閑話 家庭教師 マルク・ハインツの受難 上 ~受難の始まり~
箸休め的な話です。
ベルクたちの家庭教師を務めるマルク・ハインツさんのお話。
上・中・下の3回構成予定で、中以降は割と酷い目に遭いますw
閑話 マルク・ハインツの受難 上
人は、いつか終わる。
ただ、それがいつなのか分かるのは、だいたい終わる少し前になってからだ。
若いころは、この年になる前にとっくにくたばっているものだと思っていた。
太く生きて、ぽっくり逝く。
そんなものだと。
だが、そう都合よくはいかない。
妻は二十年前に亡くなった。
息子も五年前に病で死んだ。
若くして、というわけではない。
まあ、順当に近い年齢での病死だった。
中央学術院を出て、若いころは才人ともてはやされもした。
だが、世の中には自分より優れた人間などいくらでもいる。
この年まで大きな成功はない。
かといって、完全に落ちぶれたわけでもない。
なんとか食っていける。
そういう生活を、長く続けてきた。
高齢になっても、腹は減るし金はかかる。
働かねばならない。
ここ数年は、トルガ家で家庭教師をして食いつないでいる。
「今日は、教え子が増えるのだったな」
今は二人を同時に教えている。
それが三人になる。
人数に比例して、というほどではない。
だが、多少手当てはつく。
労働時間が増えるわけでもない。
マルクにとっては、歓迎すべきことだった。
いつものように、教室として使われている部屋の扉を開ける。
確かに、見慣れない顔が一人いた。
「マルク先生。ベルク・トルガです。よろしくお願いします」
ベルク様の第一印象は、悪くなかった。
というより、思っていたよりずっと良かった。
相手は貴族の子で、こちらは雇われの家庭教師である。
ふてぶてしく椅子に座ったまま、こちらが頭を下げるのを待っていても、別におかしくはない。
そういう子どもはいる。
というより、珍しくない。
貴族の子どもは、自分が偉いことを先に覚える。
文字より先に、それを覚える者もいる。
だが、ベルク様は椅子から降り、こちらを見て名を告げた。
発音は、まだ少し幼い。
背も低い。
袖口から出た手も小さい。
それでも、言葉の置き方だけが妙に整っていた。
「マルク・ハインツでございます。本日より、読み書きと計算、それから家のことを少しずつお教えいたします」
「はい。よろしくお願いします」
返事も早い。
アルノルト様は姿勢がよく、覚えも早い。
ただ、間違えることを嫌う。
そのせいで、答える前に少し固まることがある。
子どもの機嫌を損ねてクビになってはかなわない。
バルド様はそもそも勉学が好きではないのだろう、お休みになっていることが多い。
ただ、何も学習していないとなると私の責任問題にもなる。
ここだけは覚えてほしい、というところでは起こしたうえで、根気よく教えている。
では、ベルク様はどうか。
正直に言えば、私は少し困っていた。
レオンハルト様からは、あらかじめこう言われていた。
「ベルクのために、特別な授業を用意する必要はない。まずは兄たちと同じ席に座らせてくれ」
そういう話だった。
教える側からすると、これがなかなか難しい。
アルノルト様は十歳。
バルド様は八歳。
すでに文字も数字も、最低限は扱える。
そこへ、六歳の子どもが入る。
しかも、まだ正式な授業を受けたことがないという。
普通なら、座って聞いているだけでよい。
分からない言葉が多くても仕方ない。
授業という場に慣れる。
兄たちが何を学んでいるのかを見る。
それだけでも、最初は十分だろう。
私はそう考えていた。
だから、その日の授業も、予定を変えなかった。
「前回の続きです」
今日は、簡単な面積の計算を扱うつもりだった。
縦にいくつ。
横にいくつ。
それを数え、土地の広さを考える。
貴族の子どもに算術を教えるなら、避けて通れない話である。
領地を持つ家の子は、いずれ土地を見る。
畑。
牧草地。
森。
屋敷地。
道。
村と村の境。
それらがどのくらいの広さで、どのくらいの収穫を生み、どのくらいの税に関わるのか。
全部を自分で測る必要はない。
だが、数字を見て何のことか分からないようでは困る。
アルノルト様には少し易しい。
バルド様には、まあ、ちょうどいい。
ベルク様には、おそらく早い。
そう思っていた。
「今日は、土地の広さについて少し学びます」
私は、三人の前に石板を置いた。
あらかじめ同じ問題を書いておいたものだ。
問題は十題。
四角く区切られた畑の図を見て、広さを数える。
ごく簡単なものから、少しだけ形を変えたものまで。
