二章 13話 魅入られし者 ※挿絵あり
「ったく……毎度、毎度、まだ夜じゃないってのに、こんなすし詰め状態にするんじゃないよ、全く」
毎月、毎月こればかりは慣れないと、ギュウギュウに人がごった返す避難所見渡しながら老婆は顔を歪める。
女、子供、老人、バロンの戦えない者はこの大きな避難所へと集められていた、その場に男は居ない、有志として、踏破者と共に義勇兵として戦うからだ。
(今日は……せめて誰も死なないで欲しいね)
そんな悪態を付きながらも老婆は男達の無事を祈る。
未来があるのに未来なきバロンに残る若造のディック、もう守るものさえ無いと言うのに、身を削り戦い続けるキリイ、そして踏破者でも無い義勇兵の男達。
彼女も戦ってくれている者達に感謝し、そしてこのバロンがその絶妙なバランスで保たれているのを理解していたからだ、そして理解しているからこそ……。
(本当はわかってるさ、誰も死なないなんて今日に限っては可能性すらないなんて、だからこそディック、キリイ……あんた達は無茶をするんだろうね、傷さえ治って無いって言うのに、はっ、初めて街が1つ潰れた時、やっと国は重い腰を上げるのかね、そうでもならないと私達は報われないよ……)
遂にそのバランスが崩れてしまうと、老婆は限界を悟っていた、今日バロンが滅びても可笑しくはないと。
そんな絶望的な夜を前に老婆はふと始まりを……数年前のあの急な迷宮活性化の恐怖を思い出す、初めの夜、急に街中に出て湧いて魔物共を。
軍は異常な魔力反応観測……つまりは迷宮の活性化で南からの魔物達の襲撃に気付き、迎撃を行ったが、同時に街中に魔物が街中に湧き出すなんて誰も気付かなかった、気付く筈がなかった、迷宮の活性化なんて事例があったとしても、何が起きるかなんて、ましてやそんな事が起きるなんて予測など出来なかったのだから。
(……あの時は本当に酷かったよ、どれだけ人が死んだのか、そして私達は生き残った)
だからこそ、この国に留まっている者も多い、平和な国こそ、いつその平和が壊れるか、分からない、その恐怖を知っているからこそ、耐えたこの国に留まっている者もいるのだ。
何故なら迷宮の活性化に襲われようが、この国は生き延びているからだ、国が出した対策、宰相、【セント・ブルックス】が即座に立てた対策によって。
だからこそ多少不満があろうが、国に逆らう物は少なかった、そんな事をしてもただ国の滅びが早まるだけと云うのもあるだろうが。
(……物は言い様だけど、この国は活性化の対策が出来た国とも言っても良いんだから、出ていくばかりじゃなく、もっと人が来てもバチは当たらないだろうに、幾ら迷宮の活性化って言っても、もし踏破者が沢山来てくれたらこの夜も……はぁ、外じゃ活性化迷宮の被害があるってだけで印象がさぞかし悪いんだろうね)
上手く行かないもんだね、と老婆は悲しげに笑う。
昔より踏破者も随分と減ってしまった、最初のあの夜に……急に起こった誰も予想出来なかった混乱によって新米も中堅もそれ以上も分け隔て無く沢山亡くなってしまったから。
もし今あれ程の踏破者が居ればと老婆は意味のない妄想をする、そんな大量の死者の恐怖があるからこそ、外から踏破者がやって来ないと分かりながらも。
それに元々、外郭、国と国を移動する旅路なんて、金は掛かるし、無法者、魔物、眷属なんて危険もあるのだ、わざわざ呪われた国まで来る馬鹿がいる訳が無いと、そんな自身の馬鹿な考えを老婆は笑う。
(いや、馬鹿は居たさね、武器売り商人とガーランドの人間が……)
もちろん武器売りの目的は分かり切った事で……老婆はガーランドについての心当たり、最近広がる噂話をふと思い出す。
――恐怖に怯えずに暮らしたければ、見知らぬ魔法馬車に乗れ、一切の対価は必要なく、誰でも受け入れてくれる国ガーランドへと送り届けてくれるだろう。
(ふん、なぁにが恐怖に怯えずだ、何が魔法馬車だ、怪しすぎるね、弱った人の心につけ込んでいる様にしか聞こえないよ)
老婆はそんな与太話を鼻で笑う、まず魔法馬車なんて物があり得ないからだ、それは魔法を使える御者が操る馬車の名前で、確かに国の間を比較的安全に移動できる手段の1つでもあったけれど、だからこそ御者の需要が途轍もなく高く、そんな意味の分からない慈善事業に使える物でも無いからだ。
(それでもこんな国と運命を共にするよりは……もし本当に怪し気な魔法馬車を見かけたら、そんな噂話を信じてもいいのかもね)
もし本当にガーランドに着くなら、乗ってみてもいいと老婆は思う、少なくとも今のこの国よりは悪くはないだろうから。
そんな胡散臭く恐ろしい話だけれど、実際にガーランドから来た旅人は入国が出来ないやら、捕まるやら、行方不明者が増えたやら、そんなキナ臭い話のおかげで却って人々の話への期待度は上がっていた、国への不信感をつのらせている為に。
(ガーランド……数年前までは、踏破者も旅人も口を揃えて酷い国だって言ってたんだけどねぇ、嫌な覚え方だけど、最初の呪われた夜が起こった少し前ぐらいに王が代わったと聞いたぐらいかね?)
