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二日おき六時に更新
六月を迎えたある日曜日。叔父さんたちの家の窓辺から覗く田んぼは、輝きを増す太陽を反射して黄金色にきらめいていた。
その日の律子さんはリビングのソファに腰掛けて、憂いのない顔で気持ちよさそうに日差しを楽しんでいた。ぼくは作っておいたアイスコーヒーを律子さんの前の机にそっと置く。律子さんは薄く目を開けて、嬉しそうにはにかんで「ありがとう」と口にした。
「未明くんの容れたコーヒーって、なんだか毒が入ってそうで怖いわね」
そんな冗談を口にするものだから、ぼくは微笑んで肩をすくめて見せる。そして自身の無実を示すかのように、自分の為に用意しておいたものと律子さんのコーヒーを入れ替えた。
「冗談だっての。仮に未明くんに毒物の心得があったとしても、どうしてあたしを殺す必要があるのよ」
「分かりませんよ。律子さんへ募らせた適わない淡い思いがいつしか憎さに代わり、手に入らないならいっそ殺してしまおうと試みたのかも」
「あはは。ないない」
律子さんは言いながらコーヒーに口を付ける。
「そういう痴情のもつれみたいなことは、未明くんには無縁だよ。あたしにも、他の女の子にもね。未明くんは女の子にそこまで強く執着しないもん」
「どうでしょう。同意しかねますね」
ぼくはそう言って曖昧に笑んだ。ぼくだって年頃の少年だ、魅力的な女性に人並みには関心を覚えもする。
「しかし。律子さんたちの家にはコーヒーメーカーがあるんですね。ぼくが前まで通っていた寮にはそんな気の効いたものは置いてませんでしたよ。だから、ずっとインスタントで」
「律子さんたちの家……なんていわなくて良いのよ。ここはもうあんたの家で、あたしたちの家族なんだから」
と、律子さんはとても嬉しいことを言った。
けれど、ぼくは思う。赤の他人と、そう簡単に家族になれる訳がない。なるべきではないと強く感じる。そう軽々に『家族』なんて立場を、律子さんは許してしまってはいけないのだ。
「いいえ。ここは律子さんたち家族の家ですよ。ぼくはあくまでもお客さん。せっかく素敵なご家族なのに、ぼくみたいなふつつかなのを数えちゃもったいないでしょう」
「ふつつかなのは知ってるよ。あんたみたいな心の捻くれたガキは他に知らないしね」
ガキって……一つしか違わないじゃないか。そう感じたのが律子さんにも伝わったのか、
「あんたはガキよ。素直じゃない上に危なっかしい、とんでもなく手のかかる子供ね」
そう言って不適に微笑む。
「だけど可愛いガキよ。お父さんもお母さんもあんたのことをすごく気に入ってる。何やらかすか分からないところを含めて、面倒みようって言ってるのよ。未明くん、中学を卒業してからの進路はどうするつもりなの?」
唐突に何を訊くのだろうか。思いつつ、ぼくは曖昧に
「高校には進学したいですね」
と答えた。
「……漠然と、政治家とか記者とかリポーターとか、世の中の色々なことに自分の体で切り込んでいくような仕事に着きたいと思っています。だから、とりあえずは勉強して、大学まで行こうかなと……」
「ぽろっと『政治家』とか出てくるのは流石ね。中学生の癖に。未明くんならそうじ大臣くらいにはなれるかもしれないよ」
何が『中学生の癖に』『流石』なのかは分からなかったが、ぼくは曖昧に微笑んでおいた。
「立派な夢だけど。お姉さんはそういうのを聞いてるんじゃないの。もっと目先の……こっちの高校に進学するのか、叔母さんの実家の方に戻るのか、或いは寮に入るのか……そういうことを訊いているのよ」
「律子さんと同じ高校に行きたいですね」
間髪いれずに言うと、律子さんは首を振って
「そういうの良いから。あたしの高校の偏差値いくつかあんた知ってるの?」
「えっと……、確かごじゅう……」
「何で知ってるっ。言わんで良い言わんで良い……。とにかく、あんたがそんなとこ通う訳ないってことくらい、あたしだって知ってるわよ」
律子さんは憮然とした顔で
「とにかくあたしが聞きたいのはね。中学を卒業してもここに残る気があるのかどうかってことね……。まだこっちに来て間もないし、決めるには気の早い話だとは思うんだけどさ」
それなりに真剣な話のようだったので、ぼくは気持ち真面目な表情を作るように勤める。それからしばし神妙に悩んでみせる振りをして、ざっくばらんにこう言った。
「この付近にしかるべき高校が見付かって、律子さんやご家族に迷惑にならないのなら、是非ともこちらから通いたいと思っています」
律子さんは少しだけ難しそうな顔をする。ぼくは構わず
「大松島はとても風土の良いところですが、こちらには療養の為に来させていただいているつもりで。そう長く厄介にはならないと思っていました。しかし、律子さんたちが歓迎してくださるなら、こんなに嬉しいことはありません」
そう、嬉しいのだ。
