしかできないけれど、無理強いはされていない。
どうして彼は恐怖に打ち勝てるんだろう。私はどうして、恐怖に勝てないんだろう。続ける、と決めるには、私の気持ちはまだまだ震えていた。
迷って悩んでいるうちに、アパートの部屋の前まで来てしまった。廊下の天井についている照明を見上げてから、鍵を取り出して開ける。
ドアを開けると、出汁の香りがふんわりと漂っていた。
「ただいま」
「おかえり~。今日、疲れただろうから、うどんどう?わかめうどん。天ぷらも買ってきたけど」
「いいね。ありがと」
「手、洗って、着替えておいでよ」
「うん」
リビングへと行くと、冷凍うどんをゆでるだけになっていた。漬物や箸をテーブルへと運ぶ。いただきます、と二人で向かい合って食べ始める。ドーナツは食べたけど、思ったよりもお腹が空いていて、結局、天ぷらもペロリと食べてしまった。
ごちそうさま、と手を合わせた私に、シヅカがほっとした笑顔を見せた。以前、霊の影響でひどく錯乱したことがある。言葉にはださないけど、きっと、ものすごく心配してたんだろう。
「美味しかったよ。お腹空いてて、いっぱい食べちゃったね」
「いいじゃん、たくさん食べるのは。どうする?今からちょっと、お酒でも飲む?」
「いいね~。あったまったし、ビール飲もうかな」
「私も」
二人でソファへと移動して、冷蔵庫に眠ってたチーズとロースハムで乾杯する。冷えたビールが喉に心地いい。
シヅカは何も聞いてこなかった。全然、関係ない動画や映画の話ばっかりしてた。それも彼女の優しさだと、私は知っていた。だから、私が口火を切らないといけない。
「あのさ、ユカリ君、まだ食べてた?」
ほんの少しだけ動きを止めた後、シヅカは笑って頷いた。
「メチャクチャ食べてたよ。石伊さんも、頭にねじり鉢巻きして、いろんな料理作ってた!大鍋にミートソース作って、ユミさんに呆れられてたよ」
「そうなの?」
「そうそう。こんなにパスタ食うかよって。そしたら、石伊さん、グラタンにもできるし、カレー粉入れて味変もできるし、ビザにもするとか言い出して。それがまた、真剣な顔なもんだから、みんなで笑っちゃったよ~」
「鬼気迫る、って感じ?」
「そうそう」
あはは、と笑った後、石伊さんもすごかったな、と思った。多分、立てなくてリビングに這ってきたんだろうけど、思いっきり叫んでた。ユミさんをかばって。彼女は霊感はないって言ってたけど、それでも怖かっただろう。霊じゃなくたって、彼女、普段から誰かに言い返すようなことはほとんどないし。あんな大声上げるなんて、しかも、私がやります、ってキッパリ言ってた。
「…………すごいよね、みんな」
「どした?」
「だって、怖い思いをしたのは、全員なのに。私だけ、一歩を踏み出せないよ」
シヅカがもう二本、ビールを持って来る。一本を差し出してきたので、受け取って開ける。
「な、情けないよね。わ、わた、し、シヅカに助けてもらったのに」
ビールを口にしようとして、涙がボタボタ垂れてきた。にじんだ視界のままで、ビールを煽る。
私、シヅカに、それこそ、命を懸けて助けてもらった。ううん。命をもらったんだ。シヅカの。それなのに、誰かを救うことに手を貸すことができない。勇気がでない。ううん。自分が助けてもらった。だからこそ、怖い。
また、霊の影響で錯乱してしまったら、どうする?もらったシヅカの命を人生を、私は投げ捨ててしまうことになってしまう。
怖い。霊も怖いけれども、シヅカの命を無駄にしてしまうことが、怖い。さっちゃんの言ってたこと、なんか分かった。私が何に一番、怯えていたかを。だから、逃げたかったってことを。
「ぜんっぜん、情けなくなんてないよ。誰もそんなこと思わないよ。そんなこと思ってたの?」
