保育園の求人
小説を書き始めてから、一週間が過ぎた。
宏太は毎日、パソコンの前に座っていた。
いくつもの物語を考えた。
未来から来た男が、過去の自分を助ける話。
人の心が読めるようになった会社員が、職場の秘密を暴く話。
記憶を失った刑事が、過去に自分の犯した事件を追う話。
どれも思いついた瞬間は面白く感じた。
しかし、インターネットで調べると、似たような小説や映画がすぐに見つかった。
「これもあるのかよ」
物語など、すでに出尽くしているのかもしれない。
それでも、宏太が考え続けている間に、日常は勝手に進んでいく。
家賃の引き落とし日が近づき、預金残高は少しずつ減っていた。不採用を知らせるメールは届いても、面接の案内は来ない。
そんな宏太を見かねたのか、母の雅子から電話がかかってきた。
『宏太、仕事は決まったの?』
「今、探してるよ」
『何ヶ月も、何を探してるの』
「俺に合う仕事だよ」
『向こうにも、選ぶ権利があるんだからね』
「分かってるよ」
母親というものは、なぜ一番言われたくないことを迷わず口にできるのだろう。
『近所の保育園で、事務の人を募集してるんだって』
「保育園?」
『そう。パソコンが使える人を探してるみたい。書類を作ったり、電話に出たり、備品を注文したりする仕事だって』
「なんで俺が保育園で働くんだよ」
『無職だからでしょう』
宏太は言葉に詰まった。
『ずっと営業をするのが嫌で会社を辞めたんでしょう。事務なら、外を回って頭を下げなくてもいいじゃない』
「そうだけどさ」
『家からも歩いて行けるし、一度話だけでも聞いてきたら?』
保育園の事務。
これまで考えたこともなかった仕事だった。
医療機器の知識は役に立たない。工学部を出た意味も、十八年間の営業経験も、ほとんどないように思えた。
だが、今の宏太には、それを理由に断れるほど多くの選択肢もなかった。
『募集の紙、あとで持っていくからね』
「ちょっと待てよ。まだ行くとは——」
電話は切れていた。
宏太は暗くなった画面を見つめた。
「保育園か……」
その言葉を口にしたとき、宏太の中に、遠い昔の記憶がよみがえった。
獅子王の子保育園。
今になって考えれば、ずいぶんと大げさな名前だった。
しかし、その名に恥じない教育をする保育園でもあった。
モンテッソーリ教育や独自の計算方法、運動能力を伸ばすための特別なプログラム。幼い宏太にはよく分からなかったが、とにかく毎日、何かに挑戦させられていた。
年長になる頃には、宏太は九九をすべて言えた。
友達の健太は運動が得意で、跳び箱の八段を軽々と跳び越えていた。
そして、いつも二人と一緒にいたのが湊だった。
宏太、健太、湊。
三人は、自分たちを「獅子王の三勇士」と呼んでいた。
先生たちは、いつも言っていた。
「獅子王の子は、何にだってなれるよ」
宏太も、本気でそう信じていた。
だが、獅子王の子保育園は、宏太たちの卒園を待たずに閉園した。
「そういえば、潰れたんだよな」
理由は覚えていない。
園児が集まらなかったのか、独特な教育に金をかけすぎたのか。大人たちが慌ただしく話していたことだけは、かすかに覚えている。
宏太たちは、それぞれ別の保育園へ移ることになった。
毎日一緒に遊んでいた二人とも、離れ離れになった。
最後のお別れ会の日。
宏太と健太と湊は、園庭の隅にある大きな木の下へ集まった。
「大人になったら、またここに集まろう」
健太が言った。
「そのときは、三人ともヒーローになってるんだぞ」
湊が手を差し出し、その上に宏太と健太も手を重ねた。
三人は、それぞれの場所でヒーローになり、いつかもう一度、獅子王の子保育園へ戻ってくると約束した。
あの頃の宏太たちにとって、ヒーローとは特別な力を持ち、誰からも尊敬される人間だった。
だが、閉園した保育園へ戻る日は来なかった。
小学校も別々だった。
連絡を取ることもなく、二人がどこに住んでいるのかさえ分からなくなった。
そして三十五年が過ぎた。
「ヒーローどころか、無職だけどな。お前らは、ヒーローになれたのか」
答える者はいない。
宏太は新しい文書を開いた。
何を書くのかは、まだ決まっていない。
それでも、物語を書こうとする手だけは止まらなかった。




