14
~ 左田 ユカリ ~
大皿に山のように積まれているハンバーグ、ボウルに入っているポテトサラダ、グリーンサラダ、野菜たっぷりのポトフに、ペットボトルのウーロン茶を前に、黙々と食べ続ける。台所では石伊さんと草岡さんが料理を作り続けていて、さっき、シヅカさんと谷津崎さんから、もうすぐ行くよ、と連絡があった。丸野さんは仕事だ。
石伊さんはこの前の騒動から、鬼気迫る感じで料理を作り続けていて、草岡さんが心配そうにしている。
ダイニングテーブルの隅の方におぼろげに立っている霊に視線を向ける。大食いを再開して三日。闇に覆われていた霊は、少しずつ自我を取り戻しているのか、生前の姿形がハッキリしてきた。見ていると、キョロリ、とたまに、視線を顔ごと動かす。石伊さんたちの会話に反応して、ちょっとうらやましそうな顔をしている。表情の変化が見て取れるようになって、谷津崎さんに話しかけてもらおうかなと考える。
狂おしいほどの孤独や寂寥感は、だいぶ薄れてきた。最初よりはずっと、俺の飢餓感も薄れてきている。それは要するに、霊が少しずつ変わってきた証拠だと思う。
何度か話しかけてみたけれど、俺の方を向くことはするが、話すことはない。やっぱり俺は、霊とは話すことはできないんだろう。それは、谷津崎さんに頼むしかない。
あの日の恐ろしさは、心にというよりも、体に焼き付いたような感覚だった。霊は俺に憑いてる。それがすごく分かった。
あのとき、ほんとうは、孤独や寂寥感と一緒に流れてきた感情は、他にもあった。それは、強い怒り。あれほどの孤独と寂しさに苛まれながら、この霊はどうして、なにに対して怒っているのだろう。
霊について、口数少なに丸野さんが言うには、自由な人だったって。なら、何を怒ることがあるんだろう。不思議でならなかった。自由に生きてきた人ならば、満たされた人生を送ったんじゃないんだろうか。なのに、どうして、これほどの孤独と寂しさを抱えているんだろう。
どうしてなのか知りたい。それも、俺が大食いを続けると言った理由の一つだった。怖いことは怖い。だけど、このまま知らずにいるのは、もっと怖い。これから先の未来へと人生を歩いて行くために、社会勉強といえば無礼だろうけど、知りたかったんだ。
知りたい。自分が知らないことを。進路を考える為にも。自分自身の人生を、どうしていくかを見据える為にも。周りのみんなは就職へ向けて動き出しているのに、自分はまだ何も見えない。けれど、時間は経っていく。焦りは大きかった。
それに、丸野さんだけでなく、奥さんのモモカさんも、俺のことをちゃんとした大人として扱ってくれた。他の人と同じように、しっかりと挨拶をしてくれた。きちんと、その気持ちに応えたいと思ったんだ。学生で、まだまだ両親にも姉夫婦にも甘えっぱなしの俺を、大人として見てくれたことに。
「うえ。ちらし寿司って、刺身がのってるんじゃねえの?」
「それは、海鮮チラシだよ。今、作ってるのは、五目ちらし寿司」
「……地味だな」
「地味だけど、美味しいんですっ」
「はいはい」
「ちゃんと扇いでよ、草岡さん」
「扇いでるって!」
言い争いをしているようでいて、彼女たちは仲がいい。最初は喧嘩してるのかと思ったけど、二人なりのコミュニケーションなんだと分かり、なんだか微笑ましかった。
「こんにちはーっ!!ほれ、早く運びな!」
「えっ」
炊き上がったご飯を酢飯にしていた石伊さんが、その声に、素早く反応した。しゃもじを握ったまま、うちわを手にした草岡さんを置き去りにしてリビングのドアへと走った。
「あっ!石伊ちゃん」
「サヨコさん……」
「心配かけたねえ、ごめんね。もう大丈夫だよ!さ、こっちに運んで」
サヨコさんが賑やかにリビングに入って来て、後ろから見知らぬ男性がダンボールを抱えて入ってきた。手を止めて、頭を下げる。
「あ、ども。サヨコの息子です」
「左田ユカリです」
「母がいつも、お世話になって」
「いえ、こちらこそ」
「タケルっていうんだよ、よろしくね。そうそう、あたしがお世話になってるんだよ!ちゃーんとお礼を言っておくれ!」
「さ、サヨコさん、大丈夫なんですか?」
タケルさんが台所へとダンボールを運ぶ姿を尻目に、涙目の石伊さんに向かって、サヨコさんが、どーん、と胸を叩いた。
「この通りさ!元気、元気!寝てばっかりいて、すっかりなまっちまったからね。今日は、あたしが料理を作るよ!あれ?ユミちゃん、なにしてんだい、うちわなんか持って」
「石伊がちらし寿司作るからって、なんか、飯扇がされてた」
「なんだい!まさに、あたしの出番じゃないか!さ、タケル、どいたどいた!」
「おふくろ。あんまり張り切り過ぎると、また」
「うるさいね!年寄り扱いすんじゃないよ。あたしゃ、まだまだ元気だっていうの。タケル!そんなことよりあんた、石伊ちゃんに謝るんだろ!石伊ちゃん、ごめんね。この子、この前、ずいぶん失礼なこと言ったみたいで」
「あ、いえ。ほ、……ほんとのことなので」
石伊さんの手からしゃもじを奪い取り、エプロンをしたサヨコさんが元気に台所へと入って行った。
「どれどれ。酢飯はできてるね。具材は?ああ、今、煮てるのか。なら、錦糸卵作ろうかね。さくらでんぶは?」
「瓶詰め」
「はいはい」
俯いてしまった石伊さんは、涙を拭いているようだった。タケルさんが気まずそうに正面に立つ。
「あの、この前は、すみませんでした」
「……………………いえ。ほんとうのことなので」
「俺、勘違いしていて。ほんとに、すみませんでした」
タケルさんが勢いよく頭を下げ、その上半身が石伊さんにぶつかりそうになって、慌ててのけぞっている。
「そうなんだよ!バカな子だよ。石伊ちゃんたちが、あたしのことをいいカモにしてるって思いこんだみたいでね。とんでもない息子だよ!コッテリ絞っておいたから!!」
「いいカモ?サヨバアを?アタシたちが?」
少しだけキョトンとした草岡さんが、大笑いし始めた。
「あはははは!!こんな元気なババア、どうやってアタシたちがいいカモにすんだよ!返り討ちにあうっつーの!」
「ほんとだよ!今日は、お詫びもかねて、買い出しと荷物持ちにこきつかってやったさ。話しを聞いて、あたしゃもう、ほんとにビックリしてね。タケルに、みんなと一緒に行った旅行やらカフェやらの写真をぜーんぶ見せながら、説明したんだよ。そしたら、驚きだね。あっという間に元気になっちゃったのさ!」
