これを書いたのは誰だ。
宏太が目を覚ましたのは、昼前だった。
昨夜は午前三時まで書いていたというのに、不思議と体は軽かった。
顔を洗い、インスタントコーヒーを入れる。朝食は取らず、すぐにパソコンを開いた。
「さあ、続きを書きますか」
昨日のうちに、主人公は異世界へ転生し、四つの特別な能力を手に入れた。悪の王が支配する国の設定もできている。今日は仲間を登場させ、王を守る四人の将軍との戦いまで進めたい。
その前に、昨日の大作を最初から読んでみることにした。
宏太はコーヒーを一口飲み、文書の先頭へ戻った。
〈俺はいつものようにテレビを見ていた。すると突然、テレビからものすごい光が出てきた。その光は部屋全体を包み込み、俺も包み込んだ。あまりにもまぶしかったので、俺は目を閉じた〉
宏太の指が止まった。
「……まあ、最初だからな」
書き出しは難しい。
ここから徐々に調子が出てきたはずだ。
続きを読んだ。
〈次に目を開けると、そこには緑の絨毯のような草原が、どこまでも草の海のように広がり、吹き抜ける風によって波のように波打っていた〉
絨毯なのか、海なのか、波なのか。
昨夜も一度そう思った気がする。
それでも消さなかったらしい。
宏太は先へ進んだ。
異世界へ転生したコータは、どこからともなく聞こえてきた女神の声によって、自分の能力を説明されていた。
剣を持てば誰にも負けない。
あらゆる魔法を使える。
見た相手の能力を奪える。
触れた物の構造を理解し、壊れた物なら何でも修理できる。
さらに、けがや病気を一瞬で治すこともできる。
能力の説明だけで、三ページ続いていた。
「ちょっと多かったか」
だが、主人公が強いことは伝わる。
大丈夫、問題はない。
宏太は自分に言い聞かせ、悪の王が登場する場面まで画面を動かした。
〈悪の王は、悪そうな顔で笑った〉
宏太は眉を寄せた。
〈「ふははは。この国の人間は、すべて私の奴隷だ。逆らう者は牢屋に入れて、食事も薬も与えないぞ」〉
昨夜は胸が躍ったはずの場面だった。
今日は、なぜか続きを読みたくなかった。
宏太はコーヒーを飲んだ。
すでに冷めていた。
昨夜の自分は、いったい何を考えていたのだろう。
文章は同じ言葉の繰り返しで、情景はほとんど浮かばない。登場人物は自分の能力や目的を口に出して説明し、悪の王は絵に描いたような悪人だった。
いや、絵に描いたほうがまだ迫力はある。
宏太は椅子に深く座り直した。
「なんだ、これは」
ページを進めても、よくなる気配はなかった。
むしろ、読めば読むほどひどくなっていく。
「俺は、こんな陳腐なものを書いてたのか……」
昨夜まで大作に見えていた文章が、朝の光の中では、どこにも隠れようのない素人の作文になっていた。
宏太は黎明小説大賞の募集要項を開いた。
> 応募原稿は、四百字詰め原稿用紙換算で二百五十枚以上、四百枚以内とする。
四百字が二百五十枚。
頭の中で掛け合わせる。
「十万文字?」
計算するまでもない数字だった。
実際には改行や空白もあるため、単純に十万文字を書けばいいというものではない。それでも、今の原稿が圧倒的に足りないことだけは分かった。
八千六百四十二文字。
十万文字までは、あと九万文字以上ある。
「嘘だろ」
宏太は、自分の書いたところまで画面を動かした。
主人公はすでに異世界へ転生し、最強の能力を手に入れている。悪の王が支配する国へ到着し、王を守る一人目の将軍とも出会っていた。
あとは四人の将軍を倒し、王宮へ乗り込むだけだ。
この調子では、二万文字ほどで国王を倒してしまう。
国王を倒したあと、残り八万文字を何に使えばいいのか。
小説を書くというのは、とんでもない作業だった。
頭の中では、すべてできていた。
主人公が異世界へ転生し、圧倒的な力を手に入れる。仲間を集め、四人の将軍を倒し、最後には悪の王が待つ城へ乗り込む。
考えるだけなら、十分もかからない。
しかし、それを文章にすると、一晩かけても一万文字に届かなかった。
主人公がどこに立っているのか。
どんな景色が見えているのか。
誰が、どんな表情で話しているのか。
剣がどのように振り下ろされ、それを受けた相手がどう倒れるのか。
頭の中では一瞬で終わる場面を、一つずつ言葉にしなければならない。
しかも、書けばいいわけではなかった。
同じ言葉を繰り返せば幼稚に見える。詳しく説明しすぎれば話が進まず、省きすぎれば何が起きているのか伝わらない。
どの言葉を選び、どこまで書き、何をあえて書かないのか。
文章力とは、難しい言葉を知っていることではなかった。
自分の頭の中にしかない景色を、読んだ人間の頭にも浮かばせる力なのだ。
「文章って、大事なんだな……」
当たり前のことに、今さら気づいた。
エージが数秒で作っていた文章を、宏太は簡単なものだと思っていた。自分が材料を渡せば、あとは勝手に出来上がる。料理でいえば、盛りつけを任せている程度のつもりだった。
だが、本当は違った。
宏太が渡していたのは、料理の名前だけだった。
材料をそろえ、切り分け、火加減を調整し、食べられる形にしていたのはエージだった。
宏太は、自分の原稿と、閉じたままの文章生成AIを見比べた。
エージを使えば、読みやすい文章になる。
しかし、書きたい物語から離れていく。
エージを使わなければ、思いどおりの物語になる。
しかし、とても人に読ませられる文章にはならない。
「どうすりゃいいんだよ」
最強だと思っていた二人のコンビは、まだ一作目の入り口に立っただけで、完全に行き詰まっていた。




