消えた獅子王
短編とはいえ、宏太は初めて小説を最後まで書き上げた。
エージと壁打ちをしながら何度か書き直し、題名も少し短くした。
『子供だけの異世界で、俺は無双できなかった』
黎明小説大賞へ応募するには短すぎる。
それでも、自分で生み出し、自分の言葉で最後まで書いた初めての作品だった。
保育園の仕事にも、少しずつ慣れてきた。
園児から突然話しかけられても、すぐに正解を出そうとはしなくなった。
「こうた先生、これ何に見える?」
「何だろう。教えて」
分からないときは、本人に聞けばいい。
それだけで済むことも覚えた。
そんなある日、職員たちが宏太の歓迎会を開いてくれることになった。
金曜日の仕事を終えたあと、園長や事務長、保育士たちが近所の居酒屋へ集まった。
「湊川さん、もう子供たちにすっかり人気ですね」
事務長から言われ、宏太は苦笑した。
「人気というより、珍しがられているだけだと思います」
「男性の職員は、ほとんどいませんからね」
「毎日、何かしら質問されていますよ」
「そのうち、家の秘密まで教えてくれるようになりますよ」
周りの保育士たちが笑った。
歓迎会が始まって一時間ほどたった頃、話題はそれぞれが子供の頃に通っていた保育園へ移った。
「湊川さんは、どこの保育園だったんですか?」
若い保育士から尋ねられ、宏太は少し迷ってから答えた。
「獅子王の子保育園です」
「ししおうのこ?」
「すごい名前でしょう」
保育士たちが笑った。
「本当にあったんですか?」
「ありましたよ。朝から上半身裸で乾布摩擦をして、英語も計算も体操もやらされるようなところでした」
「ええっ。何歳からですか?」
「保育園だから、三歳とか四歳ですよ」
「その年齢から、そんなことまで教えてたんですか」
「今なら、保護者はむしろ大歓迎ですね。人気の出そう」
「それにしても、そんな昔から英才教育をしていた保育園があったんですね」
園長だけは笑わず、何かを思い出すように首を傾げていた。
「獅子王の子保育園……。聞いたことがありますね」
「知っているんですか?」
「昔、友人が働いていたと思うんですよね」
宏太は持っていたグラスを置いた。
「三十五年くらい前ですか?」
「ええ、その頃です。ずいぶん昔の話なので、詳しくは覚えていませんけど」
園長は記憶をたどりながら話した。
「ある日、急に閉園すると知らされたそうです。子供たちも大変だったでしょうけど、先生たちも大変だったみたいですよ」
「先生たちも?」
「次の仕事が決まっていたわけではなかったでしょうから。急いで別の保育園を探したけれど、すぐには見つからなかった人もいたと聞きました」
宏太は、獅子王の子保育園のお別れ会を思い出した。
子供たちは泣いていた。
保護者たちは、転園先を探すために慌ただしく動いていた。
だが、先生たちがそのあとどうなったのかなど、考えたこともなかった。
「でも、保育園が急に閉園するなんて珍しくないですか?」
一人の保育士が尋ねた。
「今だって、保育園に入りたくても入れない子がいるくらいなのに」
「経営が厳しかったんでしょうか」
「園児が集まらなかったとか?」
「英才教育にお金をかけすぎたんじゃないですか」
保育士たちは興味深そうに推測を始めた。
園長は首を横に振った。
「そこまでは、私も聞いていません。ただ、友人は本当に突然だったと言っていた気がします」
突然の閉園。
宏太にとっては、三十五年前に起きた出来事でしかなかった。
保育園とは、そういうものだと思っていた。
だが、現在の保育園で働き始めた今なら分かる。
一つの保育園には、大勢の園児と保護者がいる。保育士、調理師、事務職員も働いている。
それが突然なくなる。
何の理由もなく、そんなことが起きるのだろうか。
歓迎会を終えて家へ帰ると、宏太はパソコンを開いた。
検索欄へ入力する。
> 獅子王の子保育園 閉園
検索結果には、関係のない保育園や昔話ばかりが並んだ。
名前を引用符で囲み、地域名を加える。
閉園。
廃園。
経営。
事故。
思いつく言葉を組み合わせたが、獅子王の子保育園について書かれたページは一つも見つからなかった。
三十五年前。
まだ、誰もがインターネットを使っていた時代ではない。
当時の小さな保育園が閉園した理由など、ネット上に残っていなくても不思議ではなかった。
「本当に、何があったんだ?」
宏太は、手がかりのない画面を見つめた。
自分が知る獅子王の子保育園は、子供の頃の記憶だけだった。
その裏には、自分の知らない事情があったのかもしれない。