高校では寮に入ることになるだろうと思っていた。都会の実家には帰れないし、律子さんの家に長く厄介になれるとも思っていなかった。それをこの素敵な家族に長く歓迎してもらえるのなら、ぼくにとっては救われる話なのだった。猿山のような寮生活なんて、前の中学でもうこりごりだと思っていたし……。
「……狼少年」
律子さんは難しい顔でそう言った。
「はい?」
「……普段から調子良いことばっかり言ってるとね、本当に嬉しがってるのか分からないわ、未明くん」
そう言われ、さもありなんと肩を竦めたくなるのを我慢して……ぼくはなるべく純朴に見えるようにはにかんで見せた。
「これは本当です」
すると、律子さんは安心したように表情を崩して
「なら良かったわ」
嬉しそうに言った。
「でも。この近くに未明くんにあった高校なんてそうそうあるかしら」
「そうですね……光央学園高校なんてどうでしょうか? 寮もあるけど、ここからでも十分通えます」
「光央って……この辺じゃ有名な私立新学校ね。田舎だけど」
「そのくらいがぼくには分相応ってものですね」
あの競争地獄みたいなのはもうごめんだった。授業内容は少し物足りないくらいがちょうど良い。じっくりと青春の時間を楽しめるくらいの方が、人間性の幅も広がるというものだ。
「光央が分相応か……。なぁんか住む世界が違うわね。未明くん、優秀だとは聞いていたけれど、本当神童って感じじゃない?」
「お受験ママでね。十歳にならない頃から、百個の数字を一分で覚えさせられたりしてましたから、勉強だけはある程度できるんですよ」
不遜なようだが、ぼくは自分自身の学習能力の優秀さには自覚的なつもりだ。小さな頃から勉強ばかりさせられたのだから、正当な自信であるといえる。憧れの律子さんの手前、少しばかり大きく出ても良いだろう。
「ぼくはね、全国でも屈指の名門校と言われた海星学園においても、十指に入る逸材だったんです。今でこそドロップアウトしてしまいましたけどね」
そう。ドロップアウト。
自分で言って苦笑する。ぼくは肩をすくめてから続ける。
「こういう言葉がございます。十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人……ってね。子供時代からずっと優秀でいられ続ける人間は、いったいどれほどいるのでしょうか」
母に期待されるままに漠然と勉強をし、同世代の中でも指折りの成績を示し続けてきた。優秀な人間であり続ける努力はそこそこ楽しかったけれど、今となってはどうでも良いことだ。
あれはゲームだったのだ。純粋な点数の合計値で優劣を競い合う、ストイックで泥臭い競争地獄。それをおもしろいゲームとして楽しめるものもいれば、窒息して瘴気のような感情をもてあますものもいる。
真っ黒な瘴気は学園中に蔓延する。それは実態となってぼくを取り巻き、稚拙な暴力となって発露した。そしてある時、ぼくは完全に学園中の瘴気を支配したのだ。
「ところで律子さん。今日は休日ですよね。」
既に失ったものを自慢しても見苦しいだけだ。それに気付いてぼくは話題を切り替える。
「ええ……そうね。だからこうしてサボっている訳だけど」
「昔、親戚の集りなんかで二人で遊んだとき、よく遊んだ空き地があったはずです。寂れた廃墟ビルで、よく中に潜り込んで追いかけっこをした……。そこがまだ取り壊されていないことに気付いたんですよね。そこへ……」
言いかけたときに、窓ガラスの割れる壮絶な音が響き渡った。
開いた窓から唐突に降り立ったのは、長身痩躯の若い男であった。あまりにも非常識な登場に、ぼくと律子さんは途端に度肝を抜かれる。しなやかな体をリビングルームに着地させたその男は、悪の科学者のような不適な笑みを口元に浮かべて律子さんに駆け寄り、絶叫するようにこう言った。
「おはよう律子くんっ。今日は君に用があっていても立ってもいられず、インタホンを鳴らす手間ももどかしくこのように参上させていただいた。この非礼をどうか許して欲しいっ!」
「……あんた……久遠……」
律子さんはあいた口がふさがらないといった様子で男を指差す。
「ちょちょっと……あんた何やってくれてんのよ。今おもいっきりガラスの割れる音がしたんですけど」
「安心したまえ律子くん。これは前もって演出の為に録音しておいたものだ。いつか役に立つだろうと思って蓄音機に入れて持ち歩いていたのだが、せっかく窓を外して登場するのだからと思って使わせていただいた。いやはや、得がたい快感、素晴らしい経験だった言えよう」
律子さんを名前で呼ぶこの男……何ものだろうと思いながら律子さんを見る。律子さんはその長身の男に視線を釘付けにされ、ぼくの視線にも気付かないようだった。
「ところで、こちらのピンポン玉のような目をした少年はいったいどちらかな?」
男は相変わらずの不適な笑みを貼り付けたままで、こちらに視線を投げてきた。これほどまでに何を考えているのか分からない顔を、これまでに目にしたことがあっただろうか。
