二章 14話 呪いの夜【上】
――宙を漂う朱い月。
退屈だった世界が朱く染まった、真っ暗なメルガルドが魔力に染まった、それはまるで夢の様に神秘的で、その光景は私にとって何よりも求め続けたこの世界の甘露。
……だからこそ“夜”は私以外にとっては呪いでしか無く、故に国を蝕む呪われた夜、血が滲み、悲鳴が轟き、腐臭が漂い始めた今、この時からメルガルドの街全てが踏破者達の夜へと堕ちる!
(私は正しい……やっと進めた、やっと私の異世界が、やっと私の物語が始まる……)
全身へとぶつかる夜の風、流れる魔力の香りに、腐臭に、血の匂いの中に……始まりの未来を視る、それは蒼く新鮮なまだ見ぬ世界の芳ばしさ。
「ッ来るぞッ! クライナ嬢っ! 生き残れ! それだけだッ!」
――ッァあッア゛アア゛ア嗚呼あア゛!
“夜”が甲高い産声を上げる、それに伴う様にキリイは私の返事を聞くと我に返り、元いた場所へと直ぐ様駆ける。
朱い月の圧力か、身の毛のよだつ悲鳴が聞こえるからか、体の芯から凍える様な何かが体を撫でるけれど、それが心地良いと思えるほどに私の体は灼ける様な血の熱さに包まれていた。
……それは決して冷めぬであろう興奮、未だに衰えぬ私の奥底。
(あぁ、衰えていないどころか、増している、あの時よりもずっと、ずっと……)
――血よりも甘い夜は爛々と輝きを増す、誰も居ない筈の街が私を大きく歓迎する為に。
湧き出す様に一斉に響き始める物音達、静かだった街が騒めき蠢く。
そして淀んだ月が指揮者となりて奏でるは成れ果てた恐ろしい肉の合唱。
(……大丈夫、まだ抑えられる)
そんな私の為の音楽に耳を傾けながら、鼓動をギュッと抑え、かつてないほど欲に塗れた瞳は見てはいけない月を見上げてただ立ち尽くす。
……でないと、今にも通りの奥へと駆け出しそうになってしまうから、蜘蛛が潜む、暗闇の奥へと突き進んだ愚かな踏破者達の様に。
(あぁ……分かってた、私は分かってたよ、トマスと別れたあの時でも無く、イルオレーネに別れを告げた時でも無く、クリルの願いを断った時でも無く、最初から私に選べる選択肢なんて無かったんだって)
心の曇りは剣を鈍らせる……そう思っていた、いや思おうとしていたのかも知れない。
メルガルドに来てから色々あった、辛い出来事、苦しいこと、悲しい出来事、嫌になること、城であった事は鉛の様に私の心を蝕んでいた筈だった。
……けれど今から振るうガレムの剣はきっとかつてない程研ぎ澄まされていて、剣を握り締める度に蝕むほど程の痺れる高揚感が私の頭を蕩け焼き尽くす。
(疑問へと踏み込んだ時から、求めて止まない物の存在を確信したあの時から、記憶を焼き付けられたあの朝から、迷宮で生き残ってしまったその瞬間から途切れる事は無く、私の進むべき道は目の前のたった1つしか無かった……)
呪われし月を見て確信してしまった、決して変わる事の無い不変の道筋、やはり迷宮を忘れて暮らすには、私はもう余りにも手遅れだと。
ざわめき、どんどんと近づく、大きくなる音、それを剣を握り待ち構える。
血の匂い、甘い匂い、鉄の匂い、澄んだ夜の香りを吸い込み、自身を落ち着かせる様に思考の海に身を沈めて。
〔ぁぁあぁ……キリイさん、踏破者様……〕
けれどそんな私の思考を乱す様に、背後から今にも消え入りそうな義勇兵の声が紡がれ消える。
ソレは鳴り響く濁流に掻き消されゆく声――そしてそれが合図が如く亡者仕掛けの“夜”が動き始める、至る所から“夜”が湧き出す、無数の“夜”が押し寄せる。
嘆き苦しみ、人の魔力を追い、避難所を目指し、建物の裏から、通りの奥から、路地裏から、或いは目の前の光の中から、腐り顕れる、人の成れ果て達。
――嗚呼ア゛嗚呼嗚呼嗚呼ァッアアァ゛ィィア゛!