「……うん」
「怖いなら、いいんだよ。それでいい」
「……うん」
免罪符をもらったように、安堵が広がった。だけど、私、それで後悔しないだろうか。実際、ユカリ君がいてくれたおかげで、あれだけの恐怖にさらされても、こうして正気だし、ご飯だって食べられるくらいには、元気だ。
一番大変なユカリ君をほったらかしにして、いいんだろうか。サヨコさんが最年長なら、ユカリ君は最年少なのに。まだ、誰かの庇護の下にいてもいいのに。
それに、丸野さん。私が霊と話せたら、彼とお母さんのつなぎ役になれて、もっと早く、いろんなことが解決できるかもしれないのに。
ユラユラと揺れる。行こうか、行くまいか。怖い。だけど、ほったらかしにしたくもない。助けてもらった。だからって、助けてあげる義理はない。
たくさんの二つの選択肢が、頭の中をかけめぐる。
「ね、ココ。今日はもう、寝よう。ゆっくり寝て、それから考えた方がいいよ」
片付けるね、とシヅカが立ち上がって、水の音がしてくる。それでもまだ、私はいくつもの選択肢の間で揺れていた。
「食後に、甘い物ちょっと食べたくなっちゃった。アイス買っとけばよかったなあ」
「あ。ドーナツあるよ。食べる?」
「やった!食べる、食べる!コーヒー……は時間的によしとこっか。牛乳がある」
「牛乳。いいかもね」
「でしょ」
さっちゃんにもらったドーナツを持って来て、皿に乗せる。手の平大のドーナツは、ちょこんと愛らしい丸みが、なんだかいい。
「うわ。美味しい、このドーナツ」
「でしょ。さっちゃんにもらったんだ」
「へえ。いいお店、知ってるんだね~」
「意外にも牛乳がドーナツに合う……知らなかった」
「ふふふ。合うんだよねえ~」
満足気なシヅカの笑顔に、あれ、私、思ってる以上に、元気だなって気付く。
ドーナツはこれで二個目だし、晩ご飯のうどんも、天ぷらも、ビールも美味しかった。ああ。悩んでたけど、体はちゃんと答えを知ってたんだ。
「ショップカードが入ってたから、近々、ユカリ君に手土産に持って行くよ」
「……そっか」
ちょっとだけ驚いた顔をした後に、シヅカは嬉しそうに笑った。
~ イト(井頭イツキ) ~
「ヤバかったです」
お猪口を握りしめて真顔で言うと、カウンターの中のおやっさんは、愉快そうに笑った。その奥で、女将さんも微笑んでいる。
「いやいや、笑いごとじゃないですって、おやっさん」
「ごめんごめん。それで?イトは、なにも説明しないで、煙に巻いて帰って来ちゃったんだ?」
「だって、それしかできなかったんですよ~」
銀鱈の西京焼きをつまむ。美味い。脂がのってる銀鱈に、ちょっと甘めの味噌の味つけが合う。銀鱈の余韻が消えないうちに、日本酒を一口。美味いなあ。デカい仕事の後だから、余計に。
丸くんの家でひと騒動あった後、俺は少しだけ時間を潰した後に、おやっさんのところへと行った。今日はおやっさんの居酒屋は、営業日だから、話しを聞いてもらおうと思って。
閉店時間を過ぎた店内には、誰もいない。もちろん、他の客がいなくなるのを待って話し始めたから。
「そりゃそうだよなあ。なかなかのピンチだったな」
「ダチョウ、役に立ったみたいで、よかった」
「はい。メッチャ役に立ってくれました。ダチョウって、すごいですね」
「そうでしょう?ダチョウって、すごいの。強いし」
珍しく、女将さんが嬉しそうに相槌を打つ。
「そうなんですか?」
「そうなの。ダチョウ、見てるだけで元気でてくるの」
「好きなんですねえ」
「そうなの」
嬉しそうに頷いた女将さんが、サービス、と馬刺しの切れ端を小鉢に盛ってだしてくれた。卵黄と青ネギがトッピングされている。おお!豪華だな!
