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 二日おき六時に更新

 翌日。朝の七時に起きて学校に行く支度をする。

 遅めに起きて朝食を食べないでいると、叔父夫婦に酷く体調の心配をされるのが憂鬱といえば憂鬱だった。朝食を食べる習慣がないという訳ではないが、一日の最初に来るイベントに叔父夫婦との一方的な緊迫に満ちた会話があるということは、少しばかりだが安眠を妨げる。

 「学校では上手く行っているのか?」

 叔父が明快な声でそう口にする。大きな口から噛み砕かれた食べ物の類が覗いている。粗野ではあるが下品な印象を与えないのは、この独自の明るく元気そうな表情にあるのだろうと思う。

 「はい。お蔭様で」

 何がお蔭様なのか自分でも分からなかったが、さっさと食事を終わらせたかったぼくは特に考えずにそう答えた。

 「そうか。それは良かった」

 叔父はあらゆる種類の人物から簡単に高感度を引き出せてしまいそうな、素晴らしい笑みを浮かべて言った。その明快で力強い笑顔一つで、ぼくはすっかり叔父に篭絡されてしまう。この笑みは律子さんにも同じく備わっているものだ。

 「あわわわわっ」

 と、慌しい声が聞こえると思ったら、背後の階段からそそっかしく階段を下りる律子さんが現れた。

 「やばいのっ。お母さん今日朝ごはん食べてる時間ない」

 言って、律子さんはぼくの皿の上に乗っていた食パンを掻っ攫う。

 「今日も寝坊? まったく何やってるの?」

 叔母さんはとがめるような苦笑を浮かべ、叔父さんはどこか愉快がるように机で腕を組んでいた。ぼくは目の前から食事が消えたことでしばし呆然とした気持ちになった。

 「未明くん。おはよう」

 律子さんは人懐っこい笑みを浮かべる。

 「これ。もらってくから。気をつけて学校行ってね、死ぬなよ。じゃ」

 一息でそう言って、廊下を走り抜けていく。扉が開く音がして、叔母さんが呆れたように溜息を吐く。

 「まったくみっともない……きっとお父さんに似たのね」

 「俺か? まさか、そそっかしいのはおまえ似だよ」

 「そうかしら?」

 「美人なのが叔母さん似、元気が良いのと笑顔が素敵なのが叔父さん似ですね」

 ぼくは言った。二人は一瞬目を丸くして、それからお互い照れたような、満足したような表情で顔を見合わせる。それから話題はなんとなく叔父夫婦による律子さんの思い出話に移行していった。

 代わりの食パンが出てきたのは、律子さんが中学校に上がったあたりまで話が進んでのことだった。


 県立大松島中学校の始業時間は午前八時二十分。徒歩で通学するなら、八時ごろに出ておくのが良い。ちょうど三分前くらいには到着できる。

 自転車を手に入れられれば少しは楽になるのだろうが、あんなかさばるものはどうやったって引っ越しの荷物に加えられない。律子さんのものを借りるのも気が引けるし……ということで。ぼくはその日も左右に田んぼの姿を見ながら通学路を歩いていた。

 考えるのは霧崎のこと。律子さんが教えてくれた白い死神の噂だった。

 ……真っ白な怪物というのは、あの夜神代命が連れていたあいつで間違いないだろう。ただの布を被った大男という訳ではないはずだ。あれはそう、皮をはがれた人間のような、赤くくしゃくしゃの顔をしていた。

 『死ぬなよ。じゃ』

 律子さんはどうしてあんなことを言ってきたのだろう。ぼくは通学路を行きながら首をかしげた。単純に昨日あんな話をしたからだというだけではないような気がする。何かこう、人の知らないことを知っている者特有の……。

 「西条くん」

 と、校門の付近にまでたどり着いたところで、甘えたようなその声に振り返る。

 「おはよ」

 神代実がこちらに向かって微笑んで手を振っている。ぼくは気さくな風にに思われるよう意識して、笑顔を浮かべた。

 「おはよう。マコトさん」

 そう呼びかけると、実は少し面食らったように

 「え……今、マコトって」

 「よくなかったかな?」

 ぼくは照れ笑いをしてみせる。

 「ほら。お姉さんと苗字一緒だから、いっしょくたにならないように……って思ってね」

 実はしばし照れたようにその場で立ち尽くし、もじもじと足元を見詰めた。

 「そっかぁ。ううん。ぜんぜん良いの」

 欲しいものを与えられた子供のような無邪気な笑みで、実はぼくの傍に近付いてきて

 「じゃあさ。西条くんのこと、未明くんって呼んでいい?」

 おずおずと、上目遣いでそう言って来た。

 どうしてそうなるのだろう。ぼくは首を傾げたくなる。いったいどこにそんな必然性があるのか……。と、そこで昨日命に言われたことを思い出す。

 『気に入られちゃった、みたい。わたしの妹に』

 そうか。この子はぼくが気に入っているのか。……思いのほか、自分が上手くことを積み重ねられていることに安心する。そしてその積み重ねの一環として、ぼくは笑顔を浮かべてこう答えた。