「もう少し寝てた方がよかったんじゃねーの」
「元気なのに、寝てたって仕方ないよ。それに、タケルが、どうしても石伊ちゃんに謝りたいって言うし。ねえ?タケル」
やり取りを聞いていたタケルさんが、頭を上げた。情けなさそうな表情がかわいそうで、思わず、お茶でも、と言いかけたけど、その前に、タケルさんが口を開いた。
「あの、お詫びに今度、食事でもどうですか。おふくろも一緒に」
「…………………は?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔、っていう言葉を聞いたことがあるけど、あれって、こういう顔のことなのかなあ、とぼんやり思いつつ、急いで、差し出しかけたお茶を自分で飲んだ。台所では、おおっ?!という表情をしたサヨコさんと草岡さんが、興味津々で二人を見ている。
「けっこうです。お詫びなんて。私がサヨコさんの体調を気づかえなかったのも事実なので」
硬い表情のままで首を左右に振る石伊さんは、頑な、という言葉が顔に書いてあるみたいだ。台所から、草岡さんの、あちゃーっていう声が上がる。サヨコさんは、「急すぎなんだよ……」と苦笑いだ。
「タケル!荷物全部運んだら、後で迎えに来ておくれ」
「あ、ああ。電話してくれよ」
「はいはい。じゃあね」
何事もなかったような表情で帰って行ったタケルさんの心情は分からないけど。お、俺だったらちょっと……、た、立ち直れないかも。タケルさんが去った後に、サヨコさんが苦笑いのまま、石伊さんに声をかける。
「あの子さ、写真見ながら話ししてたら、石伊ちゃんのこと、気に入ったみたいでね。笑った顔がかわいいってさ」
「……………………」
「だから、よけいに、無礼なことをしたって、落ち込んじゃってねえ。迷惑かと思ったんだけど、どうしても、直接、謝りたいって。まあ、気が向いたら、たまに話し相手くらいにでもなってやってくれないかい?」
「………………サヨコさんが言うなら、考えておきます」
「頼んだよ。自分の息子だから言うわけじゃないけど、悪い子じゃないんだ」
「……はい」
「アタシがセッティングしてやろうか?」
「大きなお世話です!」
「なんだよ、任せろって。なあ?サヨバア」
「ユミちゃんねえ。任せるのはちょいと不安かもね」
「なんでだよ!」
「とにかく、いいのっ!料理作ろう」
「ドーナツ買って来たよー!」
入れ替わりのように、シヅカさんと谷津崎さんが来て、リビングは更に賑やかになったのだった。
ふと気づくと、霊がみんなが賑やかにしている方へと近づいて行っていた。なんとなく、嬉しそうな気配がする。
よかった。このまま、救われてくれたらいいのに。
「ユカリ君、このドーナツ、めっちゃ美味しいよ!食べてみて!」
「牛乳とね」
牛乳とドーナツ?と自分では決してやらない組み合わせを試しつつ、ちょっと重たくなった胃をさすった。
~ 丸野 ショウタ ~
「いらっしゃい」
オールドを訪れたのは、あれから数日経ってからだった。イツキさんと会うのは、あの日以来だ。扉を開けた僕を、イツキさんはいつもと同じ笑顔で迎えてくれた。
「ブレンドとホットサンドをお願いします」
「はい」
ずらりとフラスコが並ぶカウンター越しに、イツキさんとその後ろに陳列されているコーヒーカップを眺める。僕が頼むのは大体ブレンドだけれども、カップは毎回、同じではない。それもまた、ここでコーヒーを飲むときの楽しみの一つでもある。
「お待たせしました」
「いただきます」
会社帰りなので、お腹が空いていた。ホットサンドをひと息に食べて、ブレンドをゆっくりと飲む。その間に、テーブル席で新聞を読んでいたオジサンが立ち上がって、会計をして出て行った。
ジャズとコーヒーの中に、お客は僕ひとり。
「サヨコさんが、昨日からまた来てくれているんです」
「おお~。元気になったんだ」
「はい。ものすごく」
「よかったなあ」
テーブル席をテキパキと片付けたイツキさんがカウンターの中に入る。水の音がする。カップを手早く洗い、僕へと顔を向けた。
「モモカさんは?」
「詳しい事情は話さないで、駅で待ち合わせをして、お惣菜を受け取るようにしてます」
「ま、万が一のことがあったら心配だしな」
「ええ」
「で、どう?その後。お母さん」
「あ、なんか……、禍々しさがなくなって、穏やかな表情をするときも増えたそうです」
「そっか」
「はい。ただ、まだ話さないみたいで」
「もう少し、時間が必要なのかもなあ。ユカリ君の親御さん、心配してないかな」
「あ、その辺は大丈夫だそうです。定期的に連絡を取っているって」
「なら安心だな」
いつもの口調に、いつのも笑顔。イツキさんはなにも変わらなかった。ぎゅ、と拳を握った。
「あの。どうしてあんな約束したんですか。僕と母のことなのに……」
余計なことだと言いたいわけじゃない。むしろ、どうしそんな、他人の為に犠牲になる約束をしたんだろうと。僕はもう、どうしていいか分からなかった。モモカさんにも話せていなかった。大勢に迷惑をかけ、誰かの命さえ危険にさらしつつ、当事者である僕本人は、無傷で安全地帯に立っているなんて。自分で自分を許せなかったし、みんなにどう、お礼をしていいかも分からなかった。それに、こんな自分をモモカさんに知られるのは怖かった。
自分のことなのに、一切何もできずに全てを周囲の人に押し付ける、こんな僕は、醜いと思った。嫌われたくなかった。
ゆっくりとした動作でカウンターに回ってきたイツキさんが、僕の隣に腰をおろした。営業中にイツキさんがそういう行動をするのは初めてだった。
「丸くん。俺はね、家族はいない。悲しむ人も、もういない。だから、いいんだ」
イツキさんが淡々と、でも温かみのある声で言ったことは、それが現実で、イツキさんがそのことを受け入れて生きているんだってことが、まざまざと伝わってきた。
イツキさんがそのことを受け入れていたとしても、僕と母の事で命を懸けるのは違う、と言いたかったけれど、言えなかった。僕は、モモカさんを置いて母と逝く決意が、まだできていなかったから。
言葉を探していると、イツキさんが微笑んだ。
「それにな、丸くん。俺は信じてるんだよ。必ず、みんなが、丸くんとお母さんを救ってくれるってさ。だから、あんな約束、たいしたことじゃないよ」