長身痩躯に鳥の巣アタマ、古い小説に出てくる探偵のような演技がかった喋り方のその男は、よく見ればぼくや律子さんと同世代くらいに見えた。口元に笑みを浮かべたその表情はどんな年齢にも該当しない計り知れなさがあったが、その目元に浮かんでいるまっすぐな熱はまさしく少年のそれである。ぼくは内心その男に気おされながらどうにかこう答えた。
「律子さんのボーイフレンドです」
「アホか」
律子さんが背後からぼくの頭を叩く。
「間違えました。親類で居候の西条未明と申します。ところで、むしろ許されそうなくらいに堂々と不法侵入されて来たようですが、律子さんの知り合いの方でしょうか?」
「知り合いとなっ。うむ、まさしくっ」
男は長い両腕を組んで大きくうなずくと
「律子くんとは実に旧知の仲であるといえる。竹馬の友といっても過言ではないっ」
「……ようするにただの幼馴染ね。最近見ないと思ってたけど」
言って、律子さんは溜息をついて
「こいつは月ヶ谷久遠。隣の家に住んでる、どういう訳かあたしの幼馴染よ」
「……はぁ。そうですか」
月ヶ谷……確かこの近くにそんな地名があったなと思い出す。確かあの、温泉と鯉のぼりでそこそこ有名な。
「基本的には良い奴だけど、根本的に変人だからね。……あんまり近付かないようにしたほうが無難かな」
その忠告は無駄にならないだろう。ぼくはぎらぎらと激しく両眼を輝かせる月ヶ谷を見ながら悟る。女性を訪ねて窓を外し乗り越えてやってくるような人物とは、まかり間違っても仲良くしたくない。同じ押し入るにしても、こんな風に強引なのはぼくの美学が許さなかった。
「そういうでない律子くんっ。何故なら、私がこのたび持ってきた話は、おそらくそこの少年にとっても有益なものになるであろうからな。他ならぬ私がそう思うのだから、これは世界の真理と等しく確かなことである」
意味不明なことを叫ぶ月ヶ谷。ぼくは肩をすくめることも忘れて「どういうことですか?」と尋ねた。
「少年は西条未明といったな。律子くんの家の居候で、こうも捻くれた目をした少年だというのは今知ったばかりではあるが。元海星学生で、大松島中学の転校生で、神代実と交際している」
交際、という言葉が出て、律子さんはこちらを意外なものを見るような目でぱちくり見詰めた。
「彼女には悪いかもしれませんが、あれはそんな素敵なものじゃないですよ」
「分かっている。つまり君の目的は、例の噂の神代命に少しでも近付く為だったのだろう? 未だに彼女の家に出入りしているのも、生物部に籍をおいているのも、そういうことだと私は推測している」
どんぴしゃだよ。ぼくは思った。いったいどこからそんな推測が飛んで来るのだろう。
「私はかつて、そこの律子くんと同じく大松島中学の生徒会に籍を置いていてね。その時から神代実とは交友があるのだが、彼女からは君の話を耳がタコになるまで聞かされている。いやはやいくら調理してもし足りないくらいだ」
根本から引きちぎってやろうか。
「その話を聞く中で、私は感づいたのだ。実くんに接近しているその西条という少年こそが、私と目的を同じにする盟友であるとっ!」
「同じ目的……ねぇ」
ぼくはしばし腕を組み、すぐにピンと来て月ヶ谷に言った。
「それはつまり、この町の都市伝説について調べること、ですか」
「如何にもそうであるっ」
月ヶ谷は右手の中指と人差し指で親指を挟み、こちらに向かって強烈に突きつけてきた。
なんだそのポーズ。
格好つけてるつもりか。
「確かにぼくは一連の都市伝説について興味があって調べています。あなたがその先駆者であるというのであれば、是非ともお話を伺いたいところです」
先駆者、というのは相手に華をもたせるために口にした言葉だ。それに気付いているのかいないのか、月ヶ谷は「うむっ」と上機嫌に鼻を鳴らして
「このたびは私の偉大な研究成果を他でもない律子くんに見せようと思って、このようにぶしつけな登場をさせていただいた次第であるっ」
言いながら、月ヶ谷はどこからともなく一枚の巨大な用紙を取り出すと、ぼくと律子さんの目の前に広げた。
それは大松島氏全体をカバーした地図だった。地図全体には丸や三角のマークがあちこちに散らばり、数字が割り振られている。一見すると雑多に見えるが、つくりは丁寧で秩序的だった。
「これは……」
「この大松島内での『白い死神』の目撃地点、および行方不明者の住所を記載した地図である。同時に、ここ最近で起こった斧による殴殺事件の被害現場にもアイコンが置かれているぞっ」
コンピューターで作成したものらしい。ぼくと律子さんは静かにその地図に見入る。散らばったアイコンはそれぞれいくつもの線で繋がっている。それらの線の中心地点には、一際大きな星のアイコンが設置されていた。
「よく調べましたね、こんなの」
ぼくは感心していた。律子さんは月ヶ谷の表情を伺うように、その長身に視線を投げる。月ヶ谷は腕を組んだまま「うむっ」とうなずいて
「警察でもこれだけ詳細なデータは、まだ作っていないだろうな。最近の事件であることだし、『白い死神』の目撃証言、『神隠し』といわれる行方不明者、そして犯人不明の二件の斧による殴殺事件……これらを関連付けて考えるのは、都市伝説レベルでなければ不可能だ。……しかし実際にこれらの事件を関連付けてこのような図を作成してみると、これらの事件はある一点を中心にして巻き起こっていることが明確になる」