 「もちろん、良いよ」

 実は花が咲くように笑う。その愛らしい笑みに、ぼくはともすれば情が移ってしまいそうな心地になった。

 それからぼくらは二人で並んで校舎に入る。実は気持ちぼくの方に近付き気味に歩き、ぼくの方もそれを拒まなかった。可愛い女の子を連れるのはありていに言って気分が良いし、それにこうしておくことは今後のためでもあるのだから。

 教室の前にたどり着きかけたあたりで、実は立ち止まってぼくの方を見詰めると、これまたおずおずといった様子でこう切り出した。

 「ねぇ未明くん……。少し、お願いしたいことがあるんだけど」

 お願い……と聞いて、ぼくは神代命からお願いされたことを思い出した。彼女が連れている真っ白い怪物について、誰に対しても口を閉ざせということだった。ぼくは今のところ、それを破ったことがない。

 「なんだい?」

 「今日の放課後、部室に来て欲しいの」

 実は照れたように笑った。

 「ちょっと手伝って欲しいことが、あるから」

 「かまわないよ」

 ぼくは即答する。なるだけ会話をすべらかにしておいた方が、この場合ぼくのほうからのお願いもとおりやすいだろうから。

 「代わりにといったらなんだけど、ぼくの方からも頼みたいことがあるんだ」

 「なぁに? 未明くん」

 「君の家に遊びにいかせてくれないか?」

 と、ぼくがそこまで言ったところで、実は言葉を失ったみたいにその場で立ち尽くした。

 急ぎすぎたかな、せめて何か口実を作っておくべきだったか。肩を竦めてしまいそうになったところで、蚊の鳴くような声がぼくの耳朶を打つ。

 「……良いよ」

 ぼくは実に耳を近付ける。

 「良いよ。未明くん、放課後家に来て」

 そう言った実は少し赤い顔をしていたようで、ぼくはなんだか、拍子抜けしたような心地にもなった。

 こんなところで必要以上に上手く言っても、対して意味などないのだが。


 すぐに朝のホームルームの時間になった。

 くたびれた様子の担任が教壇に立ち、覇気のない声で連絡事項を述べている。生徒たちはその間もざわめきをやめることはない。公立の学校ならではかなと、ぼくはそんなことを思った。

 ふと考えてぼくは窓際後方の例の席に視線をやる。今日も命は学校に来ていない。ぼくは少しばかり残念なような、退屈なような気持ちになった。そこであることに気付く。

 朝のホームルームの時間中、神代命の机を注視していたのは、何もぼく一人ではないということだ。少し観察してみると、教室中の誰もがちらちらと神代の机を見やり安心したような表情を浮かべ、教室の出入り口を見詰めては不安げな顔を浮かべている。

 なんとなく理解する。

 この教室の誰もが、神代命の登校を望んでいないのだと……。誰もが命が登校してくることを恐れ、命の不在を確かめては安堵している。年齢を同じくする少女に対するその扱いに、ぼくは教室における神代命の存在感を再確認する。そしてその存在感の根底にあるのがなんなのか、改めて興味を引かれることとなった。

 「それから最後に。とても大事なお話があります」

 と、教壇からよれよれの声が聞こえてくる。そんなものにかまうものなど誰もいなかったし、ぼくの方もさほど強い注意を払ってはいなかった。

 「昨日の放課後から、霧崎次郎くんが行方不明になっています」 

 教室中の視線が教壇の方へと向けられた。

 「放課後。霧崎くんは学校から帰宅することなく、今朝まで親御さんにあっていないそうなんです。どこに連絡を入れるわけでもなく、こうして学校に来ることもなく」

 そこでみなの視線が霧崎の机に向けられる。霧崎の例の軽薄なにやにや笑いはなかった。誰もが神代命の存在に夢中になっていて、彼にまで注意を向ける余裕がなかったようだ。

 「なんか怖くね?」

 教室の誰かが口火を切る。すると、教室は途端に騒がしくなった。

 「最近物騒だよね」

 「殺されたりして」

 「まさか」

 「霧崎って確か生物部だろ?」

 「前も生物部の子だったよね、行方不明になったの」

 ぼくはそうした、異様などよめきに静かに耳を済ませていた。この中学校を、ひいてはこの田舎町を取り巻く数々の不穏な噂と憶測。それらの実態を少しでも掴もうとして、必死で彼らの顔色を探っていた。

 「どうやら田浦村の方で、霧崎くんのエアーガンが発見されたようです」

 ざわめきを止める元気もなさそうに、担任教師が声を大きくする。「田浦って。神代のいる町じゃね?」誰かがささやくようにそう言った。

 「放課後以降。霧崎くんを見かけたという人がいたら、どんなに些細なことでも良いので私に言って来てください。以上です」

 そう言って担任教師は静かに教室を飛び出していく。教室はすぐにざわめきに満たされる。

 ぼくは静かに席を立った。そうせこんな話し合いに加わったって、殊更重要な情報が手に入ったりはしないだろう。次の授業は情報処理だ。パソコン室に移動しなければならない。早めにパソコン室に入っておいて、インターネットで少しばかり事件について調べてみるつもりでいた。何もでないかもしれないけれど、しかしパソコンを使える機会は限られているから、利用しない手はないだろう。クラスメイトから話を聞くのは、正直いつだってできる訳だし……。