急に現れたガーランドの新たな王、それが女性だと言うのだから、聞いた時は驚いて皿を落したのを老婆は覚えていた。
出ていく物に比例する様に、あの夜からメルガルドへと寄る人間がどんどんと居なくなってしまったから、幾ら老婆が酒場の主だろうと、幾ら踏破者組合の事務員だろうが、もうそんな小国の中の情報までは耳に入ってこなかった。
「――ひっ、夜が来た……」
老婆の考えを中断させるかの様に、そんな魔力に敏感な者の声が避難所に響く。
けれどそんな声が響くよりも先に老婆は分かっていた。
(……あぁ、夜が来たさ)
老婆は瞼の裏に走る点滅に忌々しそうに目を開く。
全ての窓を打ち付けられた避難所を、照らしていた唯一の灯りがチカチカと狂った様に点滅し、避難所の人々はその表情に恐怖を貼り付けていた。
(これも相変わらずに慣れないね……)
恐怖に染まる避難所から目を逸す様に老婆は天井へと視線を向ける……そしてそれでも此処で戦う為に外に立っている達を思い浮かべ、未だに脳へとこびりついた、かつての惨劇の記憶をなんとか振り払う。
(あぁ、きっと満月は美しいんだろうね……もう何年も見てもないよ)
けれどその代わりに出てきたのはそんな訳の分からない考えで、きっとそれは僅かにだけ声として形を持った。
老婆は知っていた、満月を見れる平和の国を、魔法馬車で無くても、或いは歩いてでも安全に辿り付ける魔物が居ない仮初めの国を……だからこそ人々はイルオレーネに憧れ、憎むのだった。
◆◆◆◆◆
(結局二手に別れちゃったな、リコリスさん達が無事だと良いんだけど……でも、それよりも自分の心配か)
あれから暫く経ったなと、考えを巡らせながらも、ふと空を見上げる。
もう夕暮れは空を見上げずとも分かるほどに進み輝いており、寂れたバロンは夕日で包まれ、それに差し込む様に、暗い闇がどんどんと重なっていく……もう夜は目の前へと近づいていた。
けれど私達以外誰も居なかった筈のバロンは見る影も無く、今や武装した男達が一列に並ぶ様に大きな建物を守り、そしてそれより更に外側、つまり最前線、バロン屈指の大きな通りに接するそのギリギリに私とキリイは居た。
「クライナ嬢、本当にもう直ぐ夜が来るぞ、何度も言うし、きっと分かると思うが、夜になれば絶対に空を見上げないでくれ……おいッ! お前らもっ気合入れろよッ!」
そんな私とは反対に、武器を構えジッと精神を研ぎ澄ませるかの様に黙っていたキリイだったけれど、もう何度も夜を経験した経験談からか、戒める様に私へと声を掛けてから、振り向き背後へと空気が震える様な喝を入れる。
分厚い鉈の様な物を抜き身にし構えるキリイが怒鳴る姿は、中々に頼りがいのありそうな物で、怒鳴られた義勇兵達からしたら堪った者では無いだろう。
(……やっぱりこの様子だと本当に日が落ちた瞬間に呪いの夜が始まるのかな? それに空を見るなと何度も言われたけれど、それでも始まれば分かるなんて納得いかないなぁ、ま、何はともあれ気は引き締めよう、此処は迷宮じゃないんだし)
そう頭では考えながらも、私の瞳は身にまとった装備を再確認する。
右手に装備した革と鉄板仕掛けの黒く暴力的な手袋、左手に装備した加速のマジックリング、体を包むのは私の唯一お気に入りの二段のローブ、そしてそれで覆うように隠した2つの神器に、背負うガレムの剣。
残念ながら鉄板入りのツギハギの様な靴と、胸当ては置いてきた、フルアーマーの私では無いけれど、流石にあの2つは戦うには重すぎるのだ、きっと現状じゃ、今の私が一番最高な状態だと思う。
(本当に心配なのは、私より避難所なんだけどなぁ……)
夜の香りを感じながら後ろへと振り向く、すると沈みゆく太陽によって伸び切った私の影があり、そしてその先に避難所と呼ばれる大きな建物があった。
其処にはバロンの全ての人達が集まっており、最前線に立つ私達以外、つまりは義勇兵が避難所を囲む様に守っていたのだけれど……。
