AIなんかいらない。
AIなんかいらない。
宏太は缶ビールの蓋を開けた。
一口飲み、冷めた弁当を口へ運ぶ。
画面には、孤児を助ける道具屋のガントが残っていた。宏太がモデルにしたコンビニ店員とは、似ても似つかない善人だった。
「まあ、考えてみれば当然か」
宏太は缶ビールを片手に、椅子の背にもたれた。
そもそもAIは、人を悪く言わないように作られているのだろう。
誰かの悪口を書けと頼めば、相手にも事情があると諭す。片方だけを悪者にすれば、別の見方もあると指摘する。差別や偏見につながりそうな表現は避け、誰も傷つかない答えを返そうとする。
これまで仕事で使っていたときには、それで困らなかった。
取引先へ送るメールも、見積書に添える文章も、上司へ提出する報告書も、誰かを悪者にする必要などなかった。むしろ、角を立てないエージの文章は都合がよかった。
だが、小説は違う。
悪い王を倒す物語に、王の言い分まで持ち込まれては困る。
最強の相棒だと思っていたエージが、今では創作を邪魔する一番のストッパーになっている。
「だったら、自分で書けばいいんだよ」
宏太は残りのビールを飲んだ。
考えてみれば、小説とは本来そういうものだ。
自分の中にある物語を、自分の言葉で書く。誰かに正しいかどうかを尋ねながら作るものではない。
テレビに出ていた受賞者だって、小説を書き始めて一年だと言っていた。特別な学校で文章を学んだわけでもない。会社員として働きながら、空いた時間に書いただけだ。
それなら、自分にできない理由はない。
「こっちは理系とはいえ、大学まで出てるんだからな」
文章を一度も書いたことがないわけではない。大学ではレポートも卒業論文も書いた。会社員時代には、報告書を何十枚も作ってきた。
しかも、昔の作家のように原稿用紙へ万年筆で一文字ずつ書くわけではない。
今はワードがある。
間違えれば消せる。気に入らなければ、何度でも書き直せる。分からない言葉はインターネットで調べられるし、行ったことのない場所でも写真を見ながら情景を描ける。
エージを使う必要など、どこにもない。
「よし」
宏太は文章生成AIの画面を閉じた。
新しい文書を開く。
何も書かれていない真っ白な画面が現れた。
宏太は題名を入力した。
『無職だった俺が異世界最強の英雄になり、悪の王を倒して国中から感謝された件』
「ちょっと長いな」
題名をすべて消した。
『異世界の英雄』
「普通すぎるか」
また消した。
『医療営業無双』
「医療営業って、なんだよ」
気づけば、題名だけで二十分が過ぎていた。
「題名はあとでいい」
宏太は自分に言い聞かせ、本文を書き始めた。
最初の場面は決まっている。
四十歳の無職の男がテレビを見ていると、突然画面が光り、異世界へ吸い込まれる。主人公が目を覚ますと、見たこともない草原が広がっている。
宏太はキーボードを打った。
〈俺はテレビを見ていた。すると、突然テレビが光った。とてもまぶしかった。気がつくと、俺は草原に立っていた〉
読み返す。
「……小学生かよ」
すべて消した。
もう一度書く。
〈テレビから放たれた強烈な光が、コータの全身を包み込んだ。あまりのまぶしさに目を閉じ、再び目を開けると、そこは見たこともない異世界だった〉
先ほどよりは、小説らしくなった。
しかし、何かが足りない。
異世界だった、と書くだけでは情景が浮かばない。空の色、草原の広さ、吹いている風、遠くに見える建物。そういうものを書かなければならないのだろう。
宏太はインターネットで「草原 きれいな表現」と検索した。
緑の絨毯。
どこまでも続く草の海。
風に波打つ草原。
いくつかの表現が出てきた。
宏太は、そのすべてを文章へ入れた。
〈目の前には、緑の絨毯のような草原が、どこまでも草の海のように広がり、吹き抜ける風によって波のように波打っていた〉
「悪くない」
声に出して読んでみた。
「緑の絨毯のような草原が、どこまでも草の海のように広がり、吹き抜ける風によって波のように波打っていた……」
絨毯なのか、海なのか、波なのか。
自分でも分からなくなった。
宏太は「緑の絨毯」を消した。やはり必要な気がして戻した。今度は「草の海」を消し、しばらく考えてから、また元へ戻した。
一時間後。
画面に書かれていたのは、わずか三行だった。
宏太は二本目の缶ビールを開けた。
「最初だからな」
小説は書き出しが一番難しいと、どこかで聞いたことがある。
ここを越えれば、あとは頭の中にある物語を書いていくだけだ。
宏太は画面の隅にある時刻を見ないようにして、四行目へ取りかかった。
宏太が描きたいのは、異世界で悪を倒す場面だった。
圧倒的な力を手に入れた主人公が王宮へ乗り込み、悪の王を打ち倒す。これまで苦しめられてきた民衆は歓声を上げ、主人公を英雄としてたたえる。
その場面なら、頭の中にはっきりと浮かんでいる。
できることなら、今すぐそこを書きたかった。
しかし、主人公が何の苦労もなく王宮へ現れても、物語にはならない。まずは異世界へ転生し、敵を倒せるだけの力を手に入れる必要がある。
「どんな能力がいいかな」
剣を握れば誰にも負けない。
あらゆる魔法を使える。
相手の能力を見ただけで奪える。
けがや病気を一瞬で治すことができる。
宏太は思いつくまま、主人公へ能力を与えていった。
医療機器営業だった経験も生かしたい。触れた道具の構造が分かり、壊れた物なら何でも修理できる能力も加えた。
「これだけあれば、まず負けないだろ」
次は、あの医師だ。
主人公より先に異世界へ転生し、医学知識を使って人々から信頼を集め、やがて一つの王国を築く。初めは名医として歓迎されたが、しだいに本性を現し、逆らう者には治療を施さなくなる。
王国がどのように作られたのか。
どれほど多くの兵士を抱えているのか。
どんな城に住み、どのような方法で民衆を支配しているのか。
考え始めると、次々に新しい場面が浮かんできた。
王を守る四人の将軍も必要だ。
一人は巨大な斧を使う怪力の男。もう一人は炎を操る魔法使い。残る二人には、まだ名前も能力もなかったが、あとで考えればいい。
「なんだ。結構、書けるじゃないか」
白かった画面が、少しずつ文字で埋まっていく。
書き始めてから、もう二時間が過ぎていた。
だが、仕事をしていた頃の二時間とはまるで違った。誰かに急かされることもなければ、電話に邪魔されることもない。医師の機嫌をうかがう必要も、上司へ途中経過を報告する必要もなかった。
自分の考えた世界へ、自分の好きなものを置いていく。
ただ一人で、黙々と文字を打ち込む。
宏太は、だんだん楽しくなってきた。
「やっぱり、俺にはこういう仕事が向いてたんだよ」
誰とも関わらず、自分の力だけで作品を作る。
もっと早く気づいていれば、人生は違っていたかもしれない。
「文学部に行ってもよかったな」
宏太は昔から計算が得意だった。
数学の成績がよかった。ただそれだけの理由で工学部を選んだ。就職先も、大学で学んだ知識が多少は生かせそうだという理由で医療機器メーカーに決めた。
自分は理系の人間だと、ずっと思い込んでいた。
だが、本当は物語を作る才能のほうがあったのかもしれない。
「進路、間違えたかな」
四十歳になってようやく、本当に向いている仕事を見つけた。
宏太はそんな気さえしていた。
缶ビールを飲むことも忘れ、夢中でキーボードを打ち続けた。
一通り書き終えた頃には、午前三時を回っていた。
宏太は大きく伸びをした。
「いいじゃないか」
読み返してはいないが、これだけ夢中になって書けたのだから、面白くないはずがなかった。
「よし、続きは明日にしよう」
この調子で最後まで書き、今日の文章を少し手直しすれば、黎明小説大賞にも十分応募できそうだ。
宏太は文書を保存した。
ファイル名は、少し迷った末に「黎明小説大賞応募作」とした。
パソコンを閉じると、急に眠気が押し寄せてきた。
四十歳になって、ようやく自分に向いている仕事を見つけたのかもしれない。
そんなことを考えながら、宏太は満足して眠りについたのだった。