 そう思い、テキストを持って教室を出たあたりで、どこかひんやりとした独自の存在感を全身で感じ取った。思わず立ち止まり、その場でゆっくりと隣を振り返る。すると、ぼくは頭から水を吹っ掛けられたような気分になった。

 教室に面した壁に背をつけ、どこかぼんやりとうつろな表情で立ち尽くす少女……神代命がそこにいた。

 「どうして……」

 ぼくは面食らってそうとしか言えなかった。神代命はそれでぼくの存在に気付いたように、ゆっくりと顔をあげる。

 それからすっと体を伸ばしたかと思ったら、ちらりと教室の方を見てから、反対方向に歩き始めた。ぼくはあわててそちらに追いついて、震える声で話しかける。

 「待ってよ」

 神代命はひたりと立ち止まって、そのびっくりするほど白い顔をこちらに向けた。

 「何?」

 「ええと……」

 言いたいことは山ほどあった。ぼくはごちゃつく頭をどうにか整理して、そのそっけない視線に応答を探す。 

 「どうしてあんなところで立ってたの? 来てるんだったら、教室に入れば……」

 「どうかな?」

 命は頬を僅かに歪めて見せて

 「わたしが入っても、みんなを怖がらせるだけかもしれないよ」

 「……それって?」

 「そのまんまの意味」

 言って、命は僅かに背伸びをしてぼくの背後に視線を滑らせた。

 振り返ると、そこにはテキストを抱えた生徒たちが、どこか異様なものを見るような目でこちらのほうを注視していた。畏怖するようなその視線は、全て神代命に向けられている。命がそれらに気付いたことを目にとると、視線の大半はおびえたように向きを変え、逃げるようにして立ち去っていった。

 「ね?」

 命はどこか退屈そうに言った。

 「どうして……」

 分からなかった。どうしてこの少女はここまで教室中に注目され、畏怖され、排除されているのだろう。それは単なる敵意ではないし、厄介者に向ける迷惑そうな視線でもなかった。これまで所属してきたどんな集団でも見られない類の、極めて深い部分から来る大きな隔絶の思いが、彼女に対するクラスメイトの態度から感じ取ることができた。

 「西条くんも」

 命はそっけない声で忠告する。

 「西条くんも……あまりわたしに関わらないほうが良いんじゃない? 学校生活、上手くやりたいんでしょ?」

 「そんなことは……」

 「そうじゃないの?」

 神代命は目を大きくして、軽く首を傾げる。

 「うん……これは本当に。学校のみんなにどう思われるかよりも、ぼくは君に興味があるんだ……。その」

 「ふうん。西条くん、変わった人なんだね」

 命はそこで愉快そうに頬を捻じ曲げて、双子の妹がぼくに向けたのとは、まったく異なる視線で下側からすっと覗き込む。

 「だけれどね……西条くん。これは君が思ってるよりも、ずっとずっとおかしなことなんだよ」

 「おかしなこと……」

 「そう。おかしなこと」

 命は静かな表情のまま

 「こんなに荒唐無稽なことなのに、誰一人として気づいていない。クラスのみんなも、大人たちも、本当のことは何もしらない……。振り返ろうとしないのね。自分たちがしたこと、していることについて」

 「それってどういう……」

 「西条くんなら、いつか気付いちゃうかもしれないね」

 命は言った。

 「楽しみにしてるから。それじゃあ」 

 それから命はひたひたと、幽霊みたいに足音のない歩き方でその場を立ち去った。追おうかと思ったけれど、その小さな背中からはこれ以上ぼくに関わろうという気配がまったく感じられなくて。話しかけても、意にも介さず歩き続けていそうだったので、ぼくは結局、チャイム

の音が鳴り響くまでその場に立ち尽くしていた。


 その日一日中、ぼくは神代命について考えさせられることとなった。

 以前からずっと気になっていた存在だったが、今日ほど強く意識したことはない。あのそっけない表情と、強烈ながらどこか曖昧な存在感。神出鬼没に現れる彼女に、ぼくは強い興味を惹かれている。と同時に、彼女について知ることが、ひいてはこの町を包み込む瘴気のようなものを解明するようにも思われた。

 「未明くん、ねぇ。未明くん」

 ぼくが漠然と考え込んでいると、隣で甲高い声が聞こえてた。

 「聞こえてる? ねぇ」

 「ああ。聞こえているよ」

 ぼくはそっけなく言ってしまって、次にそれを取り消すために笑顔を浮かべた。実は安心したような顔をする。

 彼女に頼まれた放課後の手伝いというのは、生物室の備品のいくつかを別の教室に移動させることだった。なんでも彼女の所属する生物部は、その必要な部品のだいたいを別の教室から借り出しているものらしい。