「ッッ嬢ちゃんッ! 何度も悪いが! 鳴き狂いは何匹でも通しても良いッ! だがッ《屍兵》だけは絶対に止めてくれッ!」
そう叫びキリイは疾風の如く闇の奥へと飛び抜ける。
まるで私を護る様に、自分一人で負担を背負う様に、それはきっとキリイなりの責任感と覚悟なのか、それとも私を信用していないのか、或いは両方か。
「……ズルい」
だから口の中でそう呟き、やっと月から目を離し、来るべき者を歓迎する様に前を向き待ち構える。
キリイから溢れ、此方へと迫り来る鳴き狂い、確かにその数は多く、凄まじい迫力を誇っていた……がソレだけだった。
(向かってくるのは……1匹、2匹、3匹……ふふふ、蜘蛛を思い出す)
その光景は懐かしき迷宮の記憶を呼び起こし、きっと私の瞳は歓喜の光を宿していた。
……今は戦える手段があるのだから。
そんな私に迫る、歯を剥き出し、腐臭を撒き散らし、獣の様に叫び、怒りを表し向かってくる鳴き狂い。
その肉を掴む為に伸ばす腕の力強さは知っている、きっと蜘蛛よりも強い魔物だと分かっていた。
(――でも蜘蛛以下だ)
だからこそほんの一歩だけ自分から踏み込む。相手の足を踏む程までに近づき、力を放つ。
――キラリと光る刃、反射する朱い輝き。
勢いを乗せたまま振るわれた私の剣は鳴き狂いを通り抜け、自分でも惚れ惚れする様な一筋を朱い月の下に煌き描く。
勢いを止め、剣を素早く引き戻しながらも、私はその刃に未だに宿る一匹目の感触を味わい、ゆっくりと嗤う。
(……)
そして私の右足は再び地面へと痕を遺し――ッ。
――……嗚呼ァア゛?
踏み込む勢いのまま、風を切り音を纏い、左足を軸にし体重を預け、流れる様に鳴き狂いへと全ての勢いを解き放つ。
(……2匹目、あははは、やっぱりだ! 剣が冴えてる! 体が冴えてる!)
夜が始まってから、月を見てから、まるで体が最適化された様に思うがまま動く、やはり剣が研ぎ澄まされている、何かが変わった訳では無いと云うのに。
(この夜が終わったら恩寵を……)
そんな事を考えながらもう半歩だけ夜を進み、ただ此方へと向かってくる3匹目の鳴き狂いを掬う様に斬り上げる。
そして残るは私の剣が通り過ぎた成れ果て、ボロボロに打ち上がる腐った血と肉片、考える余裕はあっても流石に恩寵を見る余裕は無かった。
(とりあえずは息をつける……やっぱりこの魔物は弱い)
首を切られ、光に還る亡骸を見つめながら、少しだけ息を吐く。
夜に溢れる魔物は決して足並みを揃えるわけじゃなければ、囲むわけでも、先の見えない終わりなき物量をぶつけてくる訳でもない……あの蜘蛛はこんな物じゃなかった。
そう思いながらも私の呼吸は情けなく乱れていた……流石に私も少しだけ体が強張り、ほんの僅かだけ緊張していたみたいだ。
……平常心ならば、きっと今の戦いなんかで息は乱れなかっただろうと、メルガルドへ来る前の鳴き狂いとの戦いを思い出しながら。
「……」
それでも次に迫る鳴き狂いを意識しながらも、まだ少しだけ乱れる息を整えキリイの戦いへと視線だけを動かす。
やがて視界の中心へと映るキリイ、そしてキリイを中心に広がる光へと還って行く大量の亡骸達、その数が彼の戦いぶりを、葬った鳴き狂いの数を果敢に表していた。
だがそんなキリイは今や見る影無く、避難所へと我先にと向かう鳴き狂いを殆どを素通りさせ。
たった1匹の魔物へと本物の殺意をぶつけて対峙している。
(……)
