師走の忘年会
エルさんが入社して、半年が過ぎた。
最初はパソコンの電源を入れるだけでも緊張していた彼だが、今では電話の取次ぎもすっかり板についていた。
「いつもお世話になっております。営業部の佐藤でございますね。少々お待ちください」
電話を受け、相手の会社名と名前を確認し、担当者に取り次ぐ。
担当者が不在なら、用件を聞いてメモを残す。
急ぎの連絡なら、社内チャットでも知らせる。
最初の頃は、電話が鳴るたびに肩をびくつかせていたのが嘘のようだった。
社内の事務処理も一通りこなせるようになり、伝票や請求書の確認も任されるようになった。
ある日には、経理担当者が処理した伝票の数字の不一致を見つけた。
「すみません。この請求書の金額と、入力されている金額が違っているようです」
「えっ? あ、本当だ。助かった。よく気がついたね」
「念のため、もう一度確認したほうがよいと思いました」
エルさんは特別なことをしたつもりはなかった。
ただ、教わったとおりに確認し、疑問があれば担当者に尋ねただけだ。
しかし、そうした小さな積み重ねが、周囲からの信頼につながっていた。
いつしか、エルさんは単なる新人ではなく、部署の一員として確実に戦力に数えられるようになっていた。
そして、師走。
年末の締め作業や請求処理、来年の準備などで、社内は慌ただしくなっていた。
そんな中、定時退社が推奨されている水曜日に、部署内の忘年会が開かれることになった。
* * *
1.こぢんまりとした忘年会
会場は会社から歩いて数分の居酒屋だった。
部署内の古参社員が多く、参加者も十数人ほど。大人数で騒ぐような会ではない。
エルさんは、加藤さんに連れられて店に入った。
「エルさん、こっちこっち。今日は気楽にね」
「はい。よろしくお願いします」
席に着くと、すでに料理が並び始めていた。
乾杯のあと、しばらくは子供の話や健康の話で盛り上がった。
「うちの息子、もう大学三年なのよ。就職活動がどうとか言ってるけど、親の言うことなんか全然聞かないんだから」
「うちなんて、まだ高校生。学費のことを考えると頭が痛いわ」
「子供が大きくなるとお金がかかるよねえ」
「それより最近、膝が痛くて。階段を下りるときにね、昔みたいに駆け下りられないのよ」
「分かる分かる。私なんか、休日にちょっと掃除しただけで翌日まで疲れが残るんだから」
「若い頃は徹夜しても平気だったのにねえ」
「今は徹夜どころか、夜更かししただけで次の日が使い物にならないわよ」
エルさんは、うなずきながら話を聞いていた。
異世界のギルドでも、年長の職員たちが家族や健康の話をしていた。
どうやら、どこの世界でも年齢を重ねると話題は似てくるらしい。
不思議なことに、仕事の話はほとんど出なかった。
普段は仕事の相談や確認をしている人たちが、今日はすっかり家庭人の顔になっている。
そのとき、部長がビールのグラスを置いて話し始めた。
「そういえば、二十年前の忘年会はすごかったんだよ」
「部長、また昔話ですか?」
古参社員の一人が笑った。
「いやいや、聞いてくれよ。あの頃は会社もまだこぢんまりしていてね。会社全体で五十人くらいだったかな。忘年会は一泊で、みんなで温泉旅館に泊まりに行ったんだ」
「一泊ですか?」
中堅どころの三十歳前後の社員が驚いた。
「そう。昼間は仕事して、夕方から宴会。二次会、三次会まで行って、翌日はみんな二日酔いで帰ってきた」
「ええーっ!」
「今じゃ考えられないですね」
「若かったからね。みんな飲む量もすごかったよ。部長も課長も関係なく、朝まで飲んでいたから」
「今だったらコンプライアンス研修の教材になりそうですね」
誰かがそう言うと、テーブルに笑いが起きた。
「時代なんですねえ」
中堅社員の一人がしみじみと言った。
「そういえば、情報システム部門は三年前から忘年会自体をやめちゃったんですよ」
「どうして?」
「出席者が集まらないらしいです。日程を調整しても、参加できる人が少なくて。結局、無理にやる必要もないという話になったみたいです」
「あら、そうなの」
古参社員のおばちゃんが、枝豆をつまみながら言った。
「でも、ここは忘年会ができるだけいいよね。ほとんど異動もないし、仕事もある程度予測できるし。人間関係もギスギスしてないから、こうやって集まれるんだよ」
「確かにそうですね」
「仕事の愚痴を言い出したらきりがないけど、みんな顔を合わせれば普通に話せるからね」
エルさんは、その言葉に少し感心した。
職場の人間関係は、仕事の能力だけでは測れない。
毎日顔を合わせる人たちが、無理なく一緒に働けることも大切なのだ。
* * *
2.忘年会は強制ですか?
