踊れないはずの俺を、体だけが覚えていた。
その日から、仕事が終わったあとにダンスの練習をすることになった。
開始は午後六時。
一時間ほど練習すれば、本番までには振りを覚えられるらしい。
園長は簡単に言っていたが、宏太にはとてもそう思えなかった。
先生たちは普段から子供たちと歌ったり踊ったりしている。
だが、宏太には人前で踊った記憶すらない。
本番で一人だけ逆方向へ動く自分の姿が、すでに目に浮かんでいた。
これは、さらしものすぎる。
「今日からダンスの先生が来てくれるそうですよ」
保育士の一人に言われ、宏太は遊戯室の隅に立った。
まだ練習は始まっていない。
先生が来るまでは、誰も踊らないらしい。
助かった。
見本もないうちから踊らされてはたまらない。
しばらくすると、遊戯室の扉が開いた。
「こんばんは。よろしくお願いします」
入ってきたのは、すらりと背の高い男性だった。
黒いシャツに細身のパンツ。立っているだけで姿勢がよく、いかにもダンスを教えていそうな雰囲気がある。
男性は園長と言葉を交わすと、先生たちの前へ進み出た。
「今回、振りつけを担当します、竹中湊です。よろしくお願いします」
宏太は、その名前に引っかかった。
竹中湊。
どこかで聞いた名前ではない。
忘れたことのない名前だった。
宏太は男性の顔を見つめた。
三十五年前の面影など、簡単に分かるはずがない。最後に会ったのは五歳のときだ。
それでも、目元に何かが残っている気がした。
竹中も、宏太の視線に気づいた。
「どうかしましたか?」
「あの……」
同じ名前の別人だったら、かなり気まずい。
だが、確かめずにはいられなかった。
「もしかして、獅子王の子保育園にいた湊か?」
竹中の表情が止まった。
今度は向こうが宏太の顔をじっと見た。
「えっ……もしかして、コータ?」
その呼び方を聞いた瞬間、宏太の中で三十五年前と現在がつながった。
「やっぱり湊か」
「うそだろ。なんでここにいるんだよ」
「ここで働いてるんだ。最近だけどな」
二人は互いの顔を確かめ、それから同時に笑った。
園長も先生たちも、何が起きたのか分からない様子で二人を見ている。
「お二人、お知り合いだったんですか?」
「保育園の頃の友達です」
「三十五年ぶりですよ」
湊がそう答えると、周囲から驚きの声が上がった。
サナが宏太のそばへ駆け寄ってくる。
「こうた先生のおともだち?」
「昔のな」
「じゃあ、いっしょに踊ってたの?」
「いや、それは覚えてない」
宏太が答えると、湊が笑った。
「何言ってるんだ。獅子王の子では、毎日のように踊らされてただろ」
「そうだったか?」
「ダンスもリズム運動も、散々やったじゃないか」
寒風の中での乾布摩擦。
読み書き、そろばん、英語、跳び箱。
覚えていることはいくつもある。
だが、踊っていた記憶はすっかり抜け落ちていた。
「まあ、三十五年も前だからな。今さら体が動くわけないだろ」
「それを確かめてみるか」
湊は音響機器を操作し、軽快な音楽を流した。
最初に基本の動きを見せる。
右へ二歩。左へ二歩。
腕を広げ、体をひねり、音に合わせて足を入れ替える。
「まずは、ここまでやってみましょう」
宏太は見よう見まねで足を動かした。
右へ二歩。
左へ二歩。
腕を広げ、体をひねる。
間違えないよう頭の中で順番を数えるつもりだった。
だが、数える必要はなかった。
音が聞こえると、次の拍子を待つより先に、足が自然に動いた。
湊が一度しか見せていない振りにも、遅れずについていける。
「あれ?」
自分でも驚き、動きを止めた。
「こうた先生、できてる!」
サナが声を上げた。
「では、少し続けてみましょう」
湊は笑いながら、次の振りを加えた。
動きは次第に複雑になった。
それでも、宏太の足は止まらなかった。
音に合わせて重心を移し、ほかの先生たちよりも早く振りを覚えていく。
「湊川さん、ダンス経験者なんですか?」
保育士に尋ねられ、宏太は首を振った。
「いや、踊ったことなんてないんですけど」
宏太は自分の手足を見た。
踊れないと思っていた。
四十歳の理系の男に、ダンスなどできるはずがないと決めつけていた。
だが、忘れていたのは記憶だけだった。
獅子王の子で繰り返し教え込まれたリズムは、三十五年が過ぎた今も、体のどこかに残っていた。
宏太は、もう一度音楽に合わせて足を踏み出した。
自分には何もないと思っていた。
資格もなければ、転職に役立つ特別な能力もない。そう決めつけていた。
だが、三十五年前に身につけたものは、今も自分の中に残っている。
何もなかったのではない。
ただ、自分で見つけられずにいただけだった。