「それはなんですか?」
ぼくは可能な限り呆けを装ってそう口にする。
「この図のとおりだ……三つの事件がそれぞれ起きた箇所を明らかにし、それらの平均座標を割り出すと……非常に興味深い場所が該当する」
いって、月ヶ谷は地図の中央……幾重もの線が重なった大きな星マークに指を突きつける。
「ここは……」
律子さんが目を大きくして地図に見入っていた。ぼくは月ヶ谷には分からないようにそっぽを向き、肩をすくめる。
「全ての事件の中心にあるもの……それは神代寺だ」
ほら来た。
「神代寺を擁する山の中にこそ、事件の中心はある。行方不明者、目撃事件、斧による殴殺の被害者……それらのサンプルが数多くあったからこそ、ここまで明確に中心点が割り出せたという訳だ」
「とても興味深いですね」
ぼくは微笑んで
「ですが、単に中心を割り出しただけでは、偶然ということもありえるでしょう。ここにヤクサの事務所でもあるのならともかく、こんな辺鄙な寺がある山が出たところで何の……」
「神代命」
律子さんがその名前をつぶやいた。
げっ。と、ぼくは内心でぞっとしたものを感じる。
「……うむ。この場所は、あの毒手を有する少女にとって、関わり深いところだ。彼女が何か知っているかもしれないと考えるのは、酷く自然な推測ではなかろうか」
「そうですね」
ぼくは神妙な顔に見えるように勤めて
「しかし一連の都市伝説の類に彼女が関わっているというのは、大松島中学ではこれまで散々いわれてきたことです。しかし彼女本人はこのことについてなんら言及していない。そもそも彼女が都市伝説に関わっているというのも、彼女の持つ雰囲気がそうさせるだけの、根拠のない噂でしかなかったはずです」
「そうだ。ただの根拠のない妄想だ。私もこれまでそう思っていた。だからこそ」
月ヶ谷は目の前の地図を指差していう。
「これにて一つ、根拠らしきものが明らかになった……と言えるのではないか」
そもそも神代命という少女が大松島中学で、ああした立場に置かれているのは彼女が二年生の頃に起こしたある事件が原因だった。
それは通称で『握手ちゃん事件』とも被害者の名前を取って『萩原事件』とも、単に事件の中心にあった『彼女』の名前を取って『神代命の怪』とも呼ばれている。いわゆる『学校七不思議』みたいなものの一つにも数えられるそれの正体を、ぼくは他でもない神代命から聞いていた。
その日二年生に進学した少女の一人に、萩原という少女がいたようだ。彼女は少々ばかり変わったところのある女の子で、新しいクラスメイト一人一人に握手を求めて回っていたらしい。命の推測するところによると、その行為はそうすることで友好を明確にしなければ不安でならないというような、一種の不信感のようなものから来る行動だったようだが。ぐるぐると入れ替わる表情は愛らしく、奇行こそ多かったが、おおむね誰からも好かれているようだった。
毎日何人かずつ萩原はクラスメイトと握手を交わして、一番最後に命の順番が回ってきた。しかし神代命は、萩原のこの握手を拒んだ。
それは萩原にとって酷く悲しく、また信じられないものであったようだ。萩原の握手周りをなんとなく傍観していた生徒たちもこれには驚いて、教室中の視線が命に集中する。そこで命が忠告したのが、以下のような台詞であったという。
「やめといたほうが良いよ。あなた、死んじゃうから」
意味が分からない。萩原は命のこの発言の意味を問うた。すると命は端的にこう答える。
「今日のわたしの手にはね、毒があるの」
萩原は尚更意味が分からなくなった。毒なんかない、綺麗な手だよ……萩原が命の手を握った時に口にしたその言葉を、命はおもしろがるようにぼくの前で反復して見せたものだ。
その手に触れた瞬間、萩原は握手をした体制のままその場に倒れ付したという。舌を突き出し、両目を二倍の大きさにして、陸にあげられた魚のようにばたばたともだえ苦しんだ挙句、クラスメイトたちの見守る中で哀れに息絶えた。
「あーあ。って思ったよ。でもまぁ、今にして思えばあれで良かったのかもしれないな。あれがあったお陰で誰もわたしに近付かなくなったし、それ以上誰も殺さなくて済んだから」
神代命はそっけなくそう言って話を締めくくった。今となっても萩原の死亡の原因は分からぬまま、ただ神代命の手を触れたものは死ぬという噂だけが広まって、三年生になった今まで神代命は畏怖される存在であり続けている。
「肝心なことが聞けていないじゃないか」
ぼくはその時の命とのやり取りの中で、そんな風に不満を呈した。
「肝心なこと?」
「君の持つ毒手とやらの正体だよ。君のその白い手に触れたものは、のた打ち回って死ぬものと信じられている。そしてそれはある面では本当のことでもあるらしい。ぼくが知りたいのは、君の手に触れたものがどういった原理で死に至るのかということさ」
「こんな超常的な現象に、原理なんてものがあるのかしら」
