第13話 試験[挿絵有]
最大限控えめに評したとしても、常軌は逸していた。
ベルクから教科書が届いてからは特にそうだ。
ベルクとしては、救護院から受験するのは三人か、思ったより少ないなと思いつつ、送り届けた教科書だった。
机に向かうミュレは、ともかく普通ではなかった。
ミュレはグレーテに五冊の科目ごとの教科書を渡されて、次の朝五冊とも読んでいた。
ミュレは教科書を読んでも全然分からなかった。
そのまま、二回目を読み始めた。
救護院就寝時刻である十時にみんな寝るから、寝なさいと言われれば黙って外に出て教科書に向かった。
食事の時間、食堂に現れなかった。
二日徹夜で教科書を読んだ、五冊を三回。
就寝時間を過ぎた、深夜月明かりが注ぐ庭で、倒れるように寝た。
寝た方が頭に入るとわかると、就寝時間にちゃんと寝て、目が覚めたら教科書をまた読んだ。
グレーテさんは、救護院の誰かが授業に来ないことがあると呼びに行って怒る。
怒って、授業を受けさせる。
だがひたすら教科書に向かうミュレに対してはそうしなかったし、そうしないことをずるいという他の子供もいなかった。
この時のミュレにはある種の求道者が持つような神聖さがあった。
二週間後、毎月行われているテストの日、ミュレはふらりと、教室に現れた。
半分閉じた目、ボサボサの髪。
朝の水浴びもサボっているのか少し匂う。
ミュレはテスト時間の半分ほどで、回答を書き終えると石板を机に投げ捨てるように置き、帰っていった。
グレーテが後で採点したところ、10問中8問が正解だった。
8問目まで解答が書かれていて、最後の2問は解答されてなかった。
グレーテからみると、最近のミュレの言動は言語道断である、救護院院長としては断固として戒めなければならない責務もあると言えるだろう。
だが、グレーテはそうしなかった。
グレーテには三人の子供がいた、皆幼くして病で命を落とした。
グレーテの夫は、幼馴染で十八で結婚した相手だ。
グレーテと子供達を愛していた。
彼は子供の薬代を稼ぐため身を粉にして働いた。
その結果、体を壊し命を落とした。
グレーテは、子供のために自分を顧みず働く夫を止められなかったことを後悔している。
だが、グレーテは同時に彼を最高の夫だとも思っている。
自分に子供はもうない。
救護院の院長をやっているのも、多分そういう未練ゆえだ。
だから、救護院の子供が体を壊すようなことがないよう日々細心の注意を払っている。
それでも。
それでもだ。
グレーテはミュレの無理を制止しようとは思えなかった。
ミュレの姿が、自分が人生で見た最も美しいものに見えた。
へとへとになって、家の戸を開ける夫の姿とどこか重なったからだ。
ミュレにあったのは、一種の強迫観念だった。
今この時が全部だと言うものだ。
理屈はない、直感だ。
あの裏路地で、命を長らえたことの意味。それが無意味で終わるか、意味を持つかの分水嶺。
あの、暖かさに近づけるかの分水嶺。
月例テストから、一週間。
分かった事がある。
機能を維持しなければならない。
私という機能を。
そのために食べる、寝る。
そして、理解する。
理解できないものを理解する。
一度読んで何も分からなかった。
二度読んで少しわかった気がしたけど、問題は何も正解できなかった五十問中ゼロだ。
三度目、二問正解した。
書いて問題を解くと、ものをよく覚えるというのがわかった。
四度目は八問。
五度目で十二問。
十二回教科書を読んだとき、五十問正解した。
もう三回読んで、教科書に書いてることはほとんど覚えた。
まだ足りないと思ったので、グレーテさんに他の本はないかと聞いてみた、本は高いらしいし多分ないとは思いつつ聞いてみた。
次の日グレーテさんは本を持ってきてくれた。
ボロボロの本だった。
ベルク様の教科書より少し難しくて、解けない問題もかなりあった。
二月後、その本の問題も全部解けるようになった。
そのまた二月後、試験の日が来た。
試験の日の朝、救護院の門の前に三人が並んだ。
トイルは参考書をずっと眺めていた。
ビビは口を尖らせて、そんなトイルを馬鹿にしていたが、手に持った石筆を握ったり開いたりしている。
試験は紙への記述式なので、石筆は不要だ。
ミュレは、じっと前を見ていた。
「忘れ物はありませんね」
グレーテがそう言うと、トイルとビビは同時に頷いた。
ミュレは少し遅れて頷いた。
忘れ物はない。
持っていかなければいけないのは、木札一枚。
87
木札にはそう番号が彫られていた。
これが、私の受験番号らしい。
道中、トイルとビビは小声で問題の出し合いをしていた。
通りに出ると、人の数が増えた。
同じように学院へ向かう子供たちがいる。親に手を引かれている子。新品の服を着ている子。笑っている子。泣きそうな子。
その中で、ミュレたちの服は明らかに古かった。
トイルが少しだけ肩を縮めた。
ビビは逆に顎を上げた。
ミュレは何も思わなかった。
ミュレには関係がない事だったからだ。
学院の門が見えた。
救護院よりずっと大きな建物だった。
白い壁。整えられた道。
門の前には、子供と大人が集まっていた。
グレーテが足を止める。
「ここから先は、あなたたちだけです」
トイルが唾を飲んだ。
ビビが「分かってる」と言った。
ミュレは門を見ていた。
この中に入れば、あの人に近づけるかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴った。
けれどそれも、すぐに押し込めた。
今は、いらない。
ミュレは一歩、門の内側へ足を踏み入れた。
受付で木札を見せると、教室の場所を告げられた。
教室には、すでに何人もの子供がいた。
紙を見つめる子。
唇だけを動かしている子。
じっと机を見ている子。
ミュレは、八十七と書かれた机を見つけた。
椅子が一つ、そこにあった。
ミュレは静かに椅子を引き、席に座った。
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