微笑むイツキさんは、穏やかだけれど強かった。その穏やかな強さを、僕は知っている気がした。……ああ、そうだ。ミドリさんに感じた芯の強さと一緒だ。どうして、こんなに強くいられるんだろう。
信じていたとしても、万が一がある。物事に絶対はない。その万が一があったとき、約束を果たす覚悟を持つ、強さと潔さ。それが、僕にはなかった。
ぽん、と背中が優しく押された。
「丸くんも、みんなを信じようよ」
「……はい」
「つえーよ、サヨコさんなんて、特にな。あのタフさは、俺も見習いたいとこだ」
「確かに」
思わず笑いが漏れる。草岡さんとやり合っているのをよく見るけど、サヨコさんの方が一枚も二枚も上手で、上手にあしらっている。よく笑って、自分の感情にウソは吐いていないように見える。自分の感情にウソは吐いていないといっても、ワガママとは違う。スカッとしていて、ああいう生き方は、気持ちいいな、と思う。
「その調子。丸くんが元気にしてるのが、一番、みんなにとってもいいと思うよ」
「ですかね」
「そうだよ」
今日は、イツキさんと約束の件について話さないと、と思って来た。だけど、僕自身の腹が決まりきっていない上に、結局、励まされてしまった。
謝罪もお礼も違う気がして、なんて言っていいか分からずに、曖昧に笑ったところで、スマホが鳴った。
この後は、モモカさんと会って、お惣菜を受け取る予定だった。時間はまだ早いけど、モモカさんかも、とメッセージを確認して、血の気が引く。
ガタ、と立ち上がった僕を、イツキさんが見上げた。
「モモカさんが、母の家に向かってます。行かないと。お会計、お願いします」
「あ、ああ」
「すみません、バタバタして」
手早く会計を終えてくれたイツキさんに頭を下げ、店を飛び出そうとした僕に、イツキさんが待ったをかけた。
「今から電車やバスを使って行ったら、間に合わない。俺も行くから、タクシー呼んでくれ」
「あ、はい」
「火の用心と戸締りしてくる」
「分かりました。表で待ってます」
「頼んだ」
混んでるかな、と心配したタクシーは、幸運なことに、すぐに配車されることになった。けれども、タクシーを待つ間、僕は足踏みを止めることができなかった。もどかしかった。
~ 南良 モモカ ~
残業になるかと思っていたけど、定時で仕事を終えることができた。たまにはデパ地下のお惣菜をさしいれしよう、とグラム売りのお惣菜をアレコレと買い込んだ。点心関係、おこわ、洋食屋さんのサラダにラザニア、角煮にヤキトリ、ナスのはさみ揚げに……ついついあれもこれもと買い込んでしまって、紙袋二つ分にもなってしまった。
時計を見ると、まだ待ち合わせの時間には早かった。ショウタ君とは同じ会社とはいえ、今は部署も別々になったから、お互いの帰宅時間はまちまちだった。最近は、駅前で待ち合わせをしてお惣菜を渡すだけだったけど、今日は家を訪ねてみようかな。みんなにお礼も言いたいし。
そう思って、会社の最寄り駅を出発するときに、ショウタ君にメッセージを一本、入れた。電車が混んでいて、大荷物だったもんだから、ショウタ君の返信を見たのは、目的の駅からタクシーに乗った後だった。「駅で待っていて。すぐに行くから」というメッセージに、「ごめんね。タクシーに乗っちゃった。家に行って、みんなに挨拶してるね」と返す。最初のメッセージにすぐ返信があったから、ショウタ君も、そんなに時間を置かずに来るかも。待ってて、一緒にタクシー乗ればよかったかな。それとも、バスを待ってればよかったかな。次のバスまで、ちょっと時間があったからタクシーに乗っちゃったけど。
ショウタ君の慌てた様子のメッセージに違和感があったけれど、深く考えもせずに、義母の家の玄関を開けた。
玄関には靴がたくさん並んでいて、今日はみんなが揃っているみたいだった。サヨコさんの、元気な声が響いてくる。
「こんばんは~」
紙袋を抱えてリビングに入る。ユカリ君と宇ノ沢さんがダイニングテーブルにいて、谷津崎さんとサヨコさん、石伊さんと草岡さんが台所の辺りにいた。
「いつも、お世話になってます。なかなか、顔を出せなくてすみません。これ」
「危ない!!」
挨拶をしつつ、紙袋をさしだしたところで、ユカリ君の悲鳴のような声が上がった。誰かの背中に押されて、リビングのドアからはじき出されるように、廊下へと転がり出た。尻餅をつく。手に持っていたお惣菜の紙袋が飛んで、中のパックが床に散らばった。
知らない男の大きな背中が、私とリビングを遮断するように塞いでいた。男の向こうにチラリと見える人の顔も、私には見覚えがなかった。
さっきまでいなかったはずの二人が、目を疑うほど大きな鎌を交差して、睨み合っていた。
「え……」
目の前の、やたら筋肉質な男が、ソフトモヒカンのてっぺんの毛を微かに揺らしながら、大きく体を動かした。合わせた鎌の刃を力づくで横へとなぎ、反対側の足で、ちょっと小柄な、相手の男へと蹴りを出す。その蹴りをよけながら、弾かれた鎌をくるりと器用に回し、相手の男はまた、ソフトモヒカンの男と向かい合った。
「退け」
「退けないよね。まだ、役者が揃ってないし」
「役者が揃う必要はない」
「徒労になっちゃうじゃん?」
「ならない。退け」
「今日は俺がダチョウ連れてきたから、この前よりもガード固いよ」
「使い魔が一体、減るだけだ」
どこから来たのかも分からない、何を言っているかも分からない男たちを目の前に、どうしていいか分からないでいると、そっと肩に手を置かれた。
「大丈夫ですか。ケガは」
「石伊さん。この二人は……」
台所側の扉から、ぐるりと廊下に回って来てくれた石伊さんが、散らばったお惣菜のパックを拾い集めてくれる。指先と声が震えている。彼女も怖いのに、私を心配して、側に来てくれたんだ。
「私も、分からないんです。ただ、丸野さんのお母さんが、暴れてるみたいです」
「そんな」
どうして。最近は、穏やかな表情をするようになったって聞いていたのに。
「谷津崎さん!なにか……言ってますか?」
「言ってる……叫んでる……!あんたのせいで!私の理想の老後が!!息子を返せ!孫を抱かせろ!!って……」
ユカリ君の必死の叫びに、谷津崎さんの悲鳴じみた声が答えた。…………わ、私、の、せい?こんなことになっているのって、私の………?あ、だから、ショウタ君……、駅でお惣菜を受け取って、私をこの家に近づけないようにしてたの?