 生物実験室に残されたのは、いくつかの水槽と奇妙な壷らしき物体の他には剥製くらいのもので、その他の顕微鏡だのなんだのかさばるものは全てぼくらの両腕に負わされた。

 「他に部員はいないの?」

 腕が千切れそうな大荷物を抱えながら、ぼくは実に尋ねた。

 「一応いるんだけど……手伝ってくれそうな人がいなくて。去年はまだ良かったんだけど」

 実は困ったような笑みを浮かべた。

 「でも助かったよ。西条くん、意外と力持ちなんだね?」

 「これでも鍛えてたからね」

 ぼくは答えた。そう、鍛えたのだ。

 秩序のない場所で意思と安全を守り切るには、様々なものが必要だった。一対一で相手をぶちのめすだけの腕力と、ぶちのめした相手の心を確実に刈り取る残酷な暴力。それらを行使する為の、透明で何も感じない心。

 それから二人で苦労して全ての備品を運び終えて。ぼくはタイミングを見計らい、実に向けて目配せをする。実はどこか緊張した風にはにかんでから言った。

 「あたしの家。案内しよっか」

 ぼくがそれにうなずいて見せる。実は嬉しそうにはにかんだ。

 彼女の家に出入りできるようになるなら、それに越したことはなかった。何故なら、それは神代命の家でもあるからだ。


 大松島市田浦村に存在する神代家は、屋敷と形容したくなるほどの大家だった。

 周囲に点在する一軒家よりゆうに二倍ほどは背が高く、比べ物にならないほどの面積を持っている。どこか味気ない黒塗りの壁に無骨な屋根。鎮座した巨大な岩のような印象があった。

 「何階建て?」

 ぼくがなんとなく尋ねると、実は表情を変えずに「三階」と答えた。

 砂利の敷かれた庭を歩き、鯉の泳ぐ池を眺めながら、ぼくは少々ばかり萎縮していた。こんな良い家のお嬢さんを、実質的にたぶらかすような形でここにいることが、恐ろしく感じられる。同時に、上手くここまでやってきたという充実感が胸に染みていた。

 得体の知れない人物と相対する時の基本は、外堀を埋めてしまうことだと知っていた。教師なり家族なり親友なりに近付いて、その影響力を利用するのだ。

 この妹を利用してできる働きかけは知れているけれど、それでもこうして家に出入りできるだけでも収穫だろう。ぼくはもう一度頭の中に地図を描き、この屋敷までのルートをいくつか改めた。

 「ここ。あたしの部屋」

 三階の奥。きらびやかに装飾された『マコト』というステッカーの貼ってある部屋を指差して、実は言った。ぼくはふと、その隣の部屋を見る。その扉には『ミコト』というステッカーが、剥がすのも面倒だとばかりにそっけなく貼り付けられていた。

 「こっちがお姉ちゃんの部屋ね」

 ぼくの露骨な視線に気付いてか、実はそう説明してくれる。ぼくは笑顔で「そうなんだ」と答えてから、名残惜しい気持ちで視線を逸らした。

 そして実の部屋に通される。ファンタジーな装飾の散りばめられた、どことなく居心地の悪い空間だった。あちこちにかわいらしい小物が置かれていて、物が多い代わりに良く整頓されている印象がある。この几帳面さを部室にも少しは向けてやって欲しかった。

 その全体的にファンシーな部屋の中で、ひときわ目を惹くのが棚置きの水槽だ。九十センチの奴と百二十センチの奴、それから手のひらに乗りそうなのが一つずつ。綺麗に管理されたそれらの中には、少女の部屋にあるのが似つかわしく思えないほどグロテスクな魚が泳いでいた。

 「どう。すごいでしょう?」

 と、実は自慢げに胸を張った。

 「アクアリウムが趣味なの。未明くんは、こういうの好き?」

 百二十センチの水槽の中に泳いでいたのは、毒々しい黄色を放つずんぐりとした、見るからに肉食魚という風情の目の大きな魚だった。隣にそんざいに置かれた鉢の中には、生き餌としての金魚がひしめくように漂っている。

 その脇の九十センチの水槽には砂が敷かれていて、それに紛れるようにしてなんとエイが泳いでいた。あまりに擬態が巧みなので、何もいないのかと思ってしまったほどだ。淡水エイというのを聞いたことがあったが、まさか実際に目にかかるとは思わなかった。

 「こっちの小さい魚は知ってるね。というか妹が飼ってたことがあるよ。……ええと。確かグッピーっていうのかな?」

 手のひらに乗りそうな小さな水槽の中に、不思議な形をした色とりどりの魚が飛び交っている。イルミネーションのようだとぼくは感じた。

 「そうだよ。まぁ、一時流行ってたしね……。こっちのでっかい魚は分かる?」

 「ええと……タライロン?」

 昔読んだ雑誌に乗っていたことを思いつつ、ぼくは口にした。

 「へぇ。未明くん、結構物知りだね」

 「それほどでも」

 言って、ぼくはそののっぺりとした三白眼の魚をじっと見詰めた。まじまじと覗き込んでいると、睨むようにしてじろりと視線を向けられる。うかつに指を突っ込もうものなら、容易く食いちぎられそうだった。

