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第2話 寝て起きたら、妾腹の三男でした

第2話 寝て起きたら、妾腹の三男でした


小柳哲司は、歴史が好きだった。


きっかけは、中学のころ流行ったゲームだ。


歴史や神話上の偉人が出てくるやつである。


最初は普通にゲームをしていた。


強いキャラを引いて、育てて、敵を倒して、イベントを走る。


健全な中学生の時間泥棒だった。


だが、ある時ふと、そのキャラの元ネタが気になった。


Wikipediaを開いた。


そこから先は、坂道だった。


転がり落ちる方の坂道である。


おりしも、調べようと思えばスマホでなんでも調べられる時代だった。


気づけば、ゲームそっちのけで朝から晩まで歴史のことを調べていた。


二千年以上前の構造物が、今も残っていることに感動した。


人類が初めて金属を加工しようとした理由も面白かった。


きれいなものが欲しかったのか。


丈夫なものが欲しかったのか。


それとも、たまたま火の中に入れた石が変な光り方をしたのか。


真相は知らない。


だが、誰かが最初に「これ、使えるんじゃないか」と思った瞬間があったはずだ。


その瞬間を想像すると、妙に楽しかった。


紀元前の人間であるハンニバルの戦い方が、現代でも軍事史の教材として語られていることにも驚いた。


象で山を越える。


まず発想がおかしい。


いや、正確にはそこだけが本質ではないのだが、中学生には象の印象が強すぎた。


歴史は、遠い過去の話ではなかった。


今いる社会の地面の下に、ずっと積み重なっているものだった。


掘れば出てくる。


掘りすぎると帰ってこられなくなる。


俺は、まあまあ帰ってこられなくなった。


そんな俺の歴史好きを、親も応援してくれた。


高校卒業後、そんなに悪くない大学の史学科に進んだ。


座学の授業は、思いのほか退屈だった。


いや、授業が悪かったわけではない。


単に、それまで自分で調べて知っていることが多かっただけだ。


自分で言うと嫌な感じだが、事実なので仕方ない。


一方で、史跡をめぐったり、歴史上の遺物を観察する実習は楽しかった。


実物には、文字とは違う圧がある。


石。


土。


錆びた金属。


欠けた土器。


資料集では一行で済むものが、目の前にあると妙に黙らされる。


卒論のテーマは、ヒッタイト文明の農耕についてだった。


なぜそれを選んだのかと聞かれると、少し困る。


面白かったから、としか言いようがない。


鉄と戦車と条約ばかり語られがちな文明が、では何を食べ、どう畑を回し、どう家畜を扱っていたのか。


そういう地味な部分が気になった。


戦争は目立つ。


王の名前も残る。


だが、人間は毎日食わないと死ぬ。


国もだいたい同じだ。


卒論は、割と評判がよかった。


卒論がだいたい載るような学内の学術誌でも、ちょっとだけ大きく取り上げられた。


ちょっとだけである。


歴史に名を刻んだわけではない。


学内誌の数ページに、うっすら足跡がついただけだ。


それでも、当時の俺はかなり嬉しかった。


そうやって俺の執行猶予は終わった。


モラトリアム、と言ってもいい。


ただ、執行猶予の方がしっくりくる。


社会という刑場へ連行される前の、最後の猶予期間みたいなものだったからだ。


大学三年の夏には気づいていた。


歴史を仕事にするというのは、とんでもなく難易度が高い。


高倍率の企業に入る、というのとは別種の難しさだ。


そもそも金になりにくいことをやって、金をもらう必要がある。


なかなか無茶な話である。


もちろん、全く無理というわけではない。


大学院に進む。


研究者を目指す。


博物館、資料館、文化財関係、出版、教育。


道はある。


あるにはある。


ただ、細い。


しかも渋滞している。


院まで進むのは難しいと言っていた親に、土下座してみるかとも思った。


思っただけではない。


わりと真剣に考えた。


だが、結局そうはしなかった。


悩んだ末に考えたのは、そんな話が学んだ歴史にあったか、ということだった。


歴史は、いつも進歩の話だった。


生産の話だった。


何かを進めようとする意志の話だった。


もちろん、歴史を記録し、研究し、後世に残す人たちは必要だ。


そこを軽く見る気はない。


むしろ深く尊敬している。


彼らがいたからこそ、俺は歴史を知れた。


知ったことを、自分の判断に使えるようになった。


ただ、俺自身は、歴史を評価したり記載したりするより、歴史から学んで何かに使う方が好きだったのだと思う。


それだけの話だ。


別に、自分が歴史に名を刻みたいと思っていたわけではない。


そんな大それた野心はなかった。


だが、せっかく学んだなら、どこかで使いたい。


それくらいは思っていた。


なので俺は、普通に就職した。


史学科なんて就活は苦戦するものと思っていたが、意外となんとかなった。


ポンペイや万里の長城で発掘調査に参加した話の受けがよかったのだ。


国の金で行ける調査には、積極的に参加しておくべきである。


人生、どこで何が面接官に刺さるか分からない。


それが三年前の話だ。


以来、俺は普通のサラリーマンとして、平凡だが少なくとも不幸ではない日々を過ごしていた。


仕事は好きでも嫌いでもなかった。


どちらでもない、と言うと投げやりに聞こえるが、そういうわけでもない。楽しくない日もあれば、悪くない日もある。給料が出て、家賃が払えて、たまに旨い酒も飲めた。


大人の幸福は、だいたいその辺に小さく積まれている。


ただ、大学のころ「歴史から学んで何かに使いたい」と考えていたものが、毎朝の通勤や会社のデスクのどこに繋がっているのかは、三年経っても正直よく分からなかった。分かろうとする余裕も、少しずつなくなっていった。


職場のメールを片づけ、取引先の機嫌を読み、上司の予定を確認し、後輩のミスの後始末をして、自分のミスを謝る。そういうことを一通りやると、夜には脳みそのどこかが空になっている。


歴史のことを考える時間も、じわじわ減っていった。書店で歴史書の背表紙を見ると手が止まるが、本を開いても三ページで落ちていた。


古代王国の盛衰より、明日の会議の方が怖い。


それが現代人の正直なところで、俺もすっかりその一人になっていた。


平均寿命まで生きるとして、あと五十年と少しか。歴史的なスケールで見れば、その間にヘビーなイベントの一つや二つはあるかもしれない。戦争、災害、金融危機、技術革新。やめてほしい。歴史は読む分には面白いが、当事者になるとだいたい最悪だと、ちゃんと学んでいる。