命はにやにやと笑いながらぼくに言った。
「超常現象ね……。そんな言葉にぶち当たるのは、思考停止した時だけさ。気になること、不思議なことは自分の力で徹底的に究明するのがぼくの主義でね。だから君にだって誤魔化されるつもりはないよ」
「そういうと思った。分かった。教えてあげる」
言って、命は自分の右手をぼくに向かって差し出した。
「出てきなさい、マルク。あなたにお友達を紹介してあげる」
命の小さな白い腕を這い、服の中から飛び出したのは、体長二十センチほどの紐のように黒く細長い、一匹のムカデの姿だった。
月ヶ谷とは連絡先を交換しておき、律子さんと一緒に家に置いて来た。久々にあった幼馴染ということで、色々と積もる話もあるだろう。
律子さんに彼のような存在があったことを、ぼくは今まで知らなかった。古い友達、幼馴染。
少しばかり釈然としない気持ちにもなったし、親しげに話す二人を気に食わなく思わないでもなかった。だが今はそんなことも言ってはいられない。ぼくは神代命の元に向かいながら、実の家に電話をかけた。
「もしもし、神代ですけど……」
実の声がした。これは予想ができていたことだ。
「もしもし実さん。今、そっちに命さんっているかな?」
「えっ……?」
姉の名前を出されて、実がやや不愉快そうな声になるのが分かった。
「お姉ちゃんは……今はいないけど。どうしたの?」
どうしてその名前が出てくるのか、とさえ言いたげだった。ぼくはなるだけ釈明する調子にならないように、あっけらかんと
「いないなら良いんだ。先生からちょっと、命さんをどうにか学校に来させるように頼まれていてね。でも、家にいないんならしょうがないな」
「……そうなの。未明くん、先生からの信頼厚いもんね。でもそういうのってふつう、妹のあたしにまず声がかかるんじゃないかな?」
いぶかしんでいる。ぼくはへらへらと
「君がお姉さんと上手くいっていないのを、先生だって知っているんじゃないかな? 或いは、実さんと仲の良いぼくにその仲介をしてもらいたかったのかもしれないね」
「いやだよ」
実は言った。
「お姉ちゃんと仲直りするなんて、絶対にいや」
……妹に随分と嫌われたものだ。ぼくはそう苦笑して
「そうだよね……。わざわざ電話に出てもらってごめんね。今度また家に遊びに行かせてもらっても良いかな?」
「もちろんだよ。なんなら、今からでも」
実の弾んだ声色。ぼくは肩をすくめて
「残念だけどこれから用事があってね。またの機会に」
そう言って電話を切った。
さて。命に電話が通じないとなると、おそらくおばあさんの世話をするために神代寺のほうにいると見て間違いない。もしかしたら山の中で一人で遊んでいるのかもしれないが、どちらにしてもだ。
「おまえを返しにいくのはもう少し後になりそうだぜ、マルク」
言って、ぼくは自分の服の中を這っている毒虫にそう声をかけた。毒虫をもぞもぞとうごめいてぼくの首元から顔を覗かせると、肩に乗っかって首をもたげる。
命から借りたその大ムカデは、体を大きく逸らせて巨大な顎を広げて見せた。威嚇するように細長い体をうねらせる。とっととしないと噛み殺すぞと言いたげで、ぼくは肝が冷えるような心地を味わった。
ジンダイジ、またはカミシロデラ。どちらの名称がより正確なのかについて、実質の管理者である命自身に尋ねてみたことがある。命は『ジンダイジ』という名前を聞いてはくびをかしげ、「なにそれ」といって目をぱちくりとさせた。
「わたしたち家族の苗字はカミシロなんだから、このお寺の名前もカミシロなんじゃない?」
……よくしらないけど。と命は締めくくった。命自身、ジンダイジなどという呼び方を想像しすらしなかったようだ。
寺の実質の管理者である命でさえそうなので、ぼくはそのお寺のことを『カミシロデラ』と呼ぶより他になかった。寺と神社の区別をかろうじて知識として知っている程度のぼくだ、正直寺の名前なんてどうでも良いというのが本音ではあったので、そのことについて殊更調べてみるつもりはなかったが。ともかく。
山の中の神代寺へ行き、命の祖母の住む木造の小さな建物のインタホンを鳴らしてみたが、こちらも反応がない。勝手に入れという合図でないことの証拠に鍵が閉まっていたために、ぼくは神代寺からさらに上、山の奥地を散策して命の姿を探さなければならなかった。
もっとも、こんなにただっぴろい山の中とはいえ、命のいるところはだいたい決まっていたりする。山の主のように振舞う命といっても、体は人間。さほど奥地まではいけないのだった。
山の途中までは車でも通れるようなコンクリートで塗装された道になっていたが、そこを素直に進んでいると山を降りてしまうことになってしまう。誰も訪れない寂れた墓を突っ切って脇に反れ、木を切り倒しただけの粗末な土道をしばし歩いたところに、猪狩りの罠が設置されている。
罠の認識票はすっかり擦り切れて、いつ誰が設置したものなのか判然としない。最近でないことは確かだろう。罠は留め金が壊れてすっかり使い物にならなくなっている。大きな鉄のかごの形をしたそれに、神代命はいつものように腰掛けていた。
