書きたくない物語
保育園で働き始めて、一週間が過ぎた。
宏太は毎日、園児攻略マニュアルを書き直した。
突然話しかけられた場合。
同じ質問を繰り返された場合。
折り紙が何に見えるか尋ねられた場合。
昼食を欲しがられた場合。
初日になかった事例が起こるたび、帰宅後にエージへ相談し、対応方法を追加した。
マニュアルは十ページから二十ページになり、やがて三十ページを超えた。
それでも、園児たちには通用しなかった。
「こうた先生、これ何色?」
「赤」
「違う。いちご色」
翌日、別の園児が同じ色を尋ねてきた。
「いちご色」
「赤だよ」
正解は、質問した本人の中にしかなかった。
泣いている園児へ「悲しかったんだね」と声をかければ、「悲しくない」と怒られた。
けんかをした二人から事情を聞こうとすれば、途中で仲直りして一緒に走っていった。
転んだ子に駆け寄ると、「自分で立てる」と手を振り払われた。次の日、別の子が同じように転んだので見守っていると、「どうして助けてくれないの」と泣かれた。
同じ状況でも、相手が変われば答えも変わる。
昨日うまくいった方法が、今日は通用しない。
医療機器なら、不具合の原因を特定すれば同じ方法で直せた。
だが、子供は機械ではなかった。
その日の夜。
宏太はエージを開いた。
> 教えてもらった対処法が、ほとんど役に立ちません。
すぐに返事が表示された。
> 子供への対応に、常に正解となる一つの方法はありません。年齢や性格だけでなく、その日の体調や気分、相手との関係によっても反応は変わります。対処法を当てはめるより、まずその子を知ることが大切です。
「それを最初に言えよ」
> 前回の回答でも、子供への対応はマニュアルどおりに進まないとお伝えしました。
「うるさいなぁ、確かに言ってたよ……」
宏太は椅子の背にもたれた。
机の横には、三十ページを超えた園児攻略マニュアルが置かれている。
発生しやすさ。
危険度。
初期対応。
保育士へ引き継ぐ基準。
一週間かけて作ったものが、急に分厚いだけの紙束に見えてきた。
「完全に俺の負けじゃないか」
剣と魔法の異世界では、主人公へ五つの能力を与えた。
どんな敵にも負けない剣。
あらゆる魔法を使う力。
相手の能力を奪う力。
壊れた物を直す力。
けがや病気を治す力。
だが、保育園へ転生した主人公には、そのどれも役に立たない。
必要なのは、折り紙の犬が何犬なのかを見抜く力だ。
赤と答えるべきか、いちご色と答えるべきかを判断する力だ。
から揚げを守りながら、五歳児からケチと思われない力だ。
宏太は、思わず笑った。
「逆だな」
異世界へ行って無双する話ではない。
どこへ行っても自信満々だった男が、子供しかいない世界へ放り込まれ、何一つ思いどおりにならない話。
宏太は新しい文書を開いた。
書こうと思ったわけではなかった。
ただ、題名だけを打ち込んでみた。
> 『敏腕営業マン、子供だけの異世界で逆無双される』
「ださいな」
そう言いながらも、宏太は本文を書き始めた。
主人公は、四十歳の営業マン。
どんな取引先とも交渉でき、数字と論理で相手を納得させてきた男だった。
ある朝、通勤電車で目を閉じ、次に目を開けると、子供しか存在しない世界へ転生している。
主人公は、自分の交渉術があれば子供たちをまとめられると考える。
だが、最初に出会った子供から尋ねられる。
「おじさん、なんでおじさんなの?」
何と答えても、「なんで?」が返ってくる。
町へ入るためには、門番の子供が出すなぞなぞに答えなければならない。宿屋では、折り紙で作られた動物をすべて言い当てなければ泊めてもらえない。
食事をしようとすれば、子供たちがから揚げを欲しがる。
国王に会いに行くと、王冠をかぶった五歳児から、床へ散らばったブロックを片づけるよう命じられる。
断れば、国中の子供たちが一斉に泣き始める。
剣も魔法も通用しない。
論理も経験も役に立たない。
主人公は子供たちに振り回され、失敗するたびに、自分のやり方を捨てていく。
気づけば、宏太の指は止まらなくなっていた。
園児たちに言われた言葉。
自分が困った場面。
答えられなかった質問。
頭をぶつけ、笑われたときの情けなさ。
すべてが、そのまま物語になった。
情景を無理に考える必要もなかった。
保育園で見たものを書けばいい。
人物の反応を想像する必要もない。
園児たちが実際にしたことを、少しだけ大げさにすればよかった。
一時間が過ぎた。
二時間が過ぎた。
それでも、宏太はキーボードを打ち続けた。
書きたいと思っていた物語ではない。
格好いい主人公も、倒すべき悪人もいない。
むしろ、自分をモデルにした主人公が、最後まで子供たちに負け続ける情けない話だった。
それなのに、不思議と書くのが楽しかった。
最後の一文を打ち終えたとき、窓の外は明るくなり始めていた。
文字数は、一万二千四百六十一文字。
黎明小説大賞へ応募するには、短すぎる。
だが、初めて自分の力で最後まで書き切った小説だった。
宏太は最初のページへ戻り、ゆっくりと読み返した。
直したいところはいくつもある。
同じ言葉も繰り返しているし、場面のつながりが分かりにくいところもあった。
それでも、前に書いた異世界小説とは違った。
読んでいると、園児たちの声が聞こえた。
主人公が困っている姿も、はっきりと浮かんだ。
「悪くない」
宏太は、素直にそう思えた。
エージを開き、完成した原稿を貼りつけた。
これまでのように、続きを書かせるためではない。
宏太は少し迷ってから、短い言葉を打ち込んだ。
> 読んだ感想を聞かせてください。
数秒後、エージの回答が表示され始めた。
> 営業では自信に満ちていた主人公が、子供だけの世界で何一つ思いどおりにできないという逆転が、物語の面白さになっています。特に「赤」か「いちご色」かで正解が変わる場面や、から揚げを守ろうとして「ケチ」と言われる場面には、実際に経験したからこその具体性があります。
宏太は、思わず顔をほころばせた。
「そこ、俺も気に入ってるんだよ」
> 一方で、主人公は最後まで子供たちに振り回されたままです。この経験によって、主人公の中で何が変わったのかが描かれると、物語の終わりがさらに印象的になると思います。
「変わったことか……」
宏太は原稿の最後を読み返した。
主人公は子供たちに勝てなかった。
だが、勝つ必要がないことには、少しずつ気づき始めている。
宏太は、その考えをエージへ打ち込んだ。
> 最後は、主人公が子供を言うことに従わせるのを諦めます。勝つんじゃなくて、一緒に遊ぶことにします。
> それなら、「無双できなかったこと」が主人公の敗北ではなく、成長になります。冒頭では子供たちを攻略しようとしていた主人公が、最後には攻略するという考え自体を捨てる構成にできます。
「そうか。最初と最後を反対にするのか」
宏太は感心しながらも、ふと手を止めた。
物語を考えたのは自分だ。
文章を書いたのも自分だ。
だが、エージの意見を聞いて、結末を変えようとしている。
それでも、自分が書いたと言っていいのだろうか。
宏太は、そのままの疑問を入力した。
> 今、書いているのは俺の作品だよな?
少し間を置いて、エージから返事が届いた。
> はい。宏太さんの作品で間違いありません。この物語のもとになった経験も、子供だけの異世界という発想も、登場人物へ込めた思いも、宏太さんから生まれたものです。
回答は、さらに続いた。
> 私は宏太さんの考えを整理し、別の角度から問い返しているだけです。いわば、壁打ちの相手です。
「壁打ち?」
> 自分の考えを誰かに話し、返ってきた質問や意見から、さらに考えを深めることです。答えを相手に作ってもらうのではなく、対話を通して自分の中にある答えを見つけます。
自分の考えを投げる。
エージから言葉が返ってくる。
その言葉を受けて、また新しい場面を考える。
「なるほど。これが壁打ちか」
これまでの宏太は、エージへ答えを求めていた。
面白い設定を作ってくれ。
続きを書いてくれ。
文章を整えてくれ。
だが、今は違う。
書くのは自分だ。
エージには、自分だけでは見えない方向から、物語を投げ返してもらえばいい。
「最強のコンビって、こういうことだったのかもな」
宏太は新しいコーヒーを入れると、自分の手で原稿の最後を書き直し始めた。