 「魚って、良いと思わない?」

 水の中でぐねぐねと身をよじる大型魚をうっとりと長めながら、実は同意を求めるように言った。

 「陸上では絶対にありえないような独自な格好が好きなの」

 「へぇえ」

 実の嗜好に共感した訳ではなかったが、ぼくは感銘を受けたような相槌をもらす。実は照れたようにはにかんでぼくの顔を見詰めた。あわてて笑みを貼り付ける。

 「でもへんてこな輪郭って言ったら」

 ぼくはそこでふと思いついて言う。

 「魚もそうだけど、虫だってそうじゃないかな? チョウとかムカデとか」

 「そういうのは。お姉ちゃんの専門だから」

 実は少しだけ冷たい表情をして言った。

 「お姉さんって、命さんのことだよね」

 「うん。……あの人はだいぶん、変わってるから」

 だいぶん……というところに、実の姉への隔絶の思いが込められているような気がした。実の趣味だって割かし変わっているような気がしたけれども。それよりぼくは彼女の言ったことが気になった。

 「命さん。虫が好きなんだ」

 「そう。ちっちゃい頃から」

 実はほんの少しだけおもしろくなさそうな顔をする。自分の前で命の話をするなと、自分の前で命に興味を持つなとそう言いたげだ。ぼくはそこは鈍感を装って、平然と無邪気に尋ねる。

 「どんな虫が好きなの? 気持ち悪い奴?」

 「ううんとね。気持ち悪い……って言ったら虫に失礼なんだけど。だけれどちょっと変わってるのかな。ミミズとかクモとかムカデとか……」

 女の子の趣味ではないな。ぼくは考える。

 「今も飼ってるの?」

 「それは良く分からない。というかお姉ちゃん、道端でそういうのと遊んでるだけで、自分で飼うとかはあんましないし。たまにそういうの、体に引っ付けたままにしているの。もう、気持ち悪くて」

 「体に引っ付ける? 虫を?」

 「信じられないんだよ」

 実は嫌悪感を顕にして言った。

 「あの人には近寄らない方が良いと思うよ……誰も幸せにしないし、何されるか分からないから」

 その時だった。

 何ものかが階段をのぼってくるような音がした。実はおびえた猫のように全身を逆立てて顔をゆがめる。その様子がなんだかおもしろくてつい唇が緩んでしまったが、同時にいぶかしいものを感じもした。

 「どうしたの?」

 ぼくが尋ねると、実は信じられないという様子で眉を顰めた。

 「嘘……」

 それから壁際に体を寄せて、耳を澄ませる。扉が開く音がしたかと思うと、のけぞるようにして壁から離れた。

 「お姉ちゃん? どうして……?」

実はそこで体を振るわせ始めた。ぼくがいることなどお構いなしに、様子を探るようにして壁に頭を貼り付ける。あまりに尋常じゃないその様子に、ぼくは思わず尋ねた。

 「どうしたの?」

 「おかしいの」

 実は言った。

 「今日も帰ってこないはずなのに……」

 帰ってこない? ぼくは目を丸くする。

 「今のって……となりの部屋にお姉さんが帰ってきた音だよね?」

 「そう。それがおかしいの」

 実は歯軋りでもしそうに

 「このところずっとお寺の方にいたはずなのに……なんで今更」

 「お寺?」

 首をかしげる。実はぼくの方を向いて、取り繕うように微笑む。

 「そうなの。お姉ちゃん、寺に住んでるおばあちゃんの面倒見てるから、そっちの方に良く泊まってるの。今日も帰ってこないはずだったのに……」

 寺というのは例の神代寺のことだろうか。ジンダイジ、あるいはカミシロデラ。そこに彼女らの祖母が住んでいて、命はその介護の為にしばしば寺に入り浸っている……ということか。印象としては孝行者の孫である。しかし実の様子からすると、それはある種の厄介払いというか、家から追い出される形でそうなっているような感じでもある。……とぼくは推測した。

 「未明くん。ごめんね」

 実は言った。

 「妙なとこ見せちゃって……。ごめんね、うちの家、お姉ちゃんのことでちょっと変なの」

 「大丈夫だよ」

 変わったことの一つや二つ、どの家庭でも抱え込んでいるものだ。ぼくくらいの人間の家族でさえそうなのだから、神代命ほどの異質がまっとうな家庭生活を送っているとはとうてい思いがたい。

 そうであってはならない。むしろ、この程度であることがぼくには驚きだった。

 「ちょっと。トイレを借りても良いかな?」

 そう言ってぼくは実の部屋を立ち上がった。

 「え?」

 実は目を丸くしてこちらを見詰める。ぼくは照れくさそうな表情を浮かべてみせてから、恥ずかしがるようにこう言った。

 「じつは結構、我慢してて」

 顔を赤らめてそう言って見せると、実は両手をぶんぶんとふるって

 「ううん。全然。ごめんねまじまじ見たりして。えっと、トイレの場所は分かる?」

 こんな広い家の中だ、分かる訳がない。

 「うん大丈夫だよ。案内は必要ないから」

 「そう。……気をつけてね」

 実は眉を伏せながら

 「もし途中でお姉ちゃんに会ったりしても、絶対に話をしちゃだめ。手を触れるのもダメ、何が起こるかわからないから。逃げるか、無視して。分かった?」

 実には珍しいほど強調した言い方だった。ぼくは明確に「うん」と答えてから、実の部屋を飛び出し、忍び足で隣の部屋まで向かう。『ミコト』というステッカーの貼られたその部屋の扉を、音を立てないようにそっと開け放つ。