「ん? どうしたクライナ嬢? ……あぁ、義勇兵は気にしなくていいぞ、あんたから見たら頼りがいが無いかも知れないが、信用してくれ、ああでもきっとあんたより呪いの夜には慣れてるからな」
背後を凝視する私につられる様に振り向くキリイ。
確かにキリイの言葉通り、避難所に並ぶ人々は私よりも遥かに逞しい男達で、その顔に恐怖と大きな緊張があろうとも頼りになりそうな人達だった。
勿論、彼らも作戦の肝で、キリイ曰く、「鳴き狂いなら何体通して大丈夫」ぐらいには戦えるみたいだ。
けれど私が聞きたかったのはそんな事じゃない、まだ少しなら時間があるだろうし、ちょっと聞くぐらいなら大丈夫そうだ……よし!
「キリイさん……この呪いの夜は、確かメルガルドの至る所に魔物が湧くんじゃなかったんですか? 避難所の中に魔物が出たりはしないんです?」
そう……これが私の疑問だ、リコリスも、ディックも、キリイも、この国の人間だから分かっている事だからか、そんな疑問を挟む事無く話し合いは進んで行き、私も口を挟まなかった、けれど避難所を見てからその疑問が止まない、他と変わらないただ大きいだけの建物にしか見えないから。
「……それは説明してなかったな、リコリス嬢は軍の人間だったから知ってると思ったが、あんたは……いや、すまん、詮索は無しだな、結論で言えば避難所は大丈夫だ、俺達がヘマをやらかさない限りはだが」
キリイはもう瞑想の様な物を止め、しっかりと目を開き、私へと視線を向けながら言葉を続ける。
「魔物が湧くのには2つ条件がある、1つは禍々しい月の光照らされる場所、そしてもう一つが人の魔力が干渉しない場所、俺にも良くはわからんが、だから人を一箇所に集めた方がいい、そうだな、バロンだと大体彼処らへんより先から魔物が湧き出す」
キリイは太い指を通りの奥へと差す、闇へと侵された其処には地面には印の様な物があったのが、魔含石によって辛うじて見えた。
「成る程……でも月の光が当たる場所に魔物が顕れるのなら、こんな開けた場所じゃ無くて、もっと影が出来る所の方が良いのでは?」
きっと理由があると分かりながらも私は疑問を口に出す……答えを知りたいから。
「例えば照らされた場所が少なくなったとしても、湧き出す魔物が少なくなる訳じゃない、そして魔物は人の魔力を追う、危険だろ? だから此処が一番いい立地だ、バロンは強いて言うのならば其処が恵まれてるな……レール街なんかは中々酷いらしいぞ」
成る程……私が遭遇した鳴き狂いを思い出す、アレも夜の魔物、呪いの夜が終わったとしても顕れた魔物が消える訳では無いのだろう、だから殺し尽くさねばならない。
語る間にも……どんどんと香りが強まる、夜が近づく、だけれど私とキリイの間には緊張の影すら無かった。
「ふっ、素晴らしい対策だろ? 呪いの夜を、迷宮の活性化を、此処まで落とし込んでいる……なぁクライナ嬢、この対策が完成するまでにどれ程の時間が掛かったと思う?」
キリイは意外にも残された僅かな時間を会話へと浪費する。
……その問いの声は明るく、皮肉げで、全くの悲惨さも無く、そして私が答えるよりも早くに彼は声を続ける。
「くくくく、呪いの夜が起こった二回目……いや三回目だ、たかがそれだけで、此処までの対策を練り上げ、そして今日、そのまま頼り切っている、全く偉大なる宰相だよ、セント・ブルックスは」
太陽は遂にその身を城壁へと沈めてゆき、伸び切った私達の影は徐々に黒へと塗り潰されてゆく。
「……凄い人ですね」
宰相……セント・ブルックス、私があったあの老人、やはり只者では無かったけれど、キリイの言葉には悪感情を感じられた。
「俺もそう思うよ、偉人だ、尊敬だってしていた……」
最早、闇はキリイの表情すら覆っていた。
「今はもうしていないと……?」
太陽は完全に城壁へと沈み、ポツリ、ポツリと、魔力光でぼんやりとした灯りをもたらす街灯以外は、闇へと包まれた……けれどメルガルドにまだ夜は来ていない。