貴族の子どもに教える算術としては、特別難しくない。
だが、最初に見るにはちょうどいい。
数を追えるか。
図を見て、必要なところを数えられるか。
途中で投げ出さないか。
そういうことが分かる。
「分からないところがあれば、手を上げてください」
アルノルト様は、すぐに石筆を取った。
姿勢もよい。
問題に向かう時の顔も落ち着いている。
この年の子どもとしては、十分に優秀である。
バルド様は、石板を見て少し顔をしかめた。
数字だけの問題よりはましだが、面積の計算が好きという顔ではない。
分かりやすい。
剣の稽古なら、もう少し目が生きるのだが。
そして、ベルク様。
石板を両手で受け取ると、まず全体を見た。
一問目から順に解くのではなく、十題すべてを眺めた。
その時点で、少し妙だった。
子どもは普通、目の前の一問目に飛びつく。
あるいは、分からなくて固まる。
全体を先に見る子どもは、あまりいない。
ベルク様はしばらく石板を見てから、石筆を取った。
アルノルト様は、いつも通り丁寧に解いていた。
バルド様は、石筆で頭をかき始めた。
「バルド様。頭ではなく石板に書いてください」
バルド様は、少しだけ口を尖らせて石板に戻った。
しばらくして、アルノルト様が石筆を置いた。
ベルク様に視線を戻したとき、ベルク様はすでに石筆を置いていた。
最後に、バルド様が石板をこちらへ押し出す。
「できた」
「では、見ましょう」
私は三人の石板を回収した。
まずはアルノルト様。
十題中、九題正解。
一問だけ、形の変わった土地を普通の四角として数えている。
惜しい。
「アルノルト様、よくできています。こちらの問題は、欠けている部分を引く必要がございます」
「はい」
アルノルト様は静かに頷いた。
間違えたことを嫌がる顔だった。
だが、取り乱しはしない。
そのあたりは、さすが長男と言うべきか、少し可愛げがないと言うべきか。
いや、私が言うことではない。
次に、バルド様。
十題中、六題正解。
単純な形はできている。
少し形が変わると、急に怪しくなる。
最後の方の問題には、石板の端に小さな剣のようなものが描かれていた。
一問でも合っていればと思っていたベルク様は……
十題、すべて正解だった。
「……満点です」
私がそう言うと、バルド様が目を丸くした。
「ベルク、全部できたのか」
「はい」
バルド様は、少し悔しそうだった。
だが、怒っているわけではない。
むしろ、面白いものを見つけた顔に近い。
アルノルト様は、ベルク様の石板を見た。
表情はあまり変わらない。
ただ、口数は減った。
「ベルク様」
「はい」
「どこかで、習いましたか」
「いえ。今日が初めてです」
そんなわけはない。
頭の回転がよければというより、解き方を知っているかがカギになるタイプの問題だ。
確実に嘘である。
レオンハルト様が、特別な授業は不要だと言ったことを考えれば、何か、こちらに知らされていない事情があるのだろう。
ただ、貴族の家のことだ。
色々と人に言えないことがあるのかもしれないし、そんなものに足を突っ込みたくない。
生徒が優秀。
良いことではないか。
私は何も気にならない。
「では、今日はここまでにしましょう」
結局今日の授業で、ベルク様はすべての問題を正解した。
どの程度できるのか試す意味で、年齢を考えればまず正解できないだろう問題をいくつか混ぜたのだが、なんとそれらまで正解してきた。
それだけでなく、その後の歴史の授業では、素人質問と言いながら鋭い質問を連発してきた。
授業が終わり、三人が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
高度な教育を受けているというレベルでは絶対にない。
というか、本当に六歳だろうか。
まあ、なんにせよ生徒が優秀なのはよいことだ。
そうやって疑問を頭の奥にしまい、家路についた。
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後年、歴史家が齢九十となったマルク・ハインツ氏に話を聞いたところ、氏はこう答えたという。
今思えば、この時、家に帰って荷物をまとめ、すぐさまトルガ領を去るべきだったのだ。
この時の私は、まだ何も分かっていなかった。
あのベルク・トルガ・リストレインの教師になるという意味を。
あのベルク・トルガ・リストレインを育てたと思われることの意味を。
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引き続き、ベルクたちの物語をよろしくお願いします。