中堅社員の一人が、ふと思い出したように話し始めた。
「そういえば、この前、同期の営業が言ってたんですけど」
「何?」
「営業部で、Z世代の新入社員を忘年会に誘ったらしいんですよ。そしたら、こう聞かれたんだって」
彼は少し声色を変えた。
「『それって強制ですか? 残業代は出ますか?』って」
「ええっ?」
「それで同期は、いや、有志の会だから任意だよ、って説明したらしいんですけどね」
「それで?」
「本人も負担に感じているようだったから、もう誘わないようにするって謝ったらしいです」
「うーん、時代だねぇ」
「まあ、仕事が終わった後まで会社の人と一緒にいたくない、という気持ちも分からなくはないですけどね」
「そうね。昔みたいに上司が全員参加しろって言う時代じゃないし」
「ただ、誘う側も気を使うようになりましたよね」
「忘年会に参加しないからって、仕事ができないわけじゃないしね」
みんながうなずいた。
エルさんは少し考えた。
「私のいたギルドでは、年末に食事会がありました。参加するかどうかは自由でしたが、普段話さない部署の方と話せる機会でもありました」
「へえ、エルさんのところもそうだったんだ」
「はい。ただ、ギルド長が参加すると、結局みんな参加することになるのですが」
「それは自由参加って言わないんじゃない?」
一同が笑った。
* * *
3.入社一週間で退職した社員
そのとき、社内の噂話をほぼ把握している女子社員が、少し声を潜めた。
「そういえば、あの話、知ってる?」
「どの話?」
「入社して一週間で退職代行を使って辞めた社員がいたでしょ」
「ああ、いたねえ」
「ボーナスと有給のことで会社ともめたんだよね。研修がタイパ悪いとか、自分の能力を認めてくれる会社にステップアップするとか言って辞めたんでしょ?」
「そうそう。本人はずいぶん自信があったみたいだけどね」
その社員のOJTを担当していた男性が、ビールを一口飲んでから、ぼそっとつぶやいた。
「お前に教えてる俺のタイパが、一番悪いんだけどって言いたかったよ」
一瞬の沈黙のあと、全員が笑った。
「それは言いたくなるわね」
「こっちは自分の仕事を止めて教えてるんだから」
「まあ、教える側も勉強になることはあるけどね」
「そうそう。でも、一週間で辞めるなら、せめて教わったことを一つくらい持って帰ってほしいよ」
女子社員は、さらに声を小さくした。
「それで、あの人どうなったか知ってる?」
「え、まだ何かあるの?」
「結局、次の就職先がなかなか決まらなかったらしいよ。しばらくコンビニでアルバイトしてたんだけど、一攫千金を狙って闇バイトに手を出して、捕まったらしい」
「うわっ、怖っ!」
「え、本当に?」
「詳しいことは聞いてないけど、口座を売ったうえに、受け子までやっていたらしいって」
「口座を売った? そんなことまで?」
* * *
4.たった数万円のつもりが
「それって、どういうことなんだろうね」
誰かが尋ねると、女子社員はスマートフォンを取り出した。
「最近、闇バイトの解説動画を見たんだけど、口座売買の危険性を話していたわ」
「口座を売るって、銀行の口座を人に渡すってこと?」
「そう。SNSなんかで『使っていない口座を買い取ります』とか、『口座を用意するだけで数万円』なんて誘いがあるらしいの」
「使っていない口座なら、別にいいんじゃないの?」
別の社員が言うと、女子社員は首を横に振った。
「それが駄目なのよ。通帳やキャッシュカードを売ったり、貸したり、ネットバンキングの情報を渡したりすること自体が犯罪になるの」
「えっ、使っていない口座でも?」
「そう。お金をもらっていなくても、他人に譲り渡すこと自体が問題になる場合があるんだって」
女子社員は、見た動画の内容を思い出すように話した。
「例えば、生活費が足りない人が、SNSで『使っていない口座を五万円で買い取ります』という募集を見つけたとするでしょ。本人は、もう使っていない口座だし、五万円もらえるならいいか、くらいに考える」
「五万円かあ……」
「でも、その口座が特殊詐欺の振込先に使われたらどうなる?」
「振り込め詐欺の被害者のお金が入ってくるわけか」
「そう。被害者が警察に相談すれば、口座の名義人にも捜査が及ぶ。自分は口座を渡しただけだと言っても、簡単には済まないのよ」