――もし呪いの夜が今私が相対した物……それだけだったのならばきっと呪いの夜と呼ばれなかっただろうし、それだけならば中級迷宮なんて呼ばれなかったかもしれない、けれどそれは居た、溢れる鳴き狂いの中に潜む、恐ろしい怪物、踏破者しか相応できない魔物。
(……あれが屍兵)
リコリス達から話には聞いていた……けれど実際に対峙するのとは違い、その魔物を見ただけで私は呪いの夜への認識を改める。
鳴き狂いとは違い存在感を放った朱い夜の魔物、流石にあの迷宮の主よりは格段に弱いけれど、それでも緑の蟷螂よりは強く……いや、比べるならばきっと魔物より人間の方が相応しいだろう。
――鳴き狂いと同じ人の形をした魔物、使い古されたと云うよりは、劣化し腐った様な鎧を纏う、形容しがたい不気味な騎士。
けれど鎧に空いた穴から腐り欠けた中身が見え隠れしており、その騎士が魔の物だと憐れな程に証明していた。
(少なくとも、あの蟲の迷宮の踏破者達よりはきっと強い……通りで屍兵は通すなって云うわけだ)
背後に居る義勇兵を意識しながらそう思う、通してしまったら決して少なくない犠牲が出るだろうと。
ボロボロで腐り欠けた醜い鎧……けれどそんな鎧とは反対に屍兵が握っている剣は鈍い輝きを放っており、剣を構える胴の入った姿が、鳴き狂いとは違う、戦う者としての高い思考能力を表していた。
(くくくく、それを私が……あの時とは違う、今の私が倒せるのかな?)
左腕の神器を撫でる、未だに使ってすら無い左手のマジックリングを意識する、そして蟲の迷宮で味わった魔力がごっそりと失われる感触を思い出しながら、想いを馳せる。
アレこそが夜の本命、踏破者達の役割、そして今、私は踏破者として此処に立っていた、だからこそ屍兵とも戦わないといけない、否、乗り越えなければいけない迷宮への試練。
……何故なら私が幾ら泣き狂いを仕留めようが、所詮鳴き狂いなどいくら通しても構わない程度の存在に過ぎないのだから。
(鳴き狂いなんかじゃ絶対に迷宮へ届かない、夜の魔物を終わらせる為に……迷宮の為に、キリイ、見させて貰うよ)
メルガルドの踏破者、呪いの夜を戦い続けた歴戦の踏破者、私の知らない外の踏破者。
助けには入らない、恐らくキリイもそれを望んでおらず、今の私じゃきっと邪魔になるであろうから。
……だからこそ彼がどんな戦いをするのか、屍兵がどんな戦いをするのか、静かに魅入ろうとするけれど、当然邪魔が入る、それも私が思っていたより早くに。
――嗚呼ァッ!
(ちっ、邪魔ッ!)
ピシャリと建物から落下し地面とぶつかる鳴き狂い。
そのままいびつに歪んだ自身の足さえ気にせずに獣の様に地面を這い向かってくる。けれどソレに意識を半分すら向ける事無く、即座に首を払い落とす。
(光が当たる場所なら建物の上にさえ顕れるのか……)
曲がり傷んだ亡骸に少しだけ驚きながらも、即座に亡骸を蹴り飛ばし、空けた足元を確保する。
そのまま血に濡れた剣を切払い、即座に戦える準備を整えると、抑え切れない期待に頬を緩ませながら私はキリイへと視線を戻す。
◆◆◆◆◆
――――ギリィィィッ!。
押し合う度に力で負ける、刃がぶつかり削れ合う度に火花が散り、腕に衝撃が走る。
迫ってくる斬撃はそれ程に強力な物でまともに受ければ致命傷は免れない恐ろしい一撃だった。
だがそんなのよりもゾッとしない物……キリイは戦いの最中、ずっとソレに襲われていた。
(見られている……この戦いの中でずっとずっと……クライナ嬢が?)
