本番前リハーサル――帰るための手順も決める
会計システムの本番切り替えが、いよいよ目前に迫っていた。
旧システムから新システムへのデータ移行。
各部門の業務確認。
周辺システムとの連携。
そして、万が一の障害に備えた切り戻し。
これまで何度もテストを繰り返してきたが、テスト環境で問題なく動くことと、実際の業務を止めずに切り替えられることは別の話だった。
「本番前リハーサルでは、操作確認だけじゃなくて、切り替え手順そのものを確認します」
情報システム部の担当者が、会議室に集まった関係者に説明した。
「特に重要なのは、どこまで進んだら本番環境に移行したと判断するのか。それから、どこで問題が発生したら旧システムに戻すのかです」
エルさんは資料を見ながら、確認事項を一つずつ整理していた。
異世界のギルドでも、仕事の途中で問題が起きることはあった。
しかし、今回の仕事は少し違う。
帳簿の数字が合わなければ、会社の支払いも、売上の確認も、月次決算も止まってしまう。
しかも、新しいシステムに移行した後で、旧システムに戻すことになれば、その間に入力されたデータをどう扱うのかという問題もある。
「切り戻しを行う場合、どの時点のデータを使うのでしょうか?」
エルさんの質問に、立ち会いSEが答えた。
「基本的には、切り替え開始前に取得したバックアップと、切り替え作業の進行状況を確認して判断します。ただし、切り替え後に新システムで入力されたデータがある場合は、その扱いも確認しなければなりません」
「つまり、戻すことだけではなく、戻した後に業務を再開できる状態にする必要があるのですね」
「その通りです」
エルさんは、リハーサル用の手順書に書き加えた。
切り替え開始。
旧システムの入力停止。
データ移行。
移行結果の確認。
新システムの利用開始。
そして、各工程で問題が発生した場合の判断基準。
誰が判断し、誰に連絡し、どの手順で戻すのか。
以前のエルさんなら、作業手順が書かれていれば、それを順番に実行することだけを考えていたかもしれない。
しかし、今回のプロジェクトで彼が学んだのは、作業を進める手順だけではなく、作業を止める手順も、仕事の一部だということだった。
「リハーサル環境と本番環境の違いも、明確にしておきましょう」
SEが説明を続ける。
リハーサル環境では、実際の業務データをそのまま使用するわけではない。
本番環境では、実際の会社の数字を扱う。
リハーサル環境で実行した処理が、本番環境でも同じように動くとは限らない。
接続先。
データの保存先。
外部システムとの連携先。
バッチ処理の実行条件。
環境ごとに設定が異なる部分を確認し、本番切り替え時に変更する項目を明確にしておく必要があった。
「このファイルは、リハーサル環境ではテスト用のデータを読み込んでいます。本番では、本番データを読み込む設定に変更します」
エルさんは、設定一覧を確認した。
「入力元だけでなく、出力先も確認する必要がありますね」
「そうです。入力元が本番になっていても、出力先がテスト環境のままなら、処理自体は成功しても、正しい場所にデータが保存されません」
その言葉を聞いて、エルさんは少し考えた。
「なるほど。魔法の呪文が正しくても、転送先の門が間違っていたら、別の場所に届いてしまうのですね」
「まあ、そんな感じです」
SEは苦笑した。プロジェクト内でエルさんは、仕事もできて応対もしっかりしてるけど、ちょっと廚二病気質があるという認識だった。SEにはアニメ好きも多く、エルさんの廚二病気質はおおむね好意的に受けとめられていた。
リハーサルでは、手順書に沿って切り替え作業を進めた。
データ移行の開始から、確認作業、各部門への引き渡しまで。
作業担当者が実行する項目。
確認担当者がチェックする項目。
判断が必要な項目。
それぞれの役割を明確にした。
そして、実際に切り戻しを行う想定の訓練も実施した。
「この時点で問題が発生した場合、どうしますか?」
SEの問いに、エルさんが答える。
「まず作業を停止します。影響範囲を確認し、切り戻しの判断を行う方に報告します。判断が確定したら、手順書に従って旧システムに戻します」
「では、切り戻しを行わずに、そのまま進める判断は?」
「問題の内容と影響範囲を確認して、責任者が判断します。作業担当者が勝手に進めることはありません」
「いいですね」
リハーサルを通して、切り替え作業の所要時間も把握できた。
これまで想定していた時間より、確認作業に時間がかかる部分もあった。
データ移行そのものは順調でも、各部門の確認や、周辺システムとの連携確認には一定の時間が必要だった。
「本番では、リハーサルと同じように進むとは限りません。余裕を持った時間設定にしましょう」
SEの言葉に、関係者が頷いた。
最後に、エルさんは手順書を見直した。
切り替え開始の判断。
環境設定の変更箇所。
移行後の確認。
問題発生時の停止条件。
切り戻しの判断ポイント。
切り戻し後のデータの扱い。
必要な項目が、すべて記載されていることを確認した。
「これなら、本番で何が起きても、少なくとも次に何を確認すればいいかは分かりますね」
「そうです。完璧にトラブルを防ぐことはできません。でも、トラブルが起きたときに慌てないための準備はできます」
エルさんは、静かに手順書を閉じた。
本番前リハーサルは、予定していた確認を終えた。
そして、切り替えに必要な時間も、ほぼ本番に即した形で把握することができた。
いよいよ、本番である。




