第六章 使われる者の論理
エリが一人で来るよう言ったのは、遠界から戻った翌日のことだった。
メッセージは短かった。尖塔の最上階。日没前。一人で。
シュウはレンに見せなかった。ハルにも、レオにも。
なぜかは分からない。ただ、見せない方がいいと思った。
最上階への螺旋階段は、上に行くほど本の数が減っていった。
下の階では、本が壁から溢れ、空中を漂い、腐りかけながらも存在していた。しかし、上に行くほど棚は空になり、やがて棚そのものも消えた。残ったのは、白い壁と、静寂だけだった。
最上階の扉は、鍵がかかっていなかった。
押すと、静かに開いた。
部屋は広くなかった。
窓が一つ。外には、白い砂漠が広がっていた。空には、いつもの三つの月。しかし、この高さから見ると、月が少しだけ小