人形のようにしなやかな体を粗末な籠にひょいと乗せ、何をするでもなく命はただ座っている。力の抜けた表情で、山の木々に視線を投げかけていた。
声をかけなければ、命は何時間でも一人でこうしている。この山ができた時からそうだったかのように、鳥の声と虫の囁きの中で静かにただずんでいる。
「まずいことになった」
ぼくはその小さな背中に声をかけた。命はひょいとこちらを向いて、そっけない声を投げかけた。
「しくじった? それとも、殺せなかった?」
「そうじゃない」
ぼくは首を振って
「この山を嗅ぎつけた奴がいる。そいつは元大松島中学の生徒会の人間で、名前は月ヶ谷久遠という」
「知らない名前ね」
この子が二年生の時の生徒会長が、そのもの月ヶ谷久遠という男なのだが……。もっとも、クラスメイトの名前どころか、顔すら覚えていない命のことだ。それも無理のない話。単にほとんど学校に行かなかったというだけでなく、命はそもそも興味を持った人間以外の顔を覚えないのだ。まるでそう、人間が自分の飼い犬以外の犬を識別しないのと同じように。
「どこまで感づいているの? そいつは」
「分からない。もしかしたら全部かもしれない。ただ、レイゲンがここにいることは既に確信してしまっている、と思う」
「そう……だったら」
ぼくが言うと、命はそっけなく、さほど考えるそぶりも見せずに。
「殺さなきゃいけないね」
物騒な女だ、と思わなかったと言えば嘘になる。
「邪魔なんだからやっつけちゃうのは当然でしょう? 何か考えてよ、未明くん」
言いながら、命は猪用の罠の上でぶらぶらと両足を揺らす。少女のようなその仕草を前に、ぼくは困ったように苦笑するしかない。
「使いっぱしりができた途端に、自分では何もしなくなるのはよして欲しいなぁ」
自分のことを『使いっぱしり』と表現するのは如何にも卑屈だったが、ぼくが今甘んじている立場を表現するのにこれ以上マッチするセンテンスは存在しないものと思われた。もっとも、ぼく自身それを望んでいるところもあったりするのだけれど。
「いいじゃない。だいたい、わたしみたいな目立つのが行動するのは良くないって言ったのは、未明くんでしょう」
「そうだけど」
言って、ぼくは肩をすくめる。
「っていうか殺しちゃうんだね……。方法ならいくつか考えつかないでもないけど、本当にやるの?」
「やって」
命はそっけなく
「この山の中に人が入ってくるのは、いや」
取り付く島もない口調でそういった。
「分かったよ。可能な限り早く実行しよう。マルクを借りた方の案件も含めて、さっさと済ませることにする」
「じゃあお願いするわ」
そっけなく言って、命はその話には興味をなくしたかのように視線を山の中に向けた。獣道の奥、風に揺れて形を変える深緑の影をじっと見詰めている。ぼくは苦笑した。
「お願いするって……それでおしまいかい? 月ヶ谷の素性とか、そういうのには興味がないの?」
「ないわよ」
命は気だるくそう言って
「信頼してるから。あなたならほっといたら上手くやってくれるんでしょう? わたしがそんなこと知る必要はないわ」
そう言われ、ぼくは肩をすくめた。信頼されるのは気分が悪いわけではなかったが、こんな風になんでも丸投げされるのではかなわない。簡単に、やってとか、殺してとか。ぼくがそうるすべきだと進言すれば自分の家族でも殺させるんじゃないかと思う。
一応、命に詳細を聞かれた時の為に、月ヶ谷については軽く調べておいたのだ。連絡網を使ってクラスの中心的男子と通話し、早くクラスに馴染みたい意思を話して、クラス全員のメールアドレスをぼくの携帯電話に送らせた。月ヶ谷久遠について尋ねた文面を作り、それらに一斉送信するなり、おもしろい話が聞けるわ聞けるわ。
中学三年生時点では大松島中学の生徒会長を勤めていたこと、今では光央学園の寮に通っていること。頭も運動神経も優れていて女子には人気があったが、言動が突飛だったため近付くものはあまりいなかったという。住所と交友関係、よく訪れる町の施設などについても聞き出したが、中でもっとも不愉快だった情報は律子さんと非常に仲が良かったことだった。
美人でサバサバした性格の律子さんは、中学時代からなかなか目立つ生徒だったらしい。今の大松島中学でいう実に近い存在か。月ヶ谷はそんな律子さんとしばしば登下校を共にし、その破天荒な言動で注目を集めまくった。極端な行動力と生徒会の権力で学校を引っ掻き回すのが月ヶ谷、それを抑制するのが律子さん。
ぼくが先ほど立てた進路希望どおりに光央学園へ進学したとすると、月ヶ谷はぼくの先輩という立場を取っていたわけだ。人のめぐり合わせとは数奇なものだ。ただしその月ヶ谷も、おそらく来週を待たずに何らかの方法で殺害されることになる訳だが。
「ねぇ。命さん」
ぼくが言うと、神代命はなに、と無愛想な顔でこちらを向く。
「ぼくはさ。ここにいる君に会いに行くために、まず実さんのところに電話をかけて、その後で君のおばあちゃんのところを尋ねて、それからここに来た訳なんだけれど……」