ニンニク醤油をちょっと垂らして、早速食べる。うう。メッチャ美味い。独特の生肉の食感が苦手な人もいるだろうけど、俺は大好きだ。
「おやっさん、俺、どうしよう」
「どうって、話せることは話して、話せないことは話さない」
「ええー。“お迎えさん”の存在はどうすればいいんですか?あの三人、生者の前で、消えたり出て来たりしたんですよ。鎌まで出して!説明なんて、一切しないで消えたし!」
悲鳴を上げると、おやっさんはまた、声を上げて笑った。
「関係ないのさ、あの人たちにとっては、ほんとうはね。“お迎え”としての役割のときは、周囲から姿が見えないようにするけど、それ以外は特に気にしないんじゃないかな」
「……そういえばあのサングラス、前回は、店のドア開けて出て行ったな」
「気まぐれだよねえ」
「それで済むなら、説明はいらないんですってえ~」
「だから、いいんだよ。詳しく話さなくっても」
「……そうなんっすか?」
「うん。お香もそうだけど、霊だったり、目の前で人が現れたり消えたりしたって言ったところで、信じる人なんて、どれくらいいると思う?よしんば信じたとしても、生者に“お迎えさん”を捕まえて、見世物にすることはできないよ。だから、いいのさ」
「な、なるほど?」
言われてみるとそうだけれども、誤魔化すっていうのも、なんとも誠実さに欠けるような気もしないでもない。
不服そうな俺の表情を見て取って、おやっさんが、また笑う。
「イト。この世はあの世だ。基本的にこの世は生者のものだし、亡くなった人はあの世の管轄になる。けど、清算中の人だって、たくさんいるだろ。イトだって、清算中の時、実はもう生きてないんだ、なんて言わなかっただろ?」
「そういえば」
「そういうことさ。清濁が混在しているこの世なんだから、それでいい。全てものモノが白黒ハッキリついてたら、それはそれで生きづらいだろ?」
確かに、全部、白黒どっちかに決めろ、そうじゃないとダメだ、と言われる世の中は、どれほど息苦しいだろうと思う。世の中にはハッキリ決められないことが多くて、あやふやなことがあるからこそ、生きていけるんだし、お互いを許容し合っていけると思う。そうだ。未来はあやふやだからこそ、人は生きていける。
「はい」
「ま、どこをどう誤魔化すかは、イトの話術次第だなあ」
「楽しそうっすね、おやっさん」
「それは楽しいけど。ただ、イト、変な約束しちまったな」
それまでの笑みを急に引っ込めて、おやっさんが深刻な顔をした。
「ああ。俺が代わりに行くって約束ですか」
「そう」
「番人として、マズイっすかね?」
「まあ、ワカナさんの番人なのに、勝手に約束を交わしたイトはちょっとよくないけど。それでいいのかい?」
「……まあ、黙ってられなかったんですよ。あの時」
だってさ、丸くんは、モモカさんがいる。残して逝きたくはないだろう。だから、いいかなって。苦しいのとか嫌だけどさ。でも、俺が丸くんの立場だったらさ。ミドリさんを置いて、確執のある母親と一緒に逝けって言われてもな。そんな、容易くは頷けない。
こんなこと、この世界にはいっぱいあるだろうし、俺が一人、誰かに手を差し伸べたところで、意味がないかもしれないけど。でもさ、丸くんは助かるわけだろ?明確に。だから、いっかなって。
「ワカナさんから連絡は?」
「俺、今日、まだ家に帰ってないですもん。シロと会ってないし」
「ああ、じゃあ、ワカナさん、直接、来てないんだ」
「うす」
あのとき、あんな判断をした俺に、ワカナは失望してしまっただろうか。番人として、ふさわしくないって。だけどあの時、サングラスの男を引き止めようとしたワカナは、そんな風には思っていないんじゃないかって、俺は勝手に思った。
「ま、とりあえず明日から、また、オールドやるんで。来てください。多分、今回の件が終わったら、俺、そろそろ移動なんで」
「そっか。もう、そんなに経ったんだっけか」
「うす」
とんでもなく寂しいけど、それは仕方ないことで。何度も自分に言い聞かせたけれど、まだ俺は未練があった。ミドリさんとの思い出が詰まった、あの店に。
だけど、今回、こんなに派手なことがあったから、否応なしに、俺は移動しなきゃいけない。
「ま、いい機会だったかもしれないっす」
おやっさんは、ちょっとだけ寂しそうに笑った。