「それは怖いね」
「口座は利用停止や解約の対象になるし、ほかの金融機関の口座まで利用に制限がかかったり、今後、新しい口座を作るのが難しくなったりすることもあるんだって」
「銀行口座が作れなくなる?」
「給与の振込先も必要だし、家賃や公共料金の引き落としもあるでしょ。普通に生活するだけでも困ることになるわよ」
「たった五万円で?」
「そう。しかも、売った口座が犯罪に使われれば、警察から事情を聞かれる。場合によっては、犯罪収益移転防止法違反などで処罰される可能性もある。口座を渡しただけで、人生のあちこちに影響が出るのよ。口座が作れなかったら、就職も難しいかもね」
「五万円どころの話じゃないね」
女子社員は続けた。
「それに、口座を売った人の個人情報も相手に渡っているでしょ。住所や身分証明書の画像、電話番号なんかを知られてしまう。そこから、さらに別の仕事を紹介されることもあるらしいの」
「別の仕事?」
「最初は『荷物を受け取るだけ』『書類を届けるだけ』なんて言われる。でも、実際には詐欺の現金を受け取る役だったりする」
「それが受け子か」
「そう。受け子は、詐欺の被害者から現金やキャッシュカードを受け取る役。指示役や電話をかける役とは別に、現場に行く人間が必要だからね」
「でも、受け子なんて、すぐ捕まるんじゃないの?」
「捕まる可能性は高いわよ。防犯カメラもあるし、被害者が通報することもある。警察も捜査している。指示役は遠くから命令するだけで、現場に出るのは使い捨てにされる実行役なの」
「使い捨て……」
「そう。犯罪グループは応募者を仲間だなんて思っていない、都合が悪くなれば切り捨てるという話をしていたわ。約束した報酬だって、最初から払う気がないこともある」
「割に合わないどころじゃないね」
「そうなのよ。簡単に稼げると思って近づいたら、犯罪の片棒を担がされて、逮捕されて、仕事も住む場所も信用も失う。しかも、指示役は逃げてしまう」
OJT担当だった男性が、腕を組んだ。
「仕事を選ぶのは自由だけど、仕事の中身を確認しないで飛びつくのは危ないよな」
「そうそう。『高額報酬』『即日即金』『荷物を運ぶだけ』『受け取るだけ』なんて、うますぎる話には裏があると思わないと」
「それに、脅されて抜けられなくなることもあるんでしょ?」
「あるみたい。応募するときに家族や友人の情報まで渡してしまって、それを使って脅される。断ったら家族に危害を加えるぞ、なんて言われて逃げられなくなるケースもあるのよ」
「うわっ……」
今度は笑い声が起きなかった。
子供のいる社員が、真剣な顔で言った。
「うちの子にも話しておこう。高校生だから、まだ大丈夫なんて思っていられないね」
「大学生でも社会人でも関係ないよ。スマホで簡単に求人を探せる時代だからね」
「うちも、息子がアルバイトを探してるから気をつけないと」
「親が言っても聞かないかもしれないけど、具体的な話をしておくのは大事だよね」
エルさんは、みんなの表情を見ながら、静かにグラスを置いた。
* * *
5.エルさんの故郷の話
「エルさんのいたところでは、こういう犯罪はなかったの?」
女子社員が尋ねた。
「犯罪者はいましたよ。私の地元にも盗賊や詐欺師はいました。ただ、地元の顔役や自警団が目を光らせてくれていました」
「へえ、自警団があるんだ」
「はい。怪しい人物が村に入れば、すぐに誰かが気づきます。危ない場所には近づかない。知らない人からうまい話を持ちかけられても、まず疑う。基本は同じですね」
エルさんは、そこで少し言葉を切った。
そして、心の中でそっと付け加えた。
――もっとも、私の故郷では命の価値が大分軽いのですが。
「ただ、日本は衛生面がとてもいいですね。生活しやすくて、本当に助かっています」
「衛生面?」
「はい。特に水回りです。飲み水もきれいですし、街中にトイレもあります。どこへ行っても、だいたい安心して使えます」
その言葉を聞いて、海外旅行好きの社員が遠い目をした。
「トイレはね……」
「何かあったんですか?」
「海外に行くと、トイレ事情は本当に国によって違うのよ」
彼女は、遠い旅の記憶をたどるように話し始めた。
