Word魔術書の暴走 ~エルさん、文字を操る魔法に翻弄される~
エルさんが入社してしばらく経った頃。
パソコンの基本操作も覚え、タイピングも少しずつ上達してきた。
最初はマウスを隣の机まで動かしてしまった彼も、今では画面上のカーソルを自在に操り、コピー&ペーストもショートカットキーでこなせるようになっていた。
数字入力もそこそこできる。
「エルさん、だいぶパソコンに慣れてきたね」
指導員の加藤が声をかけると、エルさんは嬉しそうに答えた。
「はい。最近は、パソコンというものが少し理解できてきました。最初は何をするにも不思議でしたが、仕組みが分かると面白いですね」
「それなら、今日はWordを覚えてもらおうかな」
「ワード……ですか?」
「そう。文章を作るソフト。社内通知とか案内文、議事録なんかを作るときに使うんだ」
加藤はデスクトップにある青いWのアイコンを指さした。
「これがWord。文章を入力して、文字の大きさを変えたり、色を付けたり、表や写真を入れたりできるんだ」
エルさんは画面をじっと見つめた。
「なるほど。文字を美しく整える魔法の書物ですね」
「まあ、そんなところかな……」
加藤は少し苦笑した。
そのときは、まだ知らなかった。
この青いWの魔術書が、エルさんにとって最大の試練になることを。
* * *
第一の試練 消えない空白ページ
「まずは簡単な社内案内文を作ってみようか」
加藤は見本となる文書を開いた。
タイトル、本文、箇条書き。ごく普通の社内通知だった。
「この見本を参考にして、新しい文書を作ってみて」
「承知しました」
エルさんは新規文書を開き、丁寧に文章を入力した。
タイトルを中央揃えにして、文字を少し大きくする。本文は左揃え。行間も整え、最後に日付と会社名を入れた。
「できました!」
「おお、早いね。じゃあ、印刷プレビューで確認してみよう」
エルさんが印刷プレビューを開く。
一ページ目には、きれいに整った案内文。
ところが、二ページ目にも何も書かれていない白紙が表示されていた。
「あれ?」
エルさんは首をかしげた。
「加藤さん、何も書いていないのに二ページ目ができています」
「ああ、たまにあるね。改行が余分に入っていたり、改ページが入っていたりするんだよ」
「改ページ……?」
加藤が説明しようとしたとき、エルさんはすでにキーボードを操作していた。
Backspace。
一回。
白紙ページは消えない。
もう一回。
今度は一ページ目の会社名が消えた。
「あっ!」
慌ててCtrl+Z。
会社名は戻ったが、白紙ページも復活した。
「……これは、なかなか手ごわいですね」
「まあ、Wordではよくあることだよ」
加藤は笑いながら、編集記号を表示する方法を教えた。
すると画面には、見慣れない矢印や記号が次々と現れた。
「おお! これは何でしょう?」
「改行とかスペースとか、普段は見えない編集の記号だよ」
「なるほど。目に見えない文字が隠れていたのですね!」
エルさんは感心した。
そして、画面いっぱいに表示された編集記号を見て、ぽつりと言った。
「この魔術書には、ずいぶん秘密が多いのですね……」
* * *
第二の試練 動き出す証拠写真
数日後。
加藤から、社内イベントの案内文を作成する仕事を頼まれた。
「この文章に、去年のイベント写真を入れておいてくれる? 写真はこのフォルダにあるから」
「承知しました」
エルさんは文章を入力し、指定された写真を挿入した。
ところが、写真を入れた瞬間、文章の配置が変わった。
写真の下にあった文章が次のページへ移動し、見出しまで押し出されてしまった。
「……あれ?」
写真を少し動かしてみる。
今度は文章が写真の横に回り込んだ。
さらにマウスで写真を移動すると、写真が思った場所に収まらない。
「加藤さん! 写真が勝手に動きます!」
「いや、勝手に動くというか、文字との配置関係が変わっているんだよ」
「私が命令していないのに、文章が逃げていきます!」
加藤は画面をのぞき込んだ。
「画像には文字列の折り返しっていう設定があってね。行内とか四角とか前面とか、配置の仕方を選べるんだ」
「行内……四角……前面……」
エルさんはメモ帳に書き留めた。
「つまり、写真にも居場所を決めてあげる必要があるのですね」
「まあ、そういうこと」