「ご苦労なことね」
「苦労したよ」
ぼくはそう言って苦笑して
「別にそういった手間が面倒だといいたい訳じゃない。ただ、君だって携帯電話くらい持ったらどうなんだい? 連絡が付かないと後々困るだろう?」
「おばあちゃんのトコに電話かけたら良いじゃないの」
神代命は無愛想に言う。
「壊れてるって言ったのは君じゃないか」
ぼくが言うと、命はそうだったかしらと首を倒した。淡々としているようで、どこかすっとぼけたところのある女の子だった。そういうところが、どこかしらぼくに似ているのかもしれない。
神代命との連絡手段を得る為に、ぼくは真っ先にあの小さな家の電話番号を訪ねたのだ。しかし命曰く、あそこの電話は壊れて使えないという。今から数年前に、振込み詐欺にあった祖母が怒りのあまり放り投げて壊してしまったのだそうだ。
「そもそも弱ったおばあちゃんのいるお家が、そんな状態になっているのがおかしいんだよ。君だってそのおばあちゃんのためにこんな山の中に出入りしなくちゃならないんだから、携帯電話くらい持たせるのがふつうだろう?」
「そういうものかしら?」
命はぴんと来ない様子で。
「妹は持ってるんだけどね。わたし、中二のあの事件が起きてからほとんど家にいないし、しょうがないとは思うんだけど。今からお願いしても、あれこれ聞かれるだけだと思うし」
命は淡々とした口調でそう言った。嘆くようにも聞こえるその言いように、ぼくは眉を顰めて
「冷たいご両親だね。おばあちゃんのこと、君一人に丸投げにして」
「そうかも。でも、おばあちゃんが嫌いだからお見舞いに来ないんじゃないと思うな。お母さんたちがこのお寺に来なくなったのは、どっちかっていうと、わたしがここにいるからだと思う」
そういったときの命の顔には、隠しきれない寂しさが浮かんでいた。
「目の上のたんこぶであることを望んだのはわたしの方。わたしは自分でやらかして、勝手に一人で逃げてきた。わたしは自分のしたいことをしたいようにするだけ。その先の破滅を、受け入れるだけ」
問題を起こし、家族からも遠巻きにされる神代命。自ら山に引きこもり、世捨て人のような暮らしを選択した神代命。そうするしかなかった神代命。
「そのあたりは、少し未明くんと似てるかもしれないね」
「海星からドロップアウトしちまったことを言っているのかい? 確かにそうだ」
ぼくは肩をすくめて見せて
「親にもらう当てがないんだったら、携帯電話くらいぼくが買ってあげるさ。料金もぼくがなんとかする。だから、たまには山を降りようぜ」
命を連れて山を降り、中田駅から汽車に乗って近くの繁華街に向かう。
ずっと昔に映画のタイトルにもなった山を擁するその町は、辺鄙な役者や声優を呼んでみたり、アニメ化された小説作品の原作者を呼んでみたりと、変わった方向から町おこしを試みている。もっとも一年に数回そのようなイベントを行ったところで、町自体に有用な施設が少ないのだから活気など起こりようが無いのが事実である。映画館もなければカラオケ屋もない、携帯電話を扱う店があるのが、大きな幸運に思えるほどだった。
「こんなところにわたしを連れ出して、いったいどういうつもりなんだか」
駅のホームに降り立ちながら、命がやや面倒くさそうな調子でそう言った。
「ぼくだって男なんだから、君みたいな女の子を連れて繁華街を歩けば、少しは気分も良いものさ」
「あなたには憧れのお姉さんがいるって聞いた気がするけど?」
「律子さんかい? 残念ながら彼女には変態の探偵モドキが付いていてね。望み薄なんだ」
「あっそう。わたしに惚れてるって言ってたのは、結局その女の次にって意味なのかしら?」
「嫉妬してるのかい? かわいいなぁ」
「蜂に襲わせるわよ」
そう言ってこっちを睨んだ命の眼力はわりとものすごく、ぼくは思わずたじろいだ。
……っていうか、蜂に襲わせるってなんだよ。
「しかし辺鄙なところだねぇ、この都道府県は。ぼくは汽車なんてものがまだ日本を走っているなんて、ここに越してきて始めて知ったよ」
「そんなものかしら」
命はそう言って
「わたしは今自分が乗ったのが汽車であることを始めて知ったわ。というか、あんな乗り物に乗るのは初めてよ」
なんとまぁ。
「君ってば……ということはこの繁華街に来るのも始めてかい?」
「こうして一人で来るのはね」
「二人だよ。君と、ぼく」
ぼくは命とぼくを交互に指差してから苦笑する。
「ちっちゃなころは、お母さんに連れられて車できたことがあったと思う。あの大きなデパートなら、行ったことがあるから。妹と一緒に迷子になってね……」
ふっと、命の頬に僅かに笑みがともる。
「懐かしいなぁ。二人して迷子センターに引き取られたんだけどね。『知らない人に名前を言っちゃいけない』って言われてたのを勘違いして、デパートの職員さんにどうしても名前を名乗らなかったのよ。でも双子なんて珍しかったし、着ている服もよく似ていたから、お母さんにはすぐに分かって……」
