第12話 ミュレと勉強[挿絵有]
朝。空が青くなって、澄んだ空気を感じるようになる時間。
救護院の朝は始まる。
はじめにすることは、院の裏手にある井戸に行ってタライ一つ分の水を汲むこと。
水を汲んで戻ったらまず、顔を洗う。
水面に、眠そうな翡翠色の目が映る。
ついで、水に浸してよく絞った麻布で体を拭く。
腕、足、お腹、胸。
全身を拭いていく。
院に来た当初、骨のようだった手足には肉がついてきて、女の子らしい柔らかさも感じられるようになっていた。
ぷにぷにとした体を、丁寧になぞっていく。
最後に外に出て頭を流し、別の麻布でよく拭く。
それが週に一度のお風呂の日以外の朝のはじめ方だ。
「ぷは」
ミュレは息を止めて一気に水をかぶると、綺麗な銀髪をグワシグワシというふうに拭いた。
そのあとはしばらく自由時間。
ぼーっとしてることもあれば、同じ院にいる子たちと遊ぶこともある。
今日はぼーっとしている日だ。
最近よく考える、自分は何なのだろうと。
ベルク・トルガ
頭の中に自分を助けてくれた少年の顔がチラつく。
助けられた時のことは覚えてない、ただグレーテ院長によれば大変失礼なことをしたらしい。
それが具体的にどんなことかは教えてくれなかった。
私が気に病まないようにという配慮だろうか。
ベルク様の顔を知ったのは、ここにきて十日ほど経った頃だ。
私たち孤児とベルク様が顔を合わせることはない、ベルク様がいらっしゃる時は部屋から出ないように言われるからだ。
ベルク様が来た日は食事はいつもより豪華になることがある、ベルク様が炊き出しの施策や他の理由で作ったものを持ってきてくれるらしい。
一度だけ、部屋から抜け出してベルク様を見に行ったことがある。
グレーテさんにバレないよう、遠くの窓から目だけをそっと覗かせた。
遠くだったけれど、ミュレは目がいいのでよく見えた。
知らない顔、なぜか少しだけ懐かしい顔、私をあの裏路地から拾い上げてくれた人の顔。
しばらく見つめていると、ベルク様がふとこちらを向いた。
目が合ったような気がした。
反射的に顔を引っ込める、顔がカッと熱くなるのを感じた。
部屋に駆け戻って、バタンと扉を閉める。
ベルク様と話してみたい。
お話ししてちゃんとお礼を言いたい。
扉を背にしてペタンと座ったミュレは自分がそう思っていることに気がついた。
相手は貴族様、自分は孤児。
普通なら、一生口を聞くこともない相手、近づくことさえ失礼になるかもしれない。
「やだな……」
ポタリ
ポタリ
ミュレの目から涙がこぼれた。
一年ほど前のことを思い出していたら、あっという間にお日様が高いとこに来ていた。
お鍋をオタマでガンガンと叩く音が聞こえてきた。グレーテの合図だ。
お昼の時間だ。
メニューは豆のスープと、堅焼きのパン。
救護院の子供達は食べるのが早い。ミュレも例外ではない。意地汚いというより、以前食べられなかった反動だろう。
なので、昼食の時間は二十分ほどに設定されている。
昼食が終わると、ミュレがあまり好きでない時間が来る。
救護院は、放っておけば路地裏や屋根裏で死んでしまうような子供達を保護し、一人で生きていけるようにする施設だ。
そのためには当然、読み書きぐらいはできたほうがいいので、院ではグレーテが簡単な授業をしている。
ミュレはこの時間が苦手だった。
何に使うかもわからないものを、頭ごなしに、覚えろと言われても意味がわからない。
数字の正解がわかればどうなると言うのか。
文字が書ければどうなると言うのか。
ただ、月に一回あるテストで、あまり正解できないとなんだか惨めな気持ちになるので、嫌々ながらも座って授業を聞いている。
それが、授業中のミュレだった。
今日も、瞼が落ちてきてしまうのを頑張って堪え、グレーテの言葉に耳を傾ける。
二が六つあればどうとか、そういう話をしている。よく分からないが、二はいくつあっても二だろう。
たくさん集まったからって、変わったりはしない、二は二だ。
クークー
ミュレは最大限耐えはしたが、授業の終わりあたりで撃沈し、浅い眠りに落ちていた。
「今日はみなさんに一つお知らせがあります」
ミュレの耳に、勉強でない音が入ってきて意識が浮き上がる。
「この救護院を設立してくださった、ベルク・トルガ様が今度 初等学院を設立されるとのことです」
ベルクという名前に意識が急に戻る。
ベルク様が学校を作る。
そうなると、ベルク様がここにきてくれることはさらに減ってしまうのだろうか、飢饉の頃は救護院によくきてくださっていたようだが、最近は三ヶ月に一度ぐらいだ。
「学院には一般試験による学費無料での入学枠が五名用意されています、非常に倍率の高い試験となると思われますが、ベルク様はみなさんに期待しており希望者には参考書を貸与くださるとのことです」
「また、この学院にはベルク様も頻繁に顔を出す予定とのことなので、合格すればみなさんの将来に良い影響があるかもしれません」
「受験の希望者は、この後私に申し出るように」
ガタン
「希望します!」
ミュレは立ち上がって言った。
グレーテさんは、少し驚いた顔でこちらをみた。
「言い忘れましたが、貸与くださる教科書は大変高価なものです、思いつきなどで気軽に希望するのは慎むように」
「気軽ではありません!」
グレーテは少し目を細めてミュレをしばらく見つめ、口を再び開いた。
「わかりました、ではまずミュレ」
結局、私に加えて二人。
合計三人が受験を希望した。
名前は、トイルとビビ。
テストで一番をどっちが取るかでいつも競争している二人。
だが、ミュレにとってそんなことはどうでもよかった。
あの日、裏路地で終わるはずだった命を拾われた。
拾われた命をどこに置くか、ミュレにとってそれは最初から決まっていた。
ベルク様のそばだ。
そのためにいま、できることは一つしかない。
その日、ミュレは頭の中でカチリと音が鳴ったような気がした。
歯車が、動き出す。
ミュレは翌朝から、誰よりも早く起きて机に向かった。
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