頭の中が、一気にぐちゃぐちゃになった。目の前で石伊さんがなにか言ってるけど、聞こえない。あれ。なんか……ソフトモヒカンの男が、こっちに近づいてきたなあ。
「モモカさん!!」
頭の中がどうにもできなくて、ぼうっとしていたら、耳に聞き覚えのある声が飛び込んできた。ぎゅう、と抱きしめられる。
「ショウタ君」
「無事でよかった……」
あたたかな腕。いつもよりちょっとだけ、声が湿っているのは、安堵のせいなんだろうか。
「お、お義母さんが……」
「うん」
どおん、とそのとき、大きな音がリビングから聞こえてきた。小柄な男が、リビングにいたユカリ君たちを、台所へと避難させている。
「そっちから逃げられるんなら、逃げて」
「でも」
「いいから~」
「まだ料理作ってる最中なんだよ」
「サヨコさん、逃げましょう」
「でも」
「そうそう、みんな逃げて逃げて。危ないからさ。ああ、こりゃヤバいよねえ」
「い~さん」
ソフトモヒカンが、井頭さんの声に反応した。
「約束だったな。逝くか?」
「そうだなあ。それで、この場が収まるんなら、逝くよ」
「待ってって!」
「約束は約束だよ。仕方ないさ。相談もせず、勝手な約束して、ごめんな」
「ずいぶんと、潔いな。覚悟はできてるんだな?」
「はいよ」
目の前で振り上げられた、とんでもない刃渡りの鎌から逃げるでも怖がるでもなく、イツキさんは目を閉じた。
「イツキさんっ!!」
振り下ろされた鎌は、でも、彼を斬らなかった。
「またか」
「そうね。またよ。順序が逆でしょ。まずは、霊を斬らないと」
「逆だろうがなんだろうが、結果は同じだ」
闇のように真っ黒な女性が、鎌を止めていた。あの細い体で、どうしてあの筋肉質な人の鎌を止められるんだろう。
頭が優しく撫でられた。もう一度、私をぎゅっと抱きしめた後、ショウタ君は立ち上がってリビングへと向かった。
「母さん!!いい加減にしてくれよ!!こんなに、みんなが母さんの為に頑張ってくれてるのに、何が不満なんだよ!!」
ショウタ君、お義母さんのこと視えてるのかな……、私には、視えない。ただ、大きな影が、視える。視界がグラリと定まらない。どうして。
「あんなに自分勝手に好き放題生きておきながら、なにが不満なんだよ!?これ以上、僕の人生をメチャクチャにするの、やめてよ!!」
ショウタ君が大声を上げ続けていると、睨み合っていた見知らぬ三人の気配が変わった。
「ま、孫が欲しかったそうです……、みんなに自慢する為に」
「………っ!!母さんは、いつもそうだ!!自分が自慢したいだけじゃないか!!僕も、そのいない孫も、母さんのおもちゃじゃない!!僕と母さんの人生は、別なんだ!!どうして分かんないんだよ!!」
「お前は私のものだ、って」
「そんなわけないだろ!!父さんはそんなこと、言ったことない!!」
「アイツは、産んでない」
「父さんがいなかったら、僕は生まれてないだろ!!どうしてそう、自己中なんだ!!自分の事しか考えられないんだよ!だから、一人なんだろ!!なんでも、自分の思う通りにならないと気が済まなくって!!」
「女の孫が欲しい。孫と、お前たちに囲まれて、楽しく過ごしたい」
「うるさい!孫の前に、見えないのかよ!!ここにいる人はみんな、母さんを助けようとして、何日も何日も、この家で頑張ってくれたんだよ!!赤の他人なんだよ!!自分の為に頑張ってくれてる姿、ずっと見てたんだろ?この家で、みんなと一緒に過ごしてて、どう思ってたんだよ!!」
通訳のように、硬い声で話していた谷津崎さんの言葉が、そこでストップした。沈黙がリビングを満たす。でもそれは、一瞬だった。
「なんだい、丸野君のお母さん、寂しかったのかい」
寂しかった?お義母さんが?
「え」
「丸野君、お母さん、寂しかったんだよ、きっと。素直じゃない人だったんじゃないかい?」
「いえ……母はこの上なく素直で率直で、自分勝手な人でした」
「まあ、表面上はそうかもしれないけどさ。口に出した言葉や態度が、その人の全てではないだろう?意地を張っているうちに、素直にいろんなことを言えなくなったりするもんさ。自分でも、それがほんとうかどうか分かんなくなったりね」
「そんなカワイイもんじゃ……」
「ねえ、お母さん。寂しいんならあたしが一緒に逝ってやるよって言いたいとこだけど、旦那が待ってるから、それはできないんだよ。すまないね。でもさ、あたしにも息子がいるんだ。一人息子で、独身なんだけどさ。先のことは心配だけど、元気でいてくれるだけでいいよ。あんたは違うのかい?」
「黙ってます……」
「そうかい。あんたの息子さん、立派だよ。会社にも毎日行って働いて、この家のこともやってね。愚痴の一つも言わないよ。疲れた、なんて言葉、聞いたことなかったよ。自分のこととはいえ、弱音や愚痴くらい、こぼしたって罰は当たんないけどねえ」
「そ、そうです。それに、ユカリ君、あなたの為に、こんなにたくさん食べてたんですよ。毎日毎日。あなたが楽になれるように。みんなも、それぞれ、生活があるのに、それでも、食事を作ったりしてたんです」
サヨコさんに続いて、うずくまったままの宇ノ沢さんが言った。彼女が必死に言い募るのを聞きながら、へたり込んでいて力が抜けていた体を動かしてみる。動く。側に寄り添ってくれている石伊さんに目配せをして、少しずつ、リビングへと近づく。
「ココだって!!怖いのに、あなたの言葉が分かるのは彼女だけだから、こうして来てたんです。あなたが話す気になったら、みんなに伝えようとして」
霊はなにも話さないみたいだった。鎌を持つ三人も、イツキさんも、黙って成り行きを見守っている。
視えないけれども、黒い影の方を向いて、ショウタ君の隣に並ぶ。
「お義母さん、私、ショウタ君のことが大切です。連れていかないでください。ずっとずっと、人生が終わるまで、一緒に過ごしますから。約束しますから」
「も、モモカさん……」
孫を産めなくてごめんなさい、とは言いたくなかった。それは違うと思ったから。そのことは、悪いとか、そういう次元の話じゃない。謝るようなことじゃない。
ショウタ君の手をそっと握りしめる。
「寂しい思いをさせてしまって、すみませんでした。ただ、ショウタ君はお義母さんのこと、大切に思っていましたよ。だから、苦しんでいたんです。分かり合えないことに」