加藤が「前面」を選択し、写真を移動させると、今度は文章の上に写真が重なった。
「おお! 今度は文章が隠れました!」
「そうだね。前面にすると文字より手前に画像が来るからね」
「なるほど……写真が文章を支配するのですね」
加藤は笑いをこらえながら説明した。
「写真を好きな場所に置くなら便利だけど、文字と一緒に動かしたいなら別の設定がいいんだよ」
エルさんは真剣にうなずいた。
「Wordとは、なかなか気難しい魔術書なのですね」
* * *
第三の試練 突然変わる文字の大きさ
案内文の作成を続けていると、今度は別の問題が発生した。
見本から文章をコピーして貼り付けたところ、一部だけ文字が大きくなってしまったのだ。
「加藤さん、文字の大きさが勝手に変わりました!」
「コピー元の書式まで一緒に持ってきたんだね」
「書式……?」
「文字の大きさや色、フォント、太字なんかの設定だよ」
エルさんは画面を見つめた。
同じ文章なのに、ある部分は大きく、ある部分は小さい。さらに、フォントまで違っている。
「同じ言葉なのに、身分が違うように見えます……」
「ははは。貼り付けるときに、書式なしで貼り付ける方法もあるよ」
加藤は貼り付けオプションを説明した。
エルさんはさっそく試してみた。
今度は文字の大きさが統一された。
「おお! 成功しました!」
「慣れてくると便利だよ」
「つまり、文章だけを移動させる魔法と、装飾まで一緒に移動させる魔法があるのですね」
「まあ、そんな感じかな」
エルさんは再びメモ帳を取り出した。
今度は「書式の呪文」と書き込んでいる。
* * *
第四の試練 表がページをまたいで暴走する
最後に、加藤は少し難しい課題を出した。
「この社員向けの連絡先一覧を作ってみよう。部署、担当者、電話番号を表にしてね」
エルさんはWordの表機能を使い、三列の表を作成した。
部署名、担当者名、電話番号。
最初は順調だった。
ところが、社員の人数が増えると、表がページの下端に達した。
「加藤さん、表が途中で切れてしまいました」
「ページをまたぐときの設定もあるんだよ」
「表なのに、ページをまたぐのですか?」
「うん。行を次のページに送ったり、見出し行を繰り返したりできるんだ」
「見出し行を繰り返す……?」
「二ページ目にも部署、担当者、電話番号って見出しを表示できるんだよ」
「それは便利ですね!」
エルさんはさっそく設定を試した。
二ページ目の先頭にも見出しが表示された。
「おお! これは素晴らしい!」
ところが、今度は表の幅がページからはみ出してしまった。
「……あれ?」
列幅を調整すると、今度は担当者名が二行になった。
行の高さを調整すると、電話番号が隠れた。
「加藤さん……表というものは、こんなに難しいものなのでしょうか」
「いや、最初はみんな苦労するよ」
「異世界のギルドでは、帳簿は紙に線を引いて作っていました。こちらの世界では、線を引くことにも魔法が必要なのですね」
「いや、まあ、慣れれば大丈夫だから」
加藤は少し遠い目をした。
魔術書との付き合い方
その日の夕方。
エルさんが作成した案内文は、なんとか完成した。
多少の修正は必要だったが、文章も写真も表も、きちんと収まっている。
「お疲れさま。初めてにしては上出来だよ」
「ありがとうございます。Wordという魔術書は、奥が深いですね」
「そうだね。Excelとはまた違った難しさがあるんだよ」
「Excelは数字を扱う魔術書、Wordは文字を扱う魔術書……という理解でよろしいでしょうか」
「まあ、間違ってはいないかな」
エルさんは満足そうにうなずいた。
そして、帰宅後。
会社から貸与されたノートパソコンを開き、Wordの学習動画を探し始めた。
「今日の復習をしておきましょう。画像の配置、文字列の折り返し、改ページ……」
画面に向かって真剣に学習する姿は、まるで魔術師が古文書を読み解いているようだった。
ただし、彼はまだ知らない。
Wordには、さらに恐ろしい魔法が存在することを。
「目次の自動生成」「セクション区切り」「ヘッダーとフッター」「ページ番号の謎」……。
そして、いつか彼は気づくことになる。
Wordは文章を作るためのソフトではあるが、思いどおりに文章を配置するためのソフトとは限らない、ということに。
エルさんのWord修行は、まだ始まったばかりだった。