 神代命と目が合った。

 壁によりかかる命の白い肌と薄く盛り上がった乳房が見える。その隙間に何やら黒いものがうごめいているのが見えて、ぼくは思わずまじまじと見詰めた。命はぼくの視線に気付くなり、顔を顰めてからタオルケットを手に取った。

 「なんで……」

 ベッドからずり落ちそうになっていたタオルケットを肌に引っ掛けて、命は顔を赤くして、睨むようにしてぼくの方を見る。タオルケットの下側から覗く足は白すぎて青い。手にとって見れば恐ろしくひんやりしているだろうと思われた。

 「なんであなたがここにいるのよ……」

 うろたえた声でそういう命に、ぼくはほんの少しだけ新鮮なものを感じた。ぼくが彼女に驚かされることはあっても、その逆となったのはこれがはじめてではないか……。この超然とした少女の顔をしかめさせてやれたことを、ぼくは漠然とした高揚を覚えた。

 「君に会うためさ」

 ぼくは言った。

 「たまたま顔を合わせても禄に話もできなかったから。こっちから君に会いに行こうと思った。この二日ばかり色々と動いていてね。……ようやく家を突き止めたのさ」

 「どうやって入ってきたの?」

 「妹さんに入れてもらった」

 「……如才ないことね」

 命はそこで、呆れたように首を振るった。

 「急に入ってきて悪かったね。妹さんにはトイレに行くって言ってでてきているから、ちょっとあせってたんだ。ノックをする暇もなくてね」

 「釈明ありがとう。でも、別にかまわないわ」

 命はタオルケットを体に引っ掛けなおす。

 「どうしてあんなふうに壁によりかかってたの?」

 「わたしが自分の部屋で何をしていようと勝手でしょう? わたしが自分の胸の谷間に蜘蛛の巣を作らせて遊んでるって知ったら、あなたも流石に退くでしょうけど」

 「本当かい?」

 「冗談よ」

 と、命は表情を変えずに言った。

 そこでぼくは命の部屋の様子を確認する。殺風景で物が少なく、全体的に灰色っぽい印象があった。壁際に置かれたタンスから引っ張り出したみたいに衣類が散らばっていて、床には埃が降り積もっている。もう何日も掃除していないのだろう。どことなく荒廃した印象を受けた。

 「どうしてわたしに付きまとうのかしら?」

 命は溜息でも吐きそうにぼくに尋ねた。

 「それは分からない。」

 ぼくは真摯に答える。

 「最初は単純な興味だったよ。ぼくを殺そうとしたあの白い化け物は、それを従えていた君は、いったい何者なんだろうって。気になってしょうがなかった。その君が同じ学校に来てるって知った時は、本当の興奮したものさ」

 命はほんの少し、いぶかしげにぼくの表情を覗き込んできたかと思うと、それからすぐに首を振るってこう言った。

 「それで。後先考えずこんなところまで踏み込んできたと?」

 ぼくはうなずく。

 「君にいくつか聞きたいことがあった」

 「それは何?」

 「あの化け物は何者なんだい?」

 命は予想していたように、少しだけ肩を動かしてからこう言った。

 「人間の罪」

 「……え?」

 「特にそうするべき理由もなしに、何かを傷付けてしまったことはない? そして、そのことに何の迷いも後悔も抱かず、気がつけば忘れてしまっているような……。そういう酷薄と傲慢が生み出した怪物が、あの子なの」

 それはあまりにも突拍子もないことで、ふつうなら意味も分からず混乱するだけだったと思う。

 しかしぼくには、命の言うことがなんとなく理解できた。思い出すのは、前の学校で味わった、あの壮絶な虐げだった。あれは本当に意味も理由もない不毛な暴力で、あまりにも酷薄に行われたそれは、ぼくの魂を確実に蝕んで、そして。

 「人間はね。ただそこでなんとなく生きているだけで、何かを猛烈に、壊すほど傷付けることができるのよ。そしてそのことを気にかけることはない。だからあの子みたいなのが生まれるのね、虐げられた弱者のルサンチマン」

 住宅地跡で猫をいじめる霧崎の姿を思い浮かべる。ただ楽しそうに、何の理由も哲学もなく、へらへらと笑いながら猫をいじめ殺していた霧崎のことを思い出す。あいつは報いを受けたのだろうか、報いを受けていなくなったのだろうか。

 「だからわたしは、あの子に『レイゲン』って名付けたわ」

 命は言った。

 「それは、どういう意味?」

 「再度の憎悪、って意味。古いノンフィクションから採ったんだけどね」

 命はかすかに笑う。

 「それはとても強く、とても気高い。でもなんの意味もないの。意味はないけどしょうがないの。あの子たちは憎しみを癒すために戦って、そしてゴミけらみたいに叩きのめされる運命にある。そうならないために、わたしはあの子たちの傍にいるのよ。誰かがそうしてあげなければ、どうしようもなく不公平だから」