「私を、捨てた、んだろう……捨てた!!」
リビングが闇に満ちる。大きな刃が振り上げられて、ほんの少しあった光が反射した。
~ 左田 ユカリ ~
大きな感情が体の中で爆発したようだった。サヨコさんたちが話しかけている間、黙り込んでいた霊は、感情の動きも停止していたみたいだったのに、モモカさんが話し始めたら、その感情が濁流のように押し寄せてきた。
頭の中に、記憶が流れ込んでくる。幼い息子、夫の笑顔。幸せだったはずなのに。なにがきっかけだったかは覚えていない。職場でも家庭でもうまくいかなくなっていく。どんどん片肘をはって、口からは強い言葉しかでなくなった。返事をしなくなった夫。不倫相手とデート中にバッタリ会った時の、息子の表情。掴んでいたはずの幸せは、次々に手の平からこぼれ落ちていった。取り戻せない。もがいてももがいても。こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ。ガランとした家。鳴らないスマホ。画面を何度も確認して、諦めきれずにまた、確認する。電話帳を開いても、自分から連絡しようと思えない。ため息がこぼれた。ある日、息子が女の人を連れてきた。ショートカットの似合う、目立ちはしないけれども、清潔感のある、美人。自分には向けられない、息子の優しい視線と笑顔。私を見るときはいつも、硬い表情で困った目をしているのに。愛されている、息子に。そのことが無条件で憎らしい。許せない。夫とは離婚した。私を愛してくれる人は、誰もいないのに。誰も……。
「待って!!待ってください」
振り上げられた鎌の前に飛び出した。首の真横で、鎌はギリギリ止まった。
「生者を斬ることはできん。退け」
「待ってください。この人、孤独だっただけなんです。モモカさんのことが、羨ましかっただけなんです。愛されたかっただけなんですよ!!」
サングラスの男に必死で叫ぶ。
「だからどうした。それは自分で選んだ人生だ。誰に愛されずとも、本人の責任だ」
確かにそうだよ。そうだけど。だけど、この人、生前も一人、孤独と寂しさに耐えていた。こうして、霊になっても、まだ、苦しんでるんだ。それは確かに、生前の行いが原因なのかもしれない。だけど、彼女の人生を走馬灯のように見てしまった俺には、自業自得だと片付けられなかった。俺にはまだ、人生を語れるほどの経験はない。一人で自活したこともない、子どもだ。だけど。だけどさ。誰だって、間違うことはあると思うんだ。ほんの些細なすれ違いが、取り返しのつかない溝になってしまうことも。もがいてももがいても、関係が修復できずに時間が過ぎて行くことだって、あるんじゃないか?間違えた人は、救いを求めたらいけないのか?やり直すことはできなくても、自分が間違えていたと反省して、違う一歩を踏み出すことすら許されないのか?些細な事でさえ、間違えたら二度と許されないのが人生なんだろうか。
心臓がぎゅう、と苦しくなる。許されることと許されないことは、確かにあるんだろう。俺はまだ子どもで、人生経験も未熟で社会の事すら知らない。子どもの戯言かもしれない。けど。人生には、どこかに希望が欲しい。どんな形であれ、どんなに小さくても。
「生前の行いを悔い改めるチャンスはないんですか?」
「ない。その女は、自分でそれを放棄した。反省などせん」
ぐう、と腹が鳴った。俺と霊は繋がっている。だいぶ落ち着いて来てはいたけど、まだ、霊は満たされていないんだ。このまま食べ続けたら、満たされる時が来るんだろうか。ほんとうに?俺が食べることだけで、この霊は救われるんだろうか。
「腹が減るだろう?お前がどんなに心を砕こうと、その女は自分のことだけだ。お前たちの真心なんて、通じない。薄汚い人間にかける情けなど持たない方が、自分の為だぞ」
首筋付近にあった鎌が、す、と動いた。大きく斜め上へと。
「もう一度言う。退け。お前越しに斬ることもできる」
「乱暴者っ!!」
振り上げられた鎌の恐ろしさに言葉が詰まったところで、石伊さんの悲鳴が聞こえてきた。膝がガクガクしてる。立ってるのもやっとみたいな感じで、扉にもたれて、かろうじて立っている。
「待ってって言ってるでしょ!この、わからずや!!この場で一番、物分かりが悪いのは、あなたよ!!人間は醜いみたいな言い方してるけど、そんな人ばっかりじゃないっ!!」
「ほう?」
視線を向けもせずに、男が言った。
「酷い人だって、たくさんいるよ!!だけど、いい人だっている!」
「お前は知らないだけだろう。人間は残酷で残忍だ。利己的で、冷酷でもある」
「誰だって、いろんな面や事情があるのよ!!悪いところがあったり、人を傷つけることがあったりしても、それがその人のすべてじゃないっ」
鎌がおろされる。振り向いたせいで、俺からは男の表情は見えなくなった。真っ黒な黒い髪の女の人が側に寄ってきた。
「無茶しないのよ。この鎌では人は斬れないけど」
「はい」
もう一人の男の人は、サングラスの男を注視している。台所にいた人たちは、どうしただろう。
谷津崎さんと宇ノ沢さんは、シンクに隠れるようにしてこちらを窺っている。サヨコさんは、棒立ちになっている草岡さんの腕を引っ張っていた。そして、みんなと鎌の男たちとの間に、イツキさんが立っている。何かあった時に、すぐに動けるように、だろうか。
「ユミちゃん?どうしたんだい?」
問いかけにも答えずに、草岡さんは石伊さんを凝視している。丸野さん夫婦は、俺の方へと近寄ってきた。
「ユカリ君、母さん、ここにいるんだよね?」
「あ、はい」
「今、どうですか?」
「落ち着いてます」
その証拠に、真っ暗になったリビングは、いつの間にか明るさを取り戻していた。
「お前。苦しくて悲しくて、絶望の中で、憎しみしか湧いてこない状況に陥ったことはあるか」
「……ない、けど」
「なら、偉そうに説教を垂れるな。お前に説教をされるほど、薄い時間を過ごしてはいない」
そう言われた石伊さんが、明らかにカチンときた表情をした。震える声を張り上げる。
「うっすい人生ですけど。あなたみたいに、想像を絶するようなこともないですけど。だったら、意見しちゃいけないんですか?」
「黙ってろ」
「同じ経験をしないと、意見しちゃいけないなんて、了見が狭すぎませんか」
