新しい異世界
久しぶりに袖を通したスーツは、少し窮屈だった。
会社を辞めてから三か月。ネクタイを締め、革靴を履くのも、退職した日以来だった。
宏太は鏡の前で襟元を整えた。
「まあ、面接だからな」
もともと希望していた就職先ではない。
母親に勧められ、ほかに応募できそうな求人もなかったから、話だけでも聞いてみようと思った。それだけだ。
落ちても困らない。
採用されなくても、別に構わない。
そう言い聞かせながら、家を出るまでに三度、履歴書が鞄に入っているか確かめた。
志望していた仕事でなくても、面接は面接だった。
誰かに自分の価値を判断される。
そう考えるだけで、自然と背筋に力が入った。
保育園までは、歩いて十五分ほどだった。
住宅街を抜けると、白い二階建ての園舎が見えてきた。その隣には市立小学校があり、二つの敷地を隔てるフェンスの一部には、小さな通用門が設けられている。
園児の多くは、卒園するとそのまま隣の小学校へ進むらしい。保育園で一緒に遊んだ子供たちが、翌年からは同じ小学校へ通う。友達と別れることなく、少し大きな校舎へ移っていくのだ。
そこにあったのは、宏太の知る保育園とはまるで異なる光景だった。
獅子王の子保育園では、朝になると園児全員が園庭へ整列させられた。冬でも上半身は裸だった。
「獅子王の子は、寒さに負けない!」
先生の掛け声に合わせ、乾いたタオルで腕や胸、背中をこする。寒風の中で行う乾布摩擦から、一日が始まった。そのあとは英語、読み書き、そろばん、ダンスと、できそうなことは何でもやらされた。そのおかげで、自分は大学まで行けたようなものだが。
目の前の保育園は、特別な教育を売りにしているわけではなかった。
園庭には平均台や鉄棒が置かれていたが、跳び箱の八段は見当たらない。教室の窓から聞こえてくるのも、九九を唱える声ではなく、子供たちの笑い声だった。
玄関横の掲示板には、園の方針が書かれている。
一人ひとりの個性を大切にし、遊びを通して、のびのびと育てます。
「のびのび、ねえ」
獅子王の子保育園とは、何もかもが正反対だった。
獅子王の子供たちは、何にでも挑戦させられた。
できることが増えるたび、先生たちは「またヒーローに近づいたね」と褒めてくれた。
ここでは、誰もヒーローになることを求められないのかもしれない。
その代わり、友達と一緒にいる時間は途切れずに続いていく。
どちらが幸せなのだろう。
宏太が園庭を眺めていると、三人の園児が一つのボールを追いかけて走っていった。
一人が転ぶ。
残る二人は先へ行かず、すぐに引き返した。
三人はまた並んで走り始める。
宏太は、その後ろ姿を目で追った。
自分たち三人にも、こんな時間が続くはずだった。
「湊川さんですか?」
声をかけられ、宏太は振り返った。
エプロン姿の女性が、玄関の前に立っていた。
「園長がお待ちです。どうぞ、中へ」
「あ、はい。本日はよろしくお願いします」
宏太は反射的に頭を下げた。
もう誰かの顔色をうかがい、頭を下げる仕事はしたくない。
そう思って会社を辞めたはずなのに、体は十八年間の習慣を忘れていなかった。
案内された部屋には、園長と事務長が待っていた。
宏太は二人へ履歴書を渡し、勧められた椅子に座った。
退職した理由。
これまで担当してきた仕事。
パソコンをどの程度使えるのか。
質問には問題なく答えられた。
十八年間、医療機器の営業として、何人もの医師や病院の管理職を相手にしてきた。面接官が二人くらいなら、緊張する必要はなかった。
「湊川さんは、子供がお好きですか?」
園長から尋ねられ、宏太は一瞬だけ言葉に詰まった。
子供は好きか。
考えたこともなかった。
宏太は独身で、子供もいない。親戚の子供と顔を合わせる機会はあっても、どのように話しかければいいのか分からなかった。
正直に言えば、得意ではない。
大声で泣かれると困る。何を考えているのか分からないし、突然走り出す。こちらの説明を最後まで聞くとも限らない。
医師よりも扱いにくいかもしれなかった。
「はい。好きです」
気づけば、そう答えていた。
「子供たちの成長を支える仕事には、大きなやりがいがあると思っています」
そこまで口にしてから、自分でも驚いた。
昨日まで、保育園で働くつもりなどなかった。
母親に言われ、仕方なく面接へ来ただけだった。
それなのに今は、なぜか採用されたいと思っている。
園長は満足そうにうなずいた。
「お願いするのは、主に園の事務です。園児の情報管理や保護者への文書作成、備品の発注、請求書の確認などですね」
「はい」
「それから、職員は機械に詳しくない者が多くて。パソコンやプリンターの設定、不具合が起きたときの対応もお願いできればと思っています」
宏太は仕事内容の説明を聞きながら、頭の中で整理した。
難しい仕事ではなさそうだった。
文書や表の作成なら、会社員時代に何度もやっている。備品の発注や請求書の確認も問題ない。パソコンや通信機器の設定も、工学部出身の自分なら対応できる。
園児を抱き上げたり、一緒に歌ったりするわけではない。
事務室から保育園を支える仕事だ。
「問題ありません」
今度は迷わず答えた。
面接は、その後も滞りなく進んだ。
園長と事務長は何度もうなずき、最後には勤務開始日についても尋ねてきた。
「結果は一週間以内にご連絡します」
「よろしくお願いいたします」
宏太は頭を下げ、保育園を出た。
来たときよりも、足取りが軽かった。
医療機器メーカーから、保育園の事務職へ。
仕事内容も、働く相手も、これまでとはまるで違う。
「考えてみたら、ここが異世界なんじゃないか?」
剣も魔法もない。
王も魔物もいない。
いるのは、大勢の園児と保育士たちだ。
パソコンや通信機器の知識を持つ自分が、機械に詳しくない保育園へ送り込まれる。
「まさか、俺はここで無双するのか?」
園児たちの声が、園舎の外まで響いていた。
宏太は少し考えた。
「いや、子供たちに逆無双される可能性もあるな」
採用されるかどうかも、まだ決まっていない。
それでも宏太は、働き始めたあとの自分を想像しながら家路についた。




