園児に逆無双される
初出勤の日。
宏太は始業時刻の二十分前に保育園へ着いた。
園長からは、園児と直接関わる機会はそれほど多くないと聞いていた。
玄関近くの事務室で、パソコンや書類に向かっていればいい。
宏太は、そう思っていた。
だが、園児たちには関係なかった。
もともと男性職員の少ない保育園に、父親と同じくらいの年齢の男が突然現れたのだ。
興味を持つなというほうが無理だった。
宏太が事務室でパソコンの設定をしていると、開けたままの扉から三つの顔がのぞいた。
「だれ?」
一人が尋ねた。
「今日から事務の仕事をする、湊川です」
「みなとがわ?」
「うん」
「なんで?」
「なんでって……ここで働くことになったから」
「なんで、ここで働くの?」
質問に答えると、次の質問が返ってくる。
「パソコン、なにしてるの?」
「設定」
「せっていって、なに?」
「パソコンを使えるようにしてるんだよ」
「もう使ってるよ」
「まだ全部は使えないんだ」
「なんで?」
園児攻略マニュアルには、質問が終わらない場合の対処法は載っていなかった。
そこへ保育士がやって来た。
「みんな、湊川宏太先生のお仕事を邪魔しないの」
「先生?」
宏太は自分を指さした。
「俺も先生なんですか?」
「ここで働いている人は、みんな先生と呼んでるんで、すいませんが、それでお願いしていいですか」
保育士は笑いながら、園児たちを連れていった。
「湊川先生だって」
「こうた先生がいい」
「こうたせんせーい!」
三人は廊下の向こうから、何度も宏太の名前を呼んだ。
ようやく静かになったと思ったのも束の間だった。
保護者へ配る文書を作っていると、今度は一人の女の子が入ってきた。
「こうた先生、見て」
手には、折り紙で作った何かを持っている。
「何、これ?」
「犬」
宏太には、四本足の椅子に見えた。
「上手だね」
「どこが?」
「どこがって……全体的に」
「犬に見える?」
「見えるよ」
「じゃあ、何犬?」
そこまで決めてから持ってきてほしかった。
「柴犬かな」
「違う。トイプードル」
「そうか」
女の子は不満そうな顔で、折り紙を持って出ていった。
午前中だけで、何人もの園児が事務室を訪れた。
新しい靴を見せに来る子。
昨日、家でカレーを食べたと報告する子。
飼っているカブトムシの名前を教えに来る子。
宏太が尋ねてもいないのに、父親が朝寝坊したことまで話す子もいた。
仕事の邪魔をしに来ているわけではない。
園児たちはただ、宏太へ自分のことを知ってもらいたいらしかった。
昼食の時間になると、宏太も職員用のテーブルで弁当を広げた。
食べ始めた途端、園児がやって来た。
「こうた先生、何食べてるの?」
「から揚げ」
「一個ちょうだい」
「駄目だよ」
「なんで?」
「俺の昼ご飯だから」
「いっぱいあるよ」
「いっぱいあっても駄目」
「けち」
前の会社でケチな上司と渡り合ってきた宏太が、今度は五歳児からケチと言われていた。
午後には、年長の部屋にあるパソコンが動かないと呼ばれた。
宏太が机の下へ潜り、配線を確認していると、背中を指でつつかれた。
「こうた先生」
「今、仕事中」
「大変なの」
「ちょっと待って」
「でも、大変なの」
宏太は机の下から顔を出した。
「何があった?」
「けん君が、私のブロック取った」
これこれ、園児攻略マニュアルにあった事例だ。
状況二、園児同士の戦闘。
両者を引き離し、双方から事情を聞き、原因を特定する。
「けん君は、どこにいる?」
「あそこ」
女の子が指さした先で、男の子が泣き始めた。
その隣では、別の園児が「取ってない」と叫んでいる。
さらにもう一人が、床へ散らばったブロックを拾い集めていた。
誰がけん君で、誰がブロックを取ったのか分からない。
宏太が立ち上がろうとした瞬間、机の角に頭をぶつけた。
「痛っ!」
園児たちが一斉に笑った。
「こうた先生、泣く?」
「泣かないよ」
「痛いときは、泣いていいんだよ」
昨日、エージに言われたのと同じようなことを、今度は五歳児に言われてしまった。
その日の仕事が終わる頃には、宏太はぐったりしていた。
パソコンの設定はできた。
文書も作った。
請求書の確認にも問題はなかった。
だが、園児攻略マニュアルは、ほとんど役に立たなかった。
子供は一人ずつ順番に泣かない。
質問も、けんかも、報告も、こちらの仕事が終わるまで待ってはくれない。
状況を分析している間に、別のことが起きる。
対応策を選んでいる間に、本人の気分が変わる。
宏太が十八年間使ってきた経験も、論理も、五歳児の前では簡単に崩された。
保育園という異世界で無双する。
そんな自分を少しでも想像したことが、恥ずかしくなった。
「完全に逆無双されたな……」
宏太は誰もいなくなった事務室で、一人つぶやいた。