「絶望の底で、なんの助けもこなければ、誰しもそうなる」
「そんなこと言ってたら、信頼関係なんて築けないでしょ!誰だって、他の人にはなれないんだから!全く同じ経験して、同じ人生歩いてる人なんて、どこにもいないんですっ」
「信頼?そんなものはまやかしだ」
「聞き分けのないことばっかり。失言はあるかもしれないけど、違う経験をしているからこそ、分かることだってあるでしょ」
「他人が人のことに口を出す必要が、どこにある?」
「……寂しい人。そんな考えしかもてないの?」
「俺には必要ない」
「あ、そうですか。なら、あなた、丸野さんのお母さんがうらやましいんだ?だから、こんなに嫌がらせするんだ?」
「うらやましい?俺が?」
「そうよ!!」
震えていた石伊さんが、何かを吹っ切るように、右足を踏みしめた。ドン、と床が鳴る。
「救いのない、苦しんでいる霊に、みんなが手を差し伸べて、救おうとしてる。自分には救いの手はなかったのに。羨ましいんでしょ!」
「羨ましくなど」
「そうよ。この人、羨ましいのよ。だって、自分に差し伸べられてた手に気付かなかったからね。それこそ、自分しか見えてなかったのよ。あなた、すごいわね。この男のこと、分かったのね」
「…………」
「この子の言う通りじゃないの。あんた、羨ましいんでしょ。だから、こんなに連れてく連れてくって。番人まで連れて行こうとして。このままだと、あんた、ただの嫌なヤツ通り越して、自分が憎んだ相手と一緒になるわよ」
「……いい加減にしろ」
ギチ、と歯を噛み締める音がした。目の前の腕が、倍ぐらいに膨らむ。鎌を持つ手に、明らかに力が込められている。
ものすごい早さで、目の前を鎌がよぎった。リビングに風が起こった。ギィン、と硬い音がして、鎌と鎌がぶつかった。
「なに。図星さされて怒ってるわけ?」
「口が過ぎる。お前に、俺を侮辱する権利はない」
フン、と鼻で笑った女の人の髪の毛が、扇が舞うように、優雅に広がる。サングラスの男の鎌の柄を蹴り飛ばし、自分の鎌をヒラリと返して構える。
「ちょっとちょっと、二人とも。地上で乱闘はマズいよー」
もう一人の男のセリフは丸無視で、二人は会話を続ける。
「権利はないけど、意見はするわ。いつまで救われていく人を羨ましがってるの。八つ当たりみたいな仕事して。見苦しいわよ」
「うるさい。お前こそ羨ましいんじゃないのか?」
「ほんっと。心底、羨ましいわあ。この霊と、あんたがね」
「俺?」
「そうよ。あんたには、まだ手が差し伸べられているじゃないの。羨ましいわ。私は、欲しくっても、ないのよ」
「……………」
「あんたがいらないなら、私が欲しいくらい。でもさ、それはできないのよ。あの手は、あんたにしか取れないの」
意味ありげに、女の人が流し目で、もう一人の男を見た。
「頼んでいない」
「あら。これだから拗らせ過ぎたヤツは困ったもんよ。霊の方が素直よ。見なさいよ」
鎌を持った人達が騒いでいる間に、へたり込んだ石伊さんへと向かって草岡さんが走り寄り、丸野さん夫婦は、視えない霊に必死に話しかけていた。
サングラスの男が、気をそがれたように、俺たちに視線を寄越した。
「母さん、僕だよ。ここにいるよ。聞こえる?」
丸野さんの言葉に、霊が少しずつ輪郭を取り戻す。感情が高ぶると凶暴化していただけで、多分、この霊はもう、ある程度、癒されていたんだろう。
「お義母さん」
モモカさんの声にも、霊は穏やかにしていた。落ち着いている。
「母さん、僕、母さんともっと、分かり合いたかったよ。間に合わなくて、ごめん。でも、僕も悪かったけど、母さんも酷かったよ」
「そうですよ、お義母さん、いっつも、急だし。一方的だし。ショウタ君、いつも困ってたんですよ」
「そうだよ。言わなかっただけで、僕、困ってたんだよ。でも、母さんは母さんだし」
「ショウタ君、いつも気にかけてましたよ。お義母さんのこと。覚えてます?フォトウェディングの時の事」
二人が必死に霊に向かって語り掛けている間に、恐る恐るといった感じで、今度は、サヨコさんとシヅカさんと谷津崎さんが、料理を持って近づいてきた。テーブルの上に、肉じゃがとオニギリと漬物と豚汁が並べられる。
「みんなで食べないかい?丸野君、お母さんは何が好きだった?」
「母は偏食で……肉が好きでしたね」
「そうかい。待ってな。今、冷蔵庫にある、ありったけの肉、焼いたげるよ。ユカリ君は、先に肉じゃが食べてておくれ」
「はい、お茶」
「モモカさんが持って来てくれたお惣菜、中身は無事だから、並べて。草岡さん」
「自分で並べろよ」
「ちょっと、膝に力が」
「まったくもう」
憎まれ口を叩きつつ、草岡さんがお惣菜を皿に移す。ザバリと豪快にうつすので、皿から惣菜が転がり落ちそうになる。
「もっと丁寧に盛り付けてよ」
「腹に入れば一緒だっつーの」
「ええっ。野蛮すぎでしょ」
「うるせえ」
リビングは、なんだか妙な様相を呈してきた。食べてておくれ、と言われたけれども、みんなで食べた方がいいんじゃないかと、箸をとらずに待つ。鎌を持っている三人は言い争いをやめて静観していて、丸野さん夫婦は霊に語り掛けていて、サヨコさんはイツキさんと一緒に肉を焼いている。いい匂いがしてきた。シヅカさんと谷津崎さんは、全員分の箸や皿を用意してくれた。お茶が並べられる。
「さあ!食べようじゃないか!」
肉を焼き上げたサヨコさんが、みんなを手招きする。鎌持ち三人以外が、食卓を囲んだ。霊の真ん前に、山盛りの肉が置かれる。
いただきます、と手を合わせて、食べ始める。みんなは食卓を囲んだけど、食欲はなさそうで、食べているのは俺一人だ。丸野さんのお母さんは、肉が好きだったらしいから、片っ端から食べる。豚の生姜焼きに、ハラミやカルビ、カットステーキ、トンカツ。こんなに冷蔵庫に肉が入ってたのか、っていう量だった。
恐怖に怯えつつも頑張った石伊さんに、草岡さんがどこから持ってきたのか、シュークリームを渡してる。御褒美だ、とかなんとか。そのことをきっかけに、それぞれが、おしゃべりをしだす。サヨコさんの息子さんの話。シヅカさんと谷津崎さんは、以前行った旅行の写真を見せ始めた。
食べているのは俺だけだけど、他愛のない談笑が食卓を包んだ。そうして、山盛りあった肉の皿が空っぽになる頃。ふ、といきなり、腹が満たされた感覚になった。あ。