「……もう出来ないな、俺は何時も思うんだ、あともう少し呪われた夜の恐怖を味わっていれば、きっと国も人々も呪いの夜を舐めなかった、セント・ブルックスは人々の不満に中途半端に穴を開けやがったんだ、こんな半端な余裕が無ければ一致団結だってしただろう」
彼の立場ではあり得ない様な言葉、そしてまるで国の余力を見通した様にキリイは語る。
(一致団結か……)
「……良いことでは無かったんですね」
闇に視線が慣れる、そしてようやく彼の表情が見える、私は結果しか知らないのだ、今のメルガルドしか知らないのだ、過去の夜を分かりえないのだ、だからこそ夜を戦い続けたであろうキリイは言葉を続ける。
「あぁ、だが悪い事だって訳じゃない、それどころかその功績は偉大だと俺は今でも思ってる……が、発言に責任が伴って無かったんだっ、呪いの夜で凄まじい被害を受けたのも、街中で戦ったのも、主に俺達、踏破者だった、それで出現した魔物、対策や傾向、分かった事を詰めてって、街の中の人々でも、組合でも、国でも結束力を強めるのも良かったかも知れない、次の呪いの夜は国の兵士、騎士だって少数ながらも街に配置してくれたんだからな」
語調を強めるキリイ、その様子は少しだけ印象と違う物だった。
そして聞いていた通りに……魔力障害に依ってチカチカと狂った様に街の灯りが点滅を始める。
「だが奴はっ、セント・ブルックスは一人で直ぐに対策を練りやがったっ、城務めの戦いに出てねえ、国のお偉いさんの奴がな、はは、踏破者形無しだ、けどなそれは確かな希望だったんだ、でも奴はその後だんまりだっ、何も言いやしなかった……所詮は自分の利益しか見てないただの権力者だったっ!」
私にはあの宰相がそんな人には見えなかったけれど、けれど私は城を知っている、だからキリイの言葉は凄まじい説得力があった。
「それでも踏破者も人々もずっと感謝した、はっ! 俺も敬意を持ったよ、だがな今は恨んでる……だってっ、こんなにも長くこの夜が続くと思わなかったんだっ、此処はっ、たった三回目で迷宮の活性化の完璧な対策を一人でしやがった宰相がいる国なんだぜ? くそ、騙されたぜッ、クライナ嬢、あんときはな、踏破者はもっと居たんだぞ? バロンでさえだ、そして何時かは、なんて思いながらずっと戦い続けた、だが年に何回満月が来やがる! どれだけ人が死に、国を見限ったか、騎士がやらねぇって分かってたなら、あの時にっ……」
声を荒げ、言葉では無く、想いを吐き出すキリイ、それは数年間この国で命を削り続けた男の言葉だった。
「迷宮を目指していれば……ですか?」
私は……キリイが口にしなかったその言葉を、踏みとどまったその言葉を、代わりに口にする。
「っ、あぁ……その通りだ、こんな話するつもりなんて無かったのに、悪いな、どうも老いると話が長くなるみたいだ」
何故か私に話したくなったと、謝りながらも不思議そうに首をかしげるキリイ、ふふふ、謝る事なんて何もない、私も迷宮を望んでいるのだから。
そんな昔に、そんな踏破者が賑やかだった時代に、私がいればどうなったのだろうと思い浮かべながら、暗くなった街をグルグルと見渡す、影は消え、狂った光がチカチカと点滅し、暗闇に慣れた瞳が、緊張に固まる義勇兵を映す……夜がもう訪れる。
――スッ……
だから私はようやく剣を抜く、静かにゆっくりと両手に馴染ませる、目障りにもチカチカと狂った光を繰り出していた街灯が、どんどんと息絶える様に大人しくなり、やがて暗闇が街を支配した様に見えた。
「……様になってますか?」
暗闇の中、感心した様に、驚いた様に此方を見るキリイが見えた、だから聞いてみたいと思った、踏破者の彼に、私はどうだと、何しろ最初に握ったのが、満身創痍で疲れ果てた時だったから尚更に。
「……」
けれど答えは無かった、何故なら、遂にそれが訪れてしまったから、そして代わりに返ってきたのは息を詰まらせてしまうほどの圧迫感、この場にいる者達全てに張り詰めた緊張の糸、そして暗闇に支配された筈のバロンに……いやメルガルドの全てに、一筋の光が差し込まれる。