屍兵と相対してから、屍兵と切り合いながらずっと感じる視線。
……それは測られた時と変わらぬ様な寒気が奔る視線で、味方が……あの少女が発しているとは思えない代物。
(何者なんだ……クライナ嬢は一体……)
力では押し負けながらも間合いを見極め、技量で弾き、屍兵の僅かな隙を突く、キリイはそれを繰り返し堅実に腐り落ちた鎧の隙間を徐々に傷つける。
そうして弱り始めた屍兵相手に、余裕からか思考が傾き始めるキリイ、それは油断とは云うには大袈裟な物で、だが賢い行為とは口が裂けても言えない、本来ならば呪いの夜を戦い続けたキリイが選ぶはずが無い行動。
だがそれは仕方ない事でもあった、拭い切れない程の疑問がキリイの脳裏を埋める程、あの少女は異常だったのだから……朱い月を直視してから立っている事、戦えている事を含め、確かに彼女は異常だった。
――…………ゥォオ……。
(……振り向くのが少しだけ恐ろしい、この戦いが終わるのが少しだけ恐い、はっ、俺は何を想像しているんだ……)
力尽きる目前だと云うのに変わらず少しの声しか発する事無く、ただ剣を振るい続ける屍兵。
キリイの手によって更に朽ちながらも、鳴き狂いとは反対に物静かな様子は、沈黙なる騎士と言えど鳴き狂いと同じぐらい不気味な物だった。
だが……脳裏に浮かぶ最高で最悪の想定、キリイは背後に静かに待ちわびる不安な未来、それがそんな物よりに遥かに不気味だった。
――……ォォ……。
遂に戦いに終わりが訪れてしまう、不死身だと錯覚する程の耐久性を誇った屍兵は遂に崩れ、その隙を経験則から知っていたキリイは流れる様な斬撃で止めを刺す。
……本来ならそれは喜ばしい結果で、何時もより上手く、手早く、疲弊もせずに倒せた筈だった。
だがもう少しだけ戦いが長引いてもよかった……余計な考え事が出来ないぐらいに追いつめられた方が良かったかも知れない。
キリイの脳裏に一瞬、そんな愚かな考えを浮かばせるぐらいに恐ろしい視線は未だに背中へと突き刺さっていた。
だがキリイは息を吸い、思い切り振り向く。
バロンのリーダーだからか、それとも勇気を振り絞ったのか、或いは背後の光景が恐怖以上に気になったからかもしれない。
「ックライナ嬢ッ! お前らッ! 無事か!? 屍兵を1匹仕留めたッ! だが、まだ夜は始まったば……」
思わずキリイの言葉が詰まる。
……最初に眼に映るは気まずい苦笑を浮かべた義勇兵達、そしてそこから徐々に徐々に件の少女へとキリイは視線を動かす。
(っ、あぁ、ピカピカの義勇兵共を見てもう察したさ、きっと俺の想像通りなんだろうな……だがそれでも俺は屍兵と対峙してから一体どれだけの鳴き狂いを通した?)