ふと気づくと、時計の針は二十五時を指していた。


家の時計ではない。


会社の時計だ。


今日は、とても疲れた。


取引先が、政府の補助金が減額されたことを理由に、納品予定だった太陽光パネルの受け取りを拒否した。


その対応を二十三時までやっていた。


電話。


メール。


確認。


謝罪。


こちらが悪いのか、制度が悪いのか、取引先が無茶を言っているのか。


たぶん全部少しずつ悪い。


そのあとタイムカードを押した。


終電は終わっていた。


どうせ帰れない。


そう思って、休憩室で酒を飲んだ。


しばらく意識を失っていたらしい。


足元には、ストロングと表記された缶が転がっている。


低質なアルコールと糖分の混合物が入っていた缶である。


少なくとも、文明の勝利ではない。


いくら休憩室での飲酒が禁止されていないとはいえ、この有様のまま朝を迎えていたら、しばらく小言を言われる。


缶を片づけようと立ち上がった。


その瞬間、不意に体から力が抜けた。


「ああ、そうか。今日はとても疲れたし、アルコールは毒物なのだから……」


そこまで考えた。


たぶん、考えた。


その先はなかった。


痛みもない。


走馬灯もない。


壮大な回想も、神秘的な声も、白い空間もない。


人生の終わりにしては、かなり雑だった。


翌朝、俺は目を覚ました。


そう思った。


正確には、目を覚ました、というより、意識がどこかに浮かび上がってきた。


体が重い。


いや、軽い。


どちらなのか分からない。


手足の感覚が変だった。


力が入らない。


視界もぼやけている。


天井が見えた。


木の梁。


白い壁。


窓から入る、薄い光。


見慣れた会社の休憩室ではなかった。


当然、俺の部屋でもない。


夢だと思った。


まあ、そうだろう。


会社の休憩室で安酒を飲んで寝た男が、目覚めたら六、七世紀くらいのヨーロッパ風の建物の中にいる。


現実としては、だいぶ無理がある。


明晰夢を見られるとは運がいい。


そう思った。


いや、明晰夢にしては体が動かない。


声も出ない。


口を開けようとしたら、変な音が出た。


「あ、あう」


待て。


今の何だ。


俺の声か。


喉がうまく動かない。


舌も回らない。


視線を動かすと、知らない女性の顔があった。


若い。


柔らかい茶色の髪。


疲れているが、優しそうな目。


彼女は俺を見て、ほっとしたように笑った。


何かを言った。


言葉は分からない。


だが、響きは人の言葉だった。


知らない言語。


知らない部屋。


動かない体。


そして、やたら近い天井。


俺は、そこでようやく気づき始めた。


体が小さい。


小さいというか、赤子である。


まさかの赤子。


会社の休憩室で寝落ちしたら、赤子になっていた。


人事異動にもほどがある。


いや、夢だ。


夢のはずだ。


俺はそう思うことにした。


明晰夢だ。


少し意識が朦朧としているが、古いヨーロッパ風の建築の家で赤子になるという夢だ。


設定が妙に細かい。


その日から、長い夢が始まった。


具体的には、おおよそ一か月になる。


一か月。


夢としては長すぎる。


俺は赤子として扱われていた。


抱かれる。


寝かされる。


布に包まれる。


乳を飲まされる。


泣く。


寝る。


排泄する。


以上。


文明人だったころの尊厳は、だいたい燃えるゴミに出されていた。


しかも自分で出せない。


赤子だからだ。


どうしようもない。


しばらく観察した結果、俺はいくつかのことを理解した。


まず、この家はかなり大きい。


使用人がいる。


部屋も多い。


食器も服も、平民のものには見えない。


たぶん貴族の家だ。


そして、俺は男児らしい。


これはまあ、前世と同じなので違和感は少なかった。


問題はその先である。


聞こえてくる名前。


周囲の態度。


部屋の扱い。


何度も繰り返される言葉。


少しずつ拾っていくうちに、頭の中に三つの単語が並んだ。


妾腹。


