PowerPoint魔術師の誤算 ~エルさん、見栄えと仕事の違いを知る~
エルさんが会社のパソコンに慣れ始めた頃、加藤さんから新しい仕事を頼まれた。
「エルさん、来週の部署内会議で使う資料を作ってもらえるかな」
「資料ですか?」
「うん。今回の業務改善について、現状と改善後の内容を説明するもの。PowerPointを使って、十枚くらいにまとめてほしいんだ」
「パワーポイント……。また新しい魔術書ですね」
「魔術書じゃないよ。プレゼンテーションソフト」
加藤さんは笑いながら、自分のパソコンでPowerPointを開いた。
「こんな感じで作ればいいよ」
画面には、白い背景に青い見出し、黒い本文。必要な箇所には図形や簡単なグラフが配置されている。派手さはないが、文字は読みやすく、説明したい内容がすっきり整理されていた。
「これが標準的な社内資料の例ね。参考にする資料は、この共有フォルダに入っているから。過去の資料を見て作ってみて」
加藤さんはフォルダの場所を教えると、別の仕事に戻っていった。
エルさんは、さっそく共有フォルダを開いた。
そこには、過去に作られたPowerPoint資料が大量に保存されていた。
ファイル名を眺めても、どれが今回の参考になるのか分からない。
「なるほど……。まずは資料の研究ですね」
エルさんは、いくつかのファイルを開いてみた。
白地に文字だけの資料。
表とグラフを中心にした資料。
写真を使った説明資料。
そして、背景に美しいグラデーションが入り、立体的な図形やイラストが配置された資料。
その中に、一つだけ目を引くものがあった。
表紙には大きなタイトル。背景は濃紺から青へのグラデーション。文字には影がつき、写真やイラストも美しく配置されている。ページをめくると、図形が動きながら現れ、グラフが滑らかに展開する。
「おお……!」
エルさんの目が輝いた。
「これは素晴らしいです。まるで王宮の式典で使われる魔法陣のようです!」
ほかの資料と比べても、ひときわ完成度が高く見える。
「これを参考にすれば、きっとよい資料が作れます」
エルさんは、迷わずそのファイルを閉じた。
この資料が、どのような目的で、誰に向けて作られたものなのか。
そこまでは確認しなかった。
彼の判断基準は、ただ一つ。
一番見栄えがよかったから。
その選択が、後に悲劇を招くことになる。
1.エルさん、デザインの沼に沈む
エルさんは、さっそくPowerPointを起動した。
まずは表紙。
会社のロゴを配置し、タイトルを大きく中央に置く。背景には青から紺色へ変化するグラデーション。タイトルの文字には影をつけ、下には細いラインを引いた。
「うん。いい感じです」
次は目次。
ただ文字を並べるだけでは芸がない。丸い図形を配置し、番号を入れ、各項目を矢印でつないだ。
さらに、現状説明のページには写真を入れ、改善後のページには比較図を作成。重要な数字は大きく表示し、吹き出しをつける。
「ここはフェードイン。こちらはスライドイン……」
気がつけば、アニメーションの設定だけで一時間が経過していた。
「ふむ。ページが切り替わるときも工夫が必要ですね」
画面が回転するように切り替わる演出を試す。
「おおっ!」
エルさんは感動した。
しかし、会議に出席する人たちは、画面が回転することを期待しているわけではない。
そんなことには、まだ気づいていなかった。
参考資料にあったデザインを取り入れ、さらに自分なりの工夫を加える。色を変え、図形を追加し、アイコンを探し、文字の位置を一ミリ単位で調整する。
「完成度を高めるには、細部へのこだわりが大切です」
その言葉を胸に、エルさんは作業を続けた。
そして、予定していた十枚の資料は、いつの間にか十八枚になっていた。
2.初めてのダメ出し
翌日、エルさんは加藤さんに完成した資料を見せた。
「できました!」
「おお、早いね。どれどれ……」
加藤さんは表紙を見た。
「おっ、きれいにできてるね」
エルさんの顔が明るくなる。
ところが、二枚目を見たところで加藤さんの手が止まった。
三枚目で眉間にしわが寄り、五枚目では資料をスクロールする手が止まった。
「エルさん」
「はい!」
「ちょっと作り込みすぎかな」
「えっ?」
「これ、部署内の会議で使う資料だよね?」
「はい。見やすく、分かりやすくなるように工夫しました」
「うん。それは分かるんだけど……」
加藤さんは一枚のスライドを指さした。
「このページ、説明する内容が六項目あって、写真が二枚、グラフが一つ、吹き出しが三つ。それにアニメーションまで入ってるよね」
「はい。情報を網羅しました」
「網羅しなくていいんだよ」
「……?」
「このページで、一番伝えたいことは何?」
エルさんは画面を見つめた。
「ええと……全部です」
「そこなんだよね」
加藤さんは苦笑した。
「見る人は、資料のデザインを鑑賞しに来るわけじゃない。今回の業務改善で何が変わるのか、それが分かればいいんだ」
「しかし、参考資料はこのようなデザインでした」
エルさんは、自分が参考にしたファイルを開いて見せた。
加藤さんは画面を見て、少し驚いた。
「ああ、この資料か」
「はい。フォルダの中で一番見栄えがよかったので、これを参考にしました」
加藤さんは、しばらく画面を眺めてから言った。
「なるほど。これは外部向けの説明会で使った資料だね。イベント用に、かなりデザインに力を入れて作ったものだよ」
「外部向け……ですか?」
「そう。今回のような部署内の会議とは用途が違うんだ。あのフォルダには、いろいろな目的で作った資料が入っているからね」
エルさんは、ようやく自分の失敗に気づいた。
「つまり……見栄えがよい資料を選べばよい、というわけではなかったのですね」