こんな風にあっけらかんと話す命は珍しい。ぼくは笑顔を浮かべながら、楽しそうに話す命の話に相槌を打つ。
「あの頃はいつも一緒だったの。着るものも食べるものも。お母さんの目を盗んで飛び込む場所も、十階のペットショップだと決まってた。あの子は熱帯魚が好きでね、今もそれが続いている。といっても育てるのは下手糞だし、飽きっぽいから、ほっといたらすぐに殺しちゃうんだけどね。だから、いつもわたしが……」
話していると、前方でおののいたように立ち止まった連中がいた。
それはぼくの……つまりは命のクラスメイトである少女たち数人で、よく見ればあの時実を取り囲んでリンチを加えようとしたグループだった。そいつらは命の姿を見て取ると、驚いたようにその場で後退る。
「……?」
そのようなリアクションを取る集団に、命は僅かに興味を引かれたように視線を投げる。それからすぐに興味をなくしたように視線をぼくの方に戻した。それから再び歩き始めたところで、接近していた一人の少女が足をもつれさせてすっころぶ。
「大丈夫?」
命は自然な動作で手を差し伸べた。その無邪気な行動に、ぼくは思わず頬をほころばせる。地面を転がった少女は虫のようにばたばたと這い蹲って、何とか起き上がってぼくたちの傍から離れていった。
「君のクラスメイトだよ」
ぼくは肩を竦めてそう言った。
「わたしはあんな人知らないわ」
「向こうは君のことを知っているのさ。少しは学校に行ったほうが良い。クラスメイトの顔も知らないんじゃ、悲しいじゃないか」
へらへらというぼくに、命は眉をしかめて見せる。
「悲しいなんて。あなたの口から出る言葉とは思えない」
「そうだね。……でも本当にそう思うよ。避けられたって、恐れられたって……そこにいさえすれば気にかけてくれる人は出てくるかもしれない。みたいにマルクがいない時に、みんなの前でぼくの手を握ってやれば、少しは打ち解けるようになるかもしれない」
「いやよ」
命は取り付く島もない。
「学校には妹がいるから。だから、いや」
ぼくは首を傾げて
「妹さんが嫌いなんじゃないんだろう?」
「そうだけど……とにかくだめなの。わたしを見るとあの子はまともじゃいられなくなる。そんなあの子を見るのは嫌だ」
言って、早足で進み始める。ぼくはあわててそれに付いていった。
姉妹の確執は思ったとおりに深かった。もっとも、姉の命に近付くために妹の実を利用したぼくに、それを心配する資格があるのかは疑問だったが。
どうしようもなく、神代命はアウトローなのだ。既に皆の見る前で人を殺してしまっていて、あまつさえその裁きすら受けていないのだ。服に潜んだムカデが毒を浴びせるなど、分かるはずがないのでそれは当然と言えそうだったが。彼女にはもう、ふつうの中学生として生きる余地はない。彼女自身がそれを望み、それを受け入れ、納得している。納得せざるを得ないだけのことを、彼女は既に何重にも渡ってしでかしているのだ。
「……あの時。君は実さんのいる生物部の部室に現れたね。それはいったい、何のためだったんだい?」
そう尋ねると、命は少しだけ憂いを帯びた顔をして
「別に。ただあの子が飼っていた軟水フグがどうなっているのか気になって。案の定、すっかり飽きて殺しちゃってるみたいだったけど」
本当、しょうがないのよ。言って、命はぼくがするように両肩を竦めて見せた。
それから携帯電話の店にたどり着き、命に機種とカラーを選ばせる。命は『何でも良いわよ』とそっけなかった。
「あなたにこんなくだらないものを薦められるとは、思ってなかったわ」
言いながらイスに腰掛けてコーヒーに砂糖を落としながら、あれこれ口にする店員にことごとく無視を決め込んでいる。
「ぼくだってこんな機械は好きじゃないさ。どこにいても捕まってしまうからね。だけど、危なっかしい君にはだからこそこれが必要なのさ」
「首輪を付けるのは好きだけど、付けられるのは気に食わないわね」
不満げに命は言った。
「そんな目的ならポケベルで十分じゃない? ……って思うんだけど」
「ぼくはこれでも結構なボンボンでね」
肩を竦めながら、口端に笑みをにじませるようにしてぼくは言った。
「今の家に来る時に、両親から手切れ金だとばかりにお小遣いをもらっているのさ。口座に入っているその金額たるや、驚くなかれなんと七桁」
「……中学生が持つお金じゃないわよね」
「本当だよ」
ぼくは両手を晒す。
「好きな女の子に貢いだりでもしない限り、とてもじゃないが使いきれない。欲しいものがあったら何でも言ってくれよ」
そのやり取りに、店員の男が僅かに眉を顰める。冗談とでも思っているのか。
「頼りにさせてもらうわ。欲しいものなら山ほどあるのよ」
「へぇ。てっきり僧侶のように無欲なのかと思ってたよ。何が欲しいんだい?」
「電子レンジ。おばあちゃんが若い時に使ってた奴が壊れてもう久しいの。スーパーポンポコの惣菜弁当は確かに安くておいしいけれど、お寺まで運んでおばあちゃんと食べるとすぐに冷めちゃうの。わたし、料理はあんまりできないし」
「……帰りに買ってやるよ」
なんとも世知辛い話だった。