三男。


貴族。


その三つが赤子の頭の中で並んだ瞬間、俺は心の中で呻いた。


貴族の家に生まれたのは、一見当たりに見える。


食うに困らない。


屋根もある。


布も柔らかい。


赤子視点では、かなり大事な条件である。


だが、正統な後継者ではなく、妾腹の三男。


この世界の価値観はまだよく分からない。


分からないが、少なくとも安泰のポジションではなさそうだ。


嫡男ではない。


正妻の子でもない。


しかも三男。


相続レースで言えば、スタート地点が観客席である。


応援席から走れと言われても困る。


ただ、こんな小さな体で何かができるわけではない。


泣く。


寝る。


飲む。


排泄する。


以上。


人生二周目、序盤のコマンドが少なすぎる。


母の名は、ミラだった。


ただのミラ。


家名はない。


少なくとも、トルガではなかった。


父の名は、レオンハルト・トルガ。


この家の主らしい。


俺の名は、ベルク・トルガ・リストレイン。


長い。


赤子に背負わせる名前ではない。


いや、赤子に名前の長短は関係ないのかもしれないが。


ベルク。


ベルク・トルガ・リストレイン。


どうやら、それが今の俺の名前だった。


一番困ったのは、水だった。


この世界の衛生観念は、かなり怪しい。


ミルクらしきものはまだいい。


問題は、水だ。


煮沸していない水はまずい。


味ではない。


寄生虫や感染症的な意味でまずい。


赤子の内臓は弱い。


中身が二十代会社員でも、体は赤子である。


中の人など、胃腸は考慮してくれない。


水が差し出されると、俺は必死で顔を背けた。


侍女が困った顔をする。


もう一度、水を近づけてくる。


俺は泣いた。


全力で泣いた。


赤子の唯一にして最大の交渉手段である。


泣く。


さらに泣く。


人類は言語を獲得する前から、音量で要求を通してきたのだ。


侍女が慌てる。


ミラがやってくる。


俺は水を口に入れられそうになるたびに泣いた。


ミラが何かを言う。


侍女が湯を持ってくる。


一度沸かしたらしい湯を、冷ましてから俺に含ませた。


俺はそれなら飲んだ。


偶然だったかもしれない。


だが、それからミラは、俺に水を与える時、一度湯にしてから冷ますようになった。


母は偉大である。


そして俺は、赤子のくせに衛生革命の第一歩を踏み出していた。


スケールが小さい。


だが命は大事だ。


そんなことを繰り返すうちに、俺もいい加減分かり始めた。


これは夢ではない。


夢にしては、終わらない。


終わらないなら、もうそれは現実でいいのではないか。


嫌だが。


俺は、小柳哲司として死んだ。


たぶん。


そして、ベルク・トルガ・リストレインとして生まれた。


歴史で飯を食うことはできなかった。


だが、歴史で生き残ることになるかもしれない。


そう考えた瞬間、自分でも少し笑いそうになった。


もちろん、赤子なので笑い方は下手だった。


口元が変な形になり、ミラが嬉しそうに俺の頬をつついた。


違う。


今のは愛想笑いではない。


人生二周目への乾いた笑いだ。


だが、それを説明する言葉はまだない。


俺は小さな手を握った。


握ったつもりだった。


実際には、ただ指が丸まっただけかもしれない。


それでも、思った。


まったく。


これなら、邯鄲の夢だって、ただの与太話ではなかったのかもしれない。


できれば、もう少し寝心地のいい夢であってほしかったが。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


少しでも「続きが気になる」「ベルクの行く末を見てみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


感想も大歓迎です。

今後の執筆の参考にさせていただきます。


引き続き、ベルクたちの物語を楽しんでいただければ嬉しいです。

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