それは余りにも大きく禍々しい一筋の光、まるで血に濡れた夕暮れの様に、明るい暗闇の様に、或いはあの迷宮の光の様に、暗闇と混じりて、影を遺し、国の全てを覆いこむ……勿論私も例外では無く。
(あぁ、だから空を見るなって……だから分かるって……)
その光を浴びる程に自分の中から齟齬が消えてゆく。心地よい優しい光が私を包む。まるで自分が自分として確立される様な、光合成をする植物が浴びる様な優しい光。
……だと言うのに、反対に体は震え、ガチガチと歯がぶつかり合う、剣を握る手に汗が滲む。
何がそんな光を放っているのか、一体何が私の頭の上にあるのか、メルガルドを覆う空に、感じるだけで体が硬直してしまう程の何かを覚える、本能が絶対に見ては行けないと血の気の引く程の寒気で私を抑えようとする。
(……魔力の香りがする、迷宮の匂いがする、じゃあ此処は……)
そうだ、これが夜だ、遂に夜が来たのだ、そしてこの夜は私の感覚が正しければきっと……。
あぁ、気になって堪らない、確かめざるを得ない、だから、私は……分かっていながら、それでも根源的な欲求が、最初に私を迷宮へと導いた好奇心が、徐々にゆっくりと顕れる様に、顔を上へと動かす。
「なっ! おいっ! クライナ嬢ッ! 何をやってるんだっ! 分かるだろッ! 空を見るなぁッ!」
その光の正体に近づくにつれ、私の確信が刻み込まれていく、瞳がその光の中心に近づくにつれて、全身を掻き毟りたくなる程の警鐘が頭の中に鳴り響く、もはや息すら止まり、呼吸すら忘れて本能に逆らいただ顔を動かす、それに、その何かに吸い寄せられる様に……決して見てはいけないだろう、その煌めきを直視してしまう。
(あぁ……)
それは正しく朱い月……。
空は蒼く、されどメルガルドは朱く、その強烈な光を放っている筈の月は僅かな影響さえ蒼い夜空に与えずにただそこに佇んて居た、その光景は噛み合わない現実で、言い様も無く、受け入れがたい確かな違和感を発しながら。
――ガラン……。
そんな音が通りへと鳴り響く、その月に立ち尽くし、ダラリと力が抜け、私の両腕から何かが零れ落ちる。
「馬鹿野郎ッ! 何でだッ! 彼処まで狂った魔力の塊を直視するなんてッ!」
極限まで引き伸ばされた時の中で、もう夜が始まったと言うのに、必死の形相で此方へ走り寄ってくるキリイが視界に入る。
(くくくくく、あはははは)
やっと呼吸の仕方を思い出す、やっと瞬きの仕方を思い出す、やっと心臓の動かし方を思い出す、やっと頭の動かし方を思い出す。
見てはいけない物を見たと云うのに、やってはいけない選択を選んだと云うのに、死を意識したと云うのに……息をする度に迷宮の香りがした、瞬きをする度に瞼の裏に刻まれた幻想を見た、呪われた月を見てから私の体には言葉に出来ない程の焼き切れる様な妙な高揚感に包まれていた……
(此処は迷宮だ、この夜だけは……)
だから私には分かる……きっとメルガルドは、満月の夜だけは間違いなく迷宮だった、ソレは私が求めて止まない異世界の証。
握る物を無くしてしまった私が両腕から、ギチギチと握りしめた嫌な音が鳴り響く、だから朱い光で包まれたバロンの地面へと手を伸ばす、この迷宮でやっと私の実力を試す故に。
「なっ? お、おい……クライナ嬢? ……平気なのか?」
もう呪いの夜だと言うのに、不注意にも唖然とした様に私を見つめるキリイ。
彼の疑問は尤もで、ふとイルオレーネの結界の事を思い出す……これは、きっとソレと同じ事でいくら考えても意味の無い事なのだろうけど。
――ッ!あ゛アッア゛ア゛嗚呼嗚呼ッ!!
「えぇ……私は大丈夫ですよ……今は……まだ」
腐った悍ましい匂いがする、身の毛のよだつ雄叫びが聞こえる、何かが向かってくる音がする、その度に頬が緩み、目が冴えて、心が震える。
(私の選択は間違いじゃなかった……ふふふふ、あっはははは! やっぱり私はツイてるッ!)
……空に浮かぶ朱い満月は、今の私にとって何よりも美しく見えた。