「満腹、です」
丸野さんが驚愕の表情を浮かべた。モモカさんが、谷津崎さんを見た。
「モモカさん、私、あなたの手料理、嫌いだったわっ、て言って……」
「消えた」
三人の鎌を持つ人たちも、いつの間にか消えていた。
「あ、ありがとう、ございます」
「お母さん、最後まで素直じゃなかったねえ」
「ほんとですね」
丸野さんの涙声と、サヨコさんの呆れた声、そして、モモカさんの笑い声がリビングに響き渡った。
「こんばんはー。渕田です~。今日は息子と夫がお詫びに来たいってことで……あらっ?!もしもし~?」
「さっちゃん……。どうしていつも、タイミングがイマイチなの……」
谷津崎さんの呟きに、みんなが笑った。とんでもない現象の最後の最後は、コントみたいなオチがついて、そのことが、強く、非日常は終わったことを告げていた。
~ イト(井頭イツキ) ~
「これでよし、っと」
オールドの店の扉に張り紙をする。「本日をもちまして、当店は閉店いたしました。長い間、ありがとうございました。店主」と短く書いただけのそれは、簡素に見えて、俺の万感の思いが込められていた。いろんな感情が混ざり合うと、かえって、言葉は簡素になるもんなんだな。
丸くんのお母さんが、人生を清算するチャンスを手に入れてから、一週間。あれだけの騒動があった場所での営業は厳しいという判断と、俺の年齢ももう、既にアウトだっていうことで、オールドは早々に閉店して、別の場所へと行くことになった。まあもう、だいぶ前から、外見と対外的な年齢に無理が出てたからなあ。
突貫で作業して、荷造りも済んだ。次の場所は、ワカナが既に確保してる。ここから、飛行機と在来線を乗り継いだ場所だ。
店はやめるけど、この建物は俺が所有する。扉に手を置く。
「たまに、会いに来るから」
いろんなことがあった。
クソみてえな自分の人生が終わった後、クズみたいな時間を過ごしていたのは、自分がクズなのはもちろん、世の中自体がクズだからだと思っていたからだった。少しずつ、そんなことばっかりじゃないって思えることが増えてきて、そうして、ミドリさんに出会った。
静かだけれど、芯があって、しなやかで、強い、優しい人。彼女に俺は、どれだけ癒されたことだろう。そうして、ミドリさんの代わりに店主になって、また、いろんな出会いがあった。
他人の為に一生懸命になれる人が、こんなにいるんだと、その輪の中に入れてもらえた俺は、幸せなヤツだと思った。嘘みたいだと思った。あんなに、世の中も自分の人生も、どうでもいいと生きていたのに。
井頭イツキとして過ごした日々は、これで終わりだ。終わりだけれど、俺にとっては大きな財産として、ずっと残る。思い出も経験も、自分だけの財産だと思えた。嘘みたいだな。生前は、クズそのものの、安っぽい思い出しかなかったのによ。
名残惜しいけれども、こうしていても時間が過ぎるだけだ。行かなきゃいけない。振り切るように、扉から手を離して、大きく伸びをした。
「さて、行くか」
「あれっ。ブレンド飲もうと思ったのに」
「ワカナ」
とぼけた口調で言うワカナが、隣でニヤリと笑った。いつの間にいたんだか。
「いいの?みんなにお別れ言わなくてさ」
「いいんだ」
人生には出会いと別れがつきものだ。人生のうちで、袖すり合うことがあったとしても、そのまま関係が継続していくことの方が少ないんじゃないだろうか。それぞれの生活や人生に、みんな戻っていくから。それは当然のことだ。そのことに、大袈裟な別れの場面など必要ない。
人生は旅みたいなもんだって、聞いたことがある。ほんとにそうだな。
目的地がある人もいれば、ない人もいる。予定と違うこともあるし、晴れの日もあれば、嵐の日もある。そんな日々に疲れ果て、歩けなくなる時だってあるだろう。もう歩けないと、座り込んでしまったときに、人には休息が必要だ。
そんな時に、安らぐ一杯を提供したい。嵐はやまなくても、そのときだけでも心が安らぐように。いつか、思い出の中で、「ああ、あの時飲んだコーヒー、美味かったな」って思ってもらえたら、万々歳だな。
俺は立ち止まったままで、旅人たちの幸福を祈ろう。それが、人生を既に終えて、番人をしている俺にできることだ。
「これ、なんで、本日なわけ?」
「誰が来ても、今日で終わりだったんだ、って思ってもらえるようにだよ」
自分が足を運んだ今日が、閉店だったんだ、っていうの、なかなかいいんじゃないかって思ったんだ。
「さ、行くかな」
最後にもう一度だけ扉をひと撫でして、踵を返して歩き出す。振り向かない。
そのまま消えるかと思ったワカナが、どうしたことか、ひょこひょこと隣を歩きした。一人だと寂しいとでも思ってるんだろうか。でも、ちょっとありがたい。やっぱ、感傷的になってるからなあ。
無言で歩いてもよかったが、なんとなく気になっていたことを聞いてみる。
「そういえば、あのサングラスの男、どうなったんだよ」
「……生まれ変わった」
「はあ!?」
次の店の場所はどこだとか、いつから営業できるとか、引っ越しはどうするとか、諸々の雑用で忙しくて、ワカナとは、あの日のことはほとんど話してなかった。必要のないことだからと、まあいいかとは思ってたんだが。なんとなく話題にしたら、とんでもない返答がきて驚いた。その、あまりの急展開さに、さすがに大声が出た。
「しっ」
「すまん。いやでも、なんでそんな急に」
「かいつまんで言うと、“お迎え”の仕事を長年やってきたから、清算とかは終わってたわけ。んで、俺たち、寿命が残ってる状態で“お迎え”になったもんだから、本人が望めば、すぐに生まれ変われるっていう、オプション的なもんがあってさあ」
「はあ」
「俺も知らなくってさ~。ビックリしちゃった!」
ビックリしちゃった、じゃねえだろ。サングラスとワカナになにがあったかも知らんし、話しがかいつままれ過ぎてて、なんかよくわからんけど。アイツ、生まれ変わる気になったんだ……。驚きだよ。
「本人が、すぐに生まれ変わることを選んだってことだよな?」
「そういういことになるねえ」
「はあ」