 言って、命は静かに立ち上がる。

 タオルケットを纏ったまま、ぼくの方をちらとのぞき見たかと思うと、眉を顰めてこう言った。

 「出てって」

 ぼくは肩をすくめる。それから背を向けて扉に手をかけてから、ふと命の方を向き直ってこう言った。

 「ぼくは君に惚れているのかもしれない」

 神代命は絶句する。

 何も言えずに、神代命はその場でうつむいた。どう反応して良いのか、どんな感情を抱いて良いのか分からないといった様子だった。『どうして?』とでも言いたげにこちらをうかがうその様子からは、普段の超然とした雰囲気が抜け落ちているような気がした。ぼくは薄く微笑んで命の部屋を出る。

 すぐ隣の実の部屋をノックする。実は笑顔でぼくを迎えてから、何の疑いも抱いていないようにぼくに座布団を差し出した。

 「ありがとう」

 そこに腰掛けてから、ぼくは実のたわいない言葉に相槌を打っていく。

 ぼくは考える。

 どうしてあんなことを言ったのか、いつの間にそんな感情が芽生えていたのか。


 それから二十分ほど実と世間話をし、ある程度満足させたのを見て取ってから、用事を思い出したことにして外へ出た。

 思い出した用事というのは、例の神代寺を訪れることである。神代命を追ってこんなところまで来てしまったのだし、躊躇する理由などはじめからない。時間を無駄に使うつもりは初めからなかった。

 神代命の言っていたことを思い出す。酷く観念的で、ともすればはぐらかされているようにも聞こえる台詞だった。実際、彼女はぼくに何の情報を与えるつもりもなかったのだろう。しかしそれでも、彼女の心の断片を聞き取れたような心地がしていた。

 彼女は何を思ってあんなことを言ったのだろう。

 分からない。唐突に部屋に押し入って来た不埒な男に対しての動揺を、神代命はほとんど表に出さなかった。ぼくならそれをやりかねないと納得していた風にさえ窺える。そうやってどんなことでも冷笑的に受け入れるあたりは、なるほど彼女らしいとは言えたが……。

 神代寺は山の中に作られていて、麓からお墓に囲まれた坂を登った先に本堂があり、付近には賽銭箱も置かれていた。その周辺は平らにくりぬかれていて、地面には白い砂利が敷かれている。丁寧に管理されている風ではないが、ゴミが落ちているという訳でもない。単純に人が来ないのだろうと思った。

 付近にあった別の建物の付近には傘立ても置かれていて、きっちりと何本かの傘が刺さっていた。玄関にはチャイムもある。麓には車が一台とめられていたし、中で管理人か誰かが住んでいるのだろう。だとしたら神代命の祖母だ。小さいとは言え、こんな神社を一人で切り盛りできているのだろうかと不安になる。介護が必要だという話から、あまり元気な人ではないようだし……。

 一応ここにも尋ねておくべきかどうか一瞬、迷ったが、その必要はないだろうと思われた。祖母を懐柔してまでがんじがらめに包囲することはない。ただでさえぼくのしていることは悪質なストーキング行為なのだ。いくら相手が神代命でも、やりすぎは禁物というものである。

 妹の実を通じていくらでも彼女の家に出入りできるようになったことだし、これからは本人を直接相手に交渉して行くべきである。そう結論付けて、ぼくは自分自身の出した答えに驚きを感じた。

 これじゃ何が目的か分からない。

 神代命本人を相手に交渉をする……などと、ぼくはいったい何を交渉するつもりなのだろう。あの怪物についての情報を引き出すこと? この町を取り巻くいくつかの都市伝説の実態を掴むことか? もしもぼくの目的がそれなのだとすれば、神代命という台風の目は、きっちりと抑えておく必要がある。彼女を取り巻く環境にしっかりと食い込み、逃げ場をなくし、影響力と支配力を手に入れる必要があるはずなのだ。なのに、ぼくは神代命の祖母に働きかけることを望まない。そうまでして命を追い詰めることを躊躇している。

 『ぼくは君に惚れているのかもしれない』

 神代命に言ったことが思い出される。

 全てはそれに集約されるのか? ならば、ぼくはこう考えているのだろうか? ここにいるはずの祖母に会いに行かないのは、そうまですることで神代命に警戒心を抱かせることを恐れているから。これ以上深く付きまといすぎることによって、神代命に邪険にされたり、怖がられることを望んでいないから。

 なんと手ぬるい。

 なるほど甘い考え方だ。ぼくは自嘲する。ようするにぼくは、神代命に嫌われたくないのだ。

 ここまでくれば徹底的にやるべきだ。ぼくは結論付ける。例え彼女にどう思われようとも、とことん彼女を追い詰めるのだ。神代命の全てを知ること、自らの好奇心を満たすことこそが、ぼくが今一番したいと思っていることに違いはないのだから。

 吟味を終えて、ぼくは山の麓に戻ってから自宅に走る。叔父夫婦への挨拶もそこそこに、律子さんの部屋をノックした。

 「自転車を貸してくれませんか?」

 ぼくがそういうと、律子さんは両手をぴらぴらと振って「良いよ~」と快諾してくれた。ぼくは感謝を満面の笑みに載せて会釈し、外へ出て自転車にまたがる。

 スタンスをしっかりさせていれば行動は見えてくるものだ。律子さんの馬力ある自転車をこいで、駅五つ分離れた繁華街へと繰り出す。この田舎では汽車を待つよりこうした方が時間が短縮できる。