「まず、ぼっちゃん式っていうのがあるでしょ。便器の下のタンクに便を落とすタイプ」
「はい」
「それはまだいいのよ。個室の仕切りがほとんどなくて、床に穴がいくつか開いているだけのところもあったわ」
「穴が数個……?」
エルさんは、思わず聞き返した。
「そう。しかも、隣の人との距離が近いのよ。最初は、どこを使えばいいのか分からなくてね」
「それは……落ち着きませんね」
「それから、水洗トイレなのにトイレットペーパーを流しちゃいけないところもあった」
「水洗なのにですか?」
「そう。配管が細かったり、下水設備の関係で詰まるから、使った紙は横に置いてあるゴミ箱に捨てるの」
「……お尻を拭いた紙を?」
「そう。最初は抵抗があったけど、現地のルールだから仕方ないのよ」
「なるほど……」
エルさんは真剣な顔でうなずいた。
「日本のトイレが一番だよね」
別の社員が言った。
「最近は海外から来た旅行客が、日本のトイレに感動して、温水洗浄便座を買って帰る人もいるらしいよ」
「そうそう。便座が温かいだけでも驚く人がいるんだって」
「日本人は当たり前だと思っているけど、かなり恵まれているんだね」
「エルさん、温水洗浄便座は使ってる?」
「はい。最初は驚きましたが、今ではありがたく使っています」
「もう慣れたんだ」
「はい。ただ、操作ボタンが多い機種は、まだ少し緊張します」
「確かに、あれはボタンが多いよね」
「止めるボタンを探しているうちに、別の機能を押してしまうことがあります」
「分かる! 私も最初、どれを押せばいいのか分からなかったわ」
今度は、トイレの操作パネル談義が始まった。
「自動でふたが開くのも、最初はびっくりするよね」
「勝手に水が流れるタイプもあるし」
「音姫って、海外にもあるのかな?」
「さあ、どうだろうね」
「エルさんの故郷には?」
「ありませんでした。用を足すときに音を消す魔法も、私は知りません」
「そんな魔法があったら便利ねえ」
一同が笑った。
忘年会は、いつの間にか仕事の話から遠く離れ、トイレ談義で大いに盛り上がっていた。
* * *
6.明日も仕事がある
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。
「そろそろお開きにしましょうか」
部長が声をかけた。
「明日も仕事ですからね」
「そうそう。昔みたいに朝まで飲むわけにはいかないわ」
「二次会は?」
「私はパス。明日、膝が痛くなるから」
「私も帰る。家で子供が待ってるし」
それぞれが荷物をまとめ、会計を済ませた。
店の前で、エルさんは加藤さんに声をかけた。
「今日は楽しかったです。皆さんの話を聞いて、日本の会社のことがまた一つ分かった気がします」
「そう? 仕事の話はほとんどしなかったけどね」
「それがよかったです。普段とは違う皆さんの話が聞けました」
「まあ、たまにはこういうのもいいよね」
「はい」
同僚たちに挨拶をして、エルさんは一人で帰路についた。
* * *
7.冷たい風と、明日への気持ち
師走の夜道は冷たかった。
街灯の光が歩道に落ち、遠くを走る車の音が聞こえる。
ほろ酔いの頬に、冬の風が触れた。
冷たい。
けれど、不思議と心地よかった。
入社したばかりの頃、彼は電話を取ることさえ怖かった。パソコンの操作も分からず、キーボードの文字を一つずつ探していた。
それが今では、電話の応対もできる。伝票も処理できる。経理の不備を見つけて、担当者に確認することもできる。
もちろん、まだ知らないことは多い。
失敗することもあるし、覚えなければならないこともある。
それでも、周囲の人たちは彼を仲間として扱ってくれる。
忘年会では、仕事の話をしなくても笑い合えた。
子供の話、健康の話、昔の会社の話、闇バイトの怖い話、そしてトイレの話。
どれも、エルさんにとっては新鮮だった。
「日本は、本当に面白い国ですね」
彼は小さくつぶやいた。
異世界から来た自分を、こうして受け入れてくれた人たちがいる。
明日も仕事だ。
年末の忙しさは、まだ続く。
けれど、もう少し頑張れそうな気がした。
エルさんはコートの襟を立て、冷たい夜風の中を歩き出した。
――明日も、これからも、誠実に。
彼の足取りは、来たときより少しだけ軽くなっていた。