サングラスの男の、鋼みたいな印象っていうのは、おそらく、本人の過去が影響してるんだろうなとは思ってんだけどさ。ってことは、相当な過去があったわけだよな、アイツには。だからこそ、あれだけ人を憎んでいたんだろうし。そんなヤツが、すぐに生まれ変わりを選ぶってなあ。しかも、あれから一週間だぜ、まださ。
「あんな拗らせてて、よくもまあ、そんな気になったな」
「いや、大きかったみたいだよ、本人にとっては。損得なしの関係で、あんなに他人に親身になれる人間がいるんだってことがさ」
「へえ」
ヤツの口ぶりだと、相当、壮絶なことがあったんだろうから、俺とは比べることはできんが、ちょっと分かる。あの光景は、世の中がクソだと思ってるヤツには、結構な衝撃だ。
「人として生き直してみたくなったんだってさ」
「へえ?」
「元々は、すごく人情味溢れる人だったからさ」
「……そうか」
「うん」
「どんな人生になるんだろうな」
「ま、”お迎え“やってたからって、次の人生がイージーモード、なんて特典はないしねえ。どんな人にだって、いいこともあれば、苦しいこともあるからさ」
「そうか。まあ、本人次第ってことだよな」
「そういうこと。それにさ、あの人、”お迎え“やってるとき、相当、ひねくれてたからさあ。あの、ひねくれまくった性格が、どう作用するかだよねえ」
「生まれ変わっても、そういうのって影響すんのか?」
「まあねえ。魂は一緒なわけだからねっ。記憶はないとしてもね」
「パーカーは洗濯してもパーカーってことか?」
「おっ。上手い事言うねっ。そんな感じかなあ」
融通もきかなそうだしな、と心の中で付け加える。でも、もうちょっと人間を見直して観察するか、じゃなくて、すぐに生まれ変わりを選んだっていうのは、本人も、心のどこかで人を信じたいっていう気持ちがあったのかもしれないよな。
「……本人が聞いてたら、メチャクチャ怒りそうだな」
「平気、平気~。怒ったって、ほんとのことだからねっ」
肩を並べて軽口をたたきつつ、商店街へと道を曲がる。振り向かないと決めたけれど、店から遠ざかるたびに、寂しさが押し寄せてくる。そのことを紛らわせる為に、ワカナとの会話を続ける。ここまで着いてきたんだし、いきなり姿を消すことはないだろう。急に消えるには、人通りが多すぎる。ある程度、一緒に来るつもりなんだろうな。
「で、ワカナは?生まれ変わらんの?」
今の話しを聞くだに、ワカナだって生まれ変わることはできるんじゃねえの。でもコイツ、そんなこと一言も言ってなかったよな。この一週間。いや、俺に言う必要はないかもしれないが、“お迎え”の担当が変わるんなら、一言あっていいはずだし。
「俺?俺はまだ、もう少し“お迎え”するよ。嫌いじゃないんだ、この仕事」
「へえ。忙しい忙しいって、しょっちゅうぼやいてるけど」
「忙しいから嫌いだってことにはならないでしょ」
「そうかよ」
「あのさ」
「うん?」
ワカナはちょっと口ごもってから、ボソボソと歯切れ悪く言った。
「ありがとね。イトがいてくれたから、あの人、救われたんだと思うよ」
なんだ、こいつ。これが言いたくてついてきてたのかよ。しかも、なんでこんなに言いづらそうなんだよ。
ワカナの態度に、思わず笑ってしまう。
「俺?俺はなんもしてねえよ。丸くんたちのおかげだろ」
「それもあるよ。けどさ、イト、あのとき、ものすごく潔かっただろ」
「あ?だって、約束したからな」
「あのときに往生際悪かったら、あの人、きっと、もっと拗らせてた。だからさ」
「……そうか」
俺は別に、サングラスの男の為にそうしたんじゃないが。しいていえば、自分の為だ。丸くんを見過ごせなくて約束したことも、その約束をきちんと守ろうとしたのも。
だってさ。往生際なんて悪かったら、ミドリさんに嫌われちまうよ。ま、約束した時点で、困った人ね、くらいは言われそうだけどな。俺はミドリさんに嫌われたくないんだ。それに、筋が通った生き方を貫いた彼女に合わせる顔がない、なんて行動は、したくない。そう決めたんだ。
ま、その行動がヤツの救いになったんなら、なによりだ。思わぬオマケだったな。
「ねえ。ほんとにいいわけ?お別れしなくて」
「いいんだって」
「井頭イツキとしては、二度と会えないんだよ?」
「そりゃそうだ」
はは、と笑う。空を見上げる。商店街の建物の間の、狭い隙間から見える空は、キレイな青い色をしている。
「その後、どうなったかとか、気にならないの?」
「ならない。だってそれは、彼らの人生だから。大丈夫だと思うしな」
珍事や大きな出来事はそうそうないだろう、と思いきや、意外にも頻発するのが人生ってヤツだ。だけど、きっと、丸くんたちは大丈夫だ。つまずいても休んでも、自分できちんと選択して生きていけるだろう。
生きていれば、人生をやり直すチャンスはある。すべては叶わなくても、自分自身をやり直すチャンスは、いつだってあるんだ。
チラリとワカナを見ると、眉を八の字にしてる。ワカナが気にするようなことじゃないのになあ。“お迎え”の番人だからといって、その後の消息を教えることはできないなんて、ちゃんとわかってるって。井頭イツキと彼らは、これっきり。分かってる。
「ワカナ、次はあったかいとこだから、アイスコーヒーが美味いぞ」
「いつ行ってもいいように、しっかり用意しといてよ」
「開店は来月です、お客さま」
「コーヒー豆はどうすんのさ?」
「ちゃんと、今までの問屋さんに頼んださ」
「どうやって?」
「おやっさんを仲介して」
井頭イツキの名前で注文をし続けることはできないし、かといって、俺の顔をガッチリ覚えている店主がいるんだから、別の名前で契約することもできない。なので、おやっさんに間に入ってもらって、コーヒー豆を仕入れることにした。おやっさんは、まだあの場所で居酒屋を続けるし。
「考えたもんだねえ」
感心したようなワカナの声に、ふふん、と自慢げにしてみる。俺の、ミドリさんに対する愛情をなめてもらっちゃ困るぜ。
ポケットから飛行機のチケットを出し、搭乗手続きをする頃には、ワカナは人ごみにまぎれて消えていた。晴れ渡った空が、全面のガラス越しに見える。
ミドリさん、俺、まだこっちで番人やるよ。場所は変わるけど、ま、やれるだけやってみようと思うんだ。
さよならの代わりに、チケットを握りしめた。
読んでくださったみなさま、ほんとうに、ありがとうございました。