 携帯電話のナビケート機能を利用しつつ、二十分ほどで目的地へとたどり着く。平日にしてもあまりにも冷え切ったデパートへと足を踏み入れて、地下の食品コーナーで一万円分の菓子折を購入する。命の祖母がどういう嗜好の持ち主かは判別しなかったが、とりあえずはこれで良いだろう。気に食わないようならまた別のものを買ってやれば良い。何事においても、金と労を出し惜しむことは成功を遠ざけることに繋がる。

 それを籠に載せ、ぼくは全力で自転車を漕ぐ。あまり遅くなってしまうのは本位ではない。全力で自転車をこいだためか、五駅分の距離を十分で走りぬくことができた。

 再び神代寺の前にたどり着き、自転車をとめる。坂道を登り、後々の覚えを良くするため、空っぽの賽銭箱に五千円と五百円と五十円と五円を放り込んだ。五のつくお金を全部、御縁がありますようにと思いを込めて。それから汗を拭い、身を整え、一分ほどかけて笑顔を作る練習を行う。好少年を思わせる微笑を顔に貼り付けてから、ぼくは建物の玄関口の前に立ち、チャイムを鳴らした。

 しばらくすると、玄関の前にゆらりと気配が現れる。

 「ごめんください。突然の来訪まことに申し訳ありません。ぼくは西条未明、未明は夜明け前の未明。神代命さんのおばあさまはおられますでしょうか? じつはお孫さんのことで用があって参りました」

 柔らかい声でそこまで名乗る。さてどう出るだろうか、身構えていると、からからと音を立てて玄関の戸が引かれる。鍵はかかっていなかったらしい。

 そこから現れたのははたして、神代命ご本人だった。

 「呆れた人ね」

 命は一言それだけ言うと、ぼくの手に握られた菓子折に視線を落とした。

 「おばあちゃんはほとんど寝たきりで、めったに起き上がれないわ。……ボケてるしね」

 それからそっと菓子折を受け取って、ほんの少し嬉しそうな表情をうかがわせると、ぼくの方を向き直ってこう尋ねた。

 「お孫さんのことでお話があるって……いったいどんな話でおばあちゃんに取り入るつもりだったの?」 

 「考えてない」

 ぼくは答えた。 

 「その場しのぎでなんとかなるだろう? それからちょっとばかりお寺の用事を手伝ってやって、話し相手になって、それで……」

 「あなたなら如才なくやってのけるでしょうね。そこまでやるのは、どうして?」

 そう言って命は何かを試すように冷笑的な表情でぼくを見上げた。小さな体に端正な顔立ち、人間離れした存在感。そうした要素が彼女をまるで人形のようにぼくに見せている。何をしても、どう声をかけても、およそ体温のある反応は返ってこない無機質な人形に。

 「君に惚れているからだ」

 ぼくは断言してみせた。命はしばし考え込むように眉を寄せ、それから体温のなさそうな真っ白い手をぼくに向かって差し出してきた。一度触れれば死に至ると言われる、必殺の猛毒を秘めるという、その白い毒手を。

 「正直ね。よくわかんないの」

 命は言う。

 「どうしてあなたがそこまで躍起になるのか。……わたしのことを不審におもう人は腐るほどいるし、そのことでわたしに興味を持つ人も、たくさんいた。でもあなたほど短期間で、ここまで熱心にわたしに執着した人は始めてよ。……だから」

 嘲弄的な、しかしどこかしら期待に満ち溢れたみたいな表情で、命はぼくを見上げてくる。見るたびに改めて認識するほどの美しいその瞳が、その時ばかりは格別に黒く輝いて見えた。吸い込まれそうになめらかな、透き通ったその目。

 「わたしはここで決断するわ。あなたを排除するか、傍に置くか。それをここで」

 驚くほど澄んだ声でそう言って、静かに差し出した手を開く。長袖から覗くその白い手は、どこかしら妖艶にぼくを誘っているようだ。ぼくは思わず息をのむ。

 「握ってみて」

 命は言う。

 「ここならいくらでも始末が効くわ。仮にあなたが毒で死んだら、この山のどこかに埋めてあげる。あなたに毒が効かなかったら、何もかも全部教えてあげる。やってみて」

 爛漫と輝くその瞳に、ぼくは興奮を隠せなかった。心臓が高鳴り、額から汗が零れ落ちる。たまらなくなって、ぼくは彼女の真っ白な小さな手をしっかりと握りこんだ。

 それはやはり、どこかひんやりとして、人間らしからぬ感触だった。

 「へぇ」

 しばしの沈黙の後、命は興味深そうにそう言った。

 そして愉快そうに笑う。

 「たいしたものね、未明くん。あなたに毒は効かないみたい」

 そういうと、命は玄関を出て戸を閉める。それからちょいちょいと手招きをして、不適な表情でぼくを山の奥へとさそう。 

 「付いてきて。全部、話すから」

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