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無職が一攫千金を夢見て小説を書き始めたが、これがなかなか思うようにいかない話  作者: 南 春


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18/19

踊れないはずの俺を、体だけが覚えていた。


 その日から、仕事が終わったあとにダンスの練習をすることになった。


 開始は午後六時。


 一時間ほど練習すれば、本番までには振りを覚えられるらしい。

 園長は簡単に言っていたが、宏太にはとてもそう思えなかった。

 先生たちは普段から子供たちと歌ったり踊ったりしている。

 だが、宏太には人前で踊った記憶すらない。

 本番で一人だけ逆方向へ動く自分の姿が、すでに目に浮かんでいた。


 これは、さらしものすぎる。


「今日からダンスの先生が来てくれるそうですよ」


 保育士の一人に言われ、宏太は遊戯室の隅に立った。


 まだ練習は始まっていない。


 先生が来るまでは、誰も踊らないらしい。


 助かった。


 見本もないうちから踊らされてはたまらない。


 しばらくすると、遊戯室の扉が開いた。


「こんばんは。よろしくお願いします」


 入ってきたのは、すらりと背の高い男性だった。


 黒いシャツに細身のパンツ。立っているだけで姿勢がよく、いかにもダンスを教えていそうな雰囲気がある。


 男性は園長と言葉を交わすと、先生たちの前へ進み出た。


「今回、振りつけを担当します、竹中湊です。よろしくお願いします」


 宏太は、その名前に引っかかった。


 竹中湊。


 どこかで聞いた名前ではない。

 忘れたことのない名前だった。

 宏太は男性の顔を見つめた。

 三十五年前の面影など、簡単に分かるはずがない。最後に会ったのは五歳のときだ。

 それでも、目元に何かが残っている気がした。

 竹中も、宏太の視線に気づいた。


「どうかしましたか?」


「あの……」


 同じ名前の別人だったら、かなり気まずい。

 だが、確かめずにはいられなかった。


「もしかして、獅子王の子保育園にいた湊か?」


 竹中の表情が止まった。

 今度は向こうが宏太の顔をじっと見た。


「えっ……もしかして、コータ?」


 その呼び方を聞いた瞬間、宏太の中で三十五年前と現在がつながった。


「やっぱり湊か」


「うそだろ。なんでここにいるんだよ」


「ここで働いてるんだ。最近だけどな」


 二人は互いの顔を確かめ、それから同時に笑った。

 園長も先生たちも、何が起きたのか分からない様子で二人を見ている。


「お二人、お知り合いだったんですか?」


「保育園の頃の友達です」


「三十五年ぶりですよ」


 湊がそう答えると、周囲から驚きの声が上がった。

 サナが宏太のそばへ駆け寄ってくる。


「こうた先生のおともだち?」


「昔のな」


「じゃあ、いっしょに踊ってたの?」


「いや、それは覚えてない」


 宏太が答えると、湊が笑った。


「何言ってるんだ。獅子王の子では、毎日のように踊らされてただろ」


「そうだったか?」


「ダンスもリズム運動も、散々やったじゃないか」


 寒風の中での乾布摩擦。

 読み書き、そろばん、英語、跳び箱。

 覚えていることはいくつもある。

 だが、踊っていた記憶はすっかり抜け落ちていた。


「まあ、三十五年も前だからな。今さら体が動くわけないだろ」


「それを確かめてみるか」


 湊は音響機器を操作し、軽快な音楽を流した。


 最初に基本の動きを見せる。


 右へ二歩。左へ二歩。


 腕を広げ、体をひねり、音に合わせて足を入れ替える。


「まずは、ここまでやってみましょう」


 宏太は見よう見まねで足を動かした。


 右へ二歩。


 左へ二歩。


 腕を広げ、体をひねる。


 間違えないよう頭の中で順番を数えるつもりだった。


 だが、数える必要はなかった。


 音が聞こえると、次の拍子を待つより先に、足が自然に動いた。


 湊が一度しか見せていない振りにも、遅れずについていける。


「あれ?」


 自分でも驚き、動きを止めた。


「こうた先生、できてる!」


 サナが声を上げた。


「では、少し続けてみましょう」


 湊は笑いながら、次の振りを加えた。

 動きは次第に複雑になった。

 それでも、宏太の足は止まらなかった。

 音に合わせて重心を移し、ほかの先生たちよりも早く振りを覚えていく。


「湊川さん、ダンス経験者なんですか?」


 保育士に尋ねられ、宏太は首を振った。


「いや、踊ったことなんてないんですけど」


 宏太は自分の手足を見た。

 踊れないと思っていた。

 四十歳の理系の男に、ダンスなどできるはずがないと決めつけていた。

 だが、忘れていたのは記憶だけだった。

 獅子王の子で繰り返し教え込まれたリズムは、三十五年が過ぎた今も、体のどこかに残っていた。

 宏太は、もう一度音楽に合わせて足を踏み出した。

 自分には何もないと思っていた。

 資格もなければ、転職に役立つ特別な能力もない。そう決めつけていた。

 だが、三十五年前に身につけたものは、今も自分の中に残っている。


 何もなかったのではない。

 ただ、自分で見つけられずにいただけだった。


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