「そういうこと。参考にするなら、今回の目的に近い資料を選ぶ必要があるんだ」
「……見本選びから間違えていたのですね」
「まあ、最初だからね。今回は作り直してみよう。社内向けだから、もっとシンプルでいいよ」
エルさんにとって、これが社会人になって初めての本格的なダメ出しだった。
昨夜、何度も調整した影付きのタイトル。
苦労して配置した装飾用のアイコン。
時間をかけて設定したアニメーション。
それらが、今、静かに否定されている。
「私の魔法は……少々、派手すぎたようです」
「だから魔法じゃないって」
加藤さんは笑った。
3.装飾を捨てる勇気
エルさんは資料を作り直すことにした。
今度は、作業を始める前に、まず標準的な社内資料の例をもう一度確認した。
背景は白。見出しは濃い青。本文は黒。必要な箇所だけに図形やグラフが使われている。
「なるほど。これなら内容に集中できます」
エルさんは、まず全体の構成を考えた。
一枚目はタイトル。
二枚目は今回の目的。
三枚目は現在の問題点。
四枚目は改善内容。
五枚目は改善後の流れ。
六枚目は期待できる効果。
七枚目は今後の予定。
必要な情報を整理し、各ページに何を伝えるかを決めた。
そして、作成を始めた。
背景は白。見出しは濃い青。本文は黒。重要な数字だけをアクセントカラーで目立たせる。
図形も必要なものだけにした。
アニメーションは使わない。
「……少し寂しいですね」
以前の資料と比べると、ずいぶん地味に見える。
だが、エルさんは考え直した。
「これは鑑賞する絵画ではありません。説明するための道具です」
そう考えると、余計な装飾を削ることに抵抗がなくなった。
そして、もう一つ。
以前のように、一枚のスライドに情報を詰め込むことはしなかった。
最初の資料では、十八枚にまとめようとしていた情報を、今度は七枚に整理した。
「一枚に全部入れようとすると、文字が小さくなります。見る人も大変です」
必要ならページを分ける。
説明する人が口頭で補足すればよい内容は、スライドに書き込まない。
「一枚に一つの話題。これなら分かりやすいはずです」
エルさんは、以前の失敗を思い出しながら、資料を完成させた。
4.今度は合格!
翌日、加藤さんに修正版を見てもらった。
「できました。今度はシンプルにまとめています」
加藤さんは、最初から最後まで資料を確認した。
「うん。よくできてるね!」
「本当ですか?」
「うん。何を説明したいのか分かりやすいし、文字も読みやすい。改善前と改善後の違いも一目で分かる」
「ありがとうございます!」
エルさんの顔に、ようやく笑顔が戻った。
「最初の資料も、デザインは悪くなかったんだけどね。今回は社内向けの説明だから、このくらいがちょうどいい」
「用途によって、作り方を変えるのですね」
「そういうこと」
エルさんは深くうなずいた。
「なるほど。魔法も、使う場面を間違えると迷惑になるのですね」
「だから魔法じゃないって」
加藤さんは、もう一度笑った。
5.本当に大切なこと
資料の確認が終わると、加藤さんは少し真面目な顔になった。
「エルさん、もう一つ覚えておいてほしいことがある」
「はい」
「資料作成で一番大切なのは、期限内に仕上げることだよ」
「期限内に……ですか?」
「そう。どんなに見栄えが良くても、どんなに内容が充実していても、提出期限を過ぎたら失格になることがある」
エルさんは、真剣な表情で聞いている。
「今回の資料も、最初から作り込みすぎていたら、修正する時間がなくなっていたかもしれない。仕事では、完成度だけじゃなくて時間配分も大切なんだ」
加藤さんは、机の上に置かれた資料を指で軽くたたいた。
「最初から百点を目指さなくていい。まずは八割のできで、期限までに形にする。そこから必要なところを直せばいいんだ」
「八割……」
「もちろん、間違いがあっていいという意味じゃないよ。数字や事実、必要な情報はきちんと確認する。そのうえで、装飾や細かい調整に時間をかけすぎないこと」
「用途を考えて、時間を配分する……」
「そう。誰が、何のために使う資料なのか。それを考えて作るんだ」
エルさんは、魔術書ならぬPowerPointの画面を見つめた。
以前の自分は、きれいな資料を作ることが目的になっていた。
しかし、本当の目的は、資料を使う人に内容を理解してもらうことだったのだ。
「分かりました。次からは、まず八割の完成を目指します」
「うん。それでいいよ」
「そして、余った時間で装飾を……」
「いや、必要な場合だけね」
「……はい」
6.エルさんの新しい心得
その日の帰り、エルさんは自分のノートに新しい心得を書き加えた。
『PowerPoint資料作成の心得』
一、誰が何のために使う資料なのかを考える。
二、参考資料は見栄えだけで選ばず、用途が近いものを選ぶ。
三、一枚のスライドに情報を詰め込みすぎない。
四、見栄えよりも分かりやすさを優先する。
五、装飾やアニメーションは必要なときだけ使う。
六、まずは八割のできで期限内に仕上げる。
七、どんなに素晴らしい資料でも、期限超過は失格。
書き終えたエルさんは、満足そうにノートを閉じた。
「よし。これで次の資料作成は完璧です!」
その直後、加藤さんから声がかかった。
「エルさん、来月の会議資料もお願いできるかな」
「はい! 今度は八割の完成度で、期限内に仕上げます!」
「うん。頼んだよ」
エルさんは、さっそくPowerPointを起動した。
そして、画面に表示された新しいスライドを見て、ふと思った。
「……表紙くらいは、少し豪華にしてもいいですよね?」
彼のマウスは、そっとアニメーションの設定ボタンへ向かっていた。
――エルさんの戦いは、まだ終わらない。