夜だと云うのに似合わない表情をしている義勇兵達、それは夜だと思えない光景で、キリイが命懸けの無茶をしなければ行けないと思っていた瓦解目前のバロンだからこそ絶対にあり得ない筈だった光景。
義勇兵から彼女へと視線が近づく度に『やはりと』確信が深くなる。
鳴き狂いなど最初から存在していなかったのではと思う程に……義勇兵と彼女の間に1つすら光に還る亡骸が無かった事に笑い呆れる。
「クライナ嬢……意外だな、踏破者でも無いのに、随分とお上品みたいだ、本当に驚いた」
笑いながらも冷や汗を掻く、視線の先に佇むのは身の丈に似合わない剣を握った少女。
そして彼女に並ぶように広がる大量の魔物の残骸……その全てが《1匹も通さない》と云う意志を表すかの様に一定の線の前で息絶えていた。
「ふふふ……嫌ですね、ただ強欲なだけですよ」
回りの惨劇を見渡し、皮肉げな笑みを浮かべる少女……それが頼もしくも恐ろしく見える。
「ははっ、そうかい、ならきっと良い踏破者になるだろうよ……なぁクライナ嬢、あんた、やっぱりマジックユーザーじゃないのか?」
声を出してから馬鹿な事を聞いたとキリイは失笑する、先程の宰相の事と云い、とことん目の前の少女にペースを乱されている。
何故ならクライナの血に濡れた剣、切り裂かれた亡骸、散らばる肉片、それが彼女が剣の使い手だと何よりも現していたからだ。
だが……何故か、それでもきっと何らかの固有魔術を持つ、マジックユーザーだとでも言われた方がまだ彼女の事を信じられたかもしれない。
(いや考えすぎだ……鳴き狂いは魔力を追い避難所を目指している、別に全ての鳴き狂いを通さずに仕留めるなんて祝級でも出来ない事も無い……)
その光景は祝級踏破者ならば無理をすれば出来なくも無い光景で、祓級踏破者であるキリイが、それも夜に慣れた優秀な者ならば驚く様な光景ですら無く。
むしろ夜を知っているからこそ、クライナの行為は義勇兵に任せず、体力を無駄に消耗した愚かな物だった。
しかし……だからこそキリイは危険な夜だと云うのに疑問が膨らむ。
(だとしたら単に俺がクライナ嬢を見くびり過ぎていた、実力を測りそこねただけ……ただ、それだけの事なのに一体俺は何をそんなに……?)
キリイは確かにこのバロンにクライナ達が来て助かったと思った、けれど呪いの夜はそんなに甘い物じゃないのも同時に分かっていた、例え今更二人の踏破者が増えようがマジックユーザーで無いならば、やはり相当に厳しい物になると。
その上……そもそもキリイは不本意ではあるが、軍人であるリコリスは信頼していても、踏破者ですら無く、夜すら知らない様子のクライナにそれ程期待はしていなかった。
――だからこそディックとリコリス、自分とクライナに分けたのだ。
そしてその結果がこれだ、自分の見定めよりもクライナは強く、自分の感が良い方に外れた、それだけじゃないか。
けれど違うと思考が動き出す、未だに払拭しきれない違和感と疑問、何かを見逃している危機感、少し年老い時折働かない記憶が遡り囁く。
――違う、思い出せと。
そうだ……屍兵と戦っている時にすら自分は何をあんなに恐れていた?
(ッ視線か……そうだ、クライナ嬢は1匹も後ろに通さずにその上で、ずっと俺を見てたって云うのか?)
たどり着いた思考、その答えに思わず出来る訳が無いと声を出しそうになってしまう。
所詮は鳴き狂いで幾ら通しても構わない存在だと云っても、その腕は人の命を奪うには到底足りる物で、その悍ましい悲鳴は夜に慣れたキリイでさえ、ほんの僅かとは言え体が竦んでしまう狂気の怨嗟。
(強力な恩寵でも持っているのか? 全く……ここまで気になるのなら、先に踏破者登録をするべきだったな)
戦いは1か0かなんて物では到底無い、夜に慣れ、命を削り戦い続けたキリイでさえ、警戒に警戒を重ね、常に先を見据え安全択を取り、恐怖を胸に戦っているのだ。
それを自分より実力が劣るであろう者が、自分より遥かに経験で劣る少女が、恐れること無く為し得た。
だがキリイはそれがどれほど身の程知らずで、馬鹿な行為であるかも知っていた、彼は夜の恐怖を知っているからこそ今日まで戦い続けれたのだ。
(戦いに慣れた凄腕で実力を隠している子供って線は恐らく無いか、夜になってからクライナ嬢が舞い上がっているのは明らかに見て取れた、戦いにおいて平常心を保つなんて高尚な物ではなく、クライナ嬢はただ高揚していただけだ……)
その様な恐れ知らずは……無謀と勇敢を履き違えた踏破者はどんな時代にも居て、それは何時の時代も恩寵を過信した子供だと相場が決まっていた、そしてその多くが命を落とす。
……しかしキリイはクライナがそうだとは思えなかった。
(……だが無謀に突っ込む事も無く、かと云って実戦で恐怖を覚えて使い物になら無くなる事も無く、先を見据え、自身の欲を満たしながらも、俺と屍兵との戦いを観察し糧とした……)
『いや、そんな事が出来る奴らは偶に居たな』とキリイはかつて昔に挫折した踏破者都市メルガリダス、そして踏破者が盛んだった時代のメルガルドを思い出す。
(ははは、長い夜でこんなに懐かしい気分になったのは何時ぶりだ……?)
彼は長い踏破者生活の中で知っていた、そんな者は大抵長生きし凄まじい踏破者になると。
――――――それは無論、強力な恩寵があればの話だが……。
◆◆◆◆◆
「……なぁクライナ嬢、あんた、やっぱりマジックユーザーじゃないのか?」
似合わない疲れた表情を浮かべ、屍兵との戦いが終わるや否や、後退し戻ってくるキリイ。
(ふふふ、あれがこの世界の踏破者の戦いなのかな? 何か凄いシックリときた)
キリイと屍兵の戦い、それはガレムとあの蟷螂との戦いとは数段劣る物だっただろう、だけれどキリイの戦いは踏破者の戦いだった。
最低限近づく鳴き狂いを処理し、安全地帯を確保した上で、極力負傷と疲弊を避け、先を見据えて屍兵を安全に削り斃す、泥臭く堅実な狩りその物だった
「……違いますよっ、そんなに私がマジックユーザーとやらに見えます? ……じゃあキリイさん次は私が屍兵と戦って良いですか?」
なら屍兵と戦って証明してみせますよ……なんて意思を乗せて私はキリイへと笑いかける。
しかし私はそんなにマジックユーザーに見えるのだろうか? 騎士団長が神器の魔力がどうたら言っていたのを思い出す、もしかして神器の所為でマジックユーザーに見えるのかな?
ふと、もしこの場にマジックユーザーが居れば、もっと踏破者が居ればどうだったのだろうと、別の街の戦いが気になる。
「……」
突然何かに気づいた様に目を開き、私の顔を見つめるキリイ。
やっと私がマジックユーザーじゃないと理解し、衝撃を受けた……と云うことでは無いよね、絶対。
「……? どうしましたキリイさん? 私の顔に何か付いてます? それよりも呪いの夜ってもう終わりなんです? もうまったく魔物が湧きませんけど」
夜だと云うのに無防備にも黙り呆けたキリイにまさか……? と思ってしまう。
湧き出す事さえ無くなったのか、勢いが完全に止まりきった魔物、何故か拍子抜け気味に苦笑している義勇兵、そして相変わらず固まっているキリイ、その全てに不安を抱く。
(……まさか夜はもう終わり? 嘘でしょ? こんなに呆気ない物なの? 呪いの夜って……全然足りないよ、戦いも、活躍も、何もかも)
浮いた朱い月を見た時の高揚感、あの魔力を見た時の期待感、朱く染まったメルガルドを見た時の果てしない匂い、その全てが私を上げて落とすかの如く、期待を裏切る……なんて事は決して無かった。
(違う――まだ月は朱い、メルガルドは朱い、それ所か、更に朱く、匂いが強くなってる、まだだ、まだ夜は終わってない、終わらない)
夜だと云うのに再び刻まれる私の影、見上げる月は更に深く淀み塗られ、何も湧き出しはしないと云うのに、再び静寂を取り戻したバロンの街の全てを包む様に匂いが更に濃く満ちる。
それはまるで何かの兆しで、きっと何かの始まりだった……そして
「~っ、魔物が沸かないだと……? まさかっ、まさかだろ? ちッ! ……っなんでよりによってこのバロンにッ! 糞ッ! おいっお前らッ! 《山崩し》だッ! 山崩しを引きやがった――ッ!」
それを決定付けるかの様に、やっと私の言葉を飲み込んだキリイが露骨に顔を歪め、即座に気が抜けた様に苦笑していた義勇兵へと空気が震える様な怒号を飛ばす。
その叫びは凄まじく必死な物で……だからこそこれから起こる事が途轍も無い緊急事態なのだと理解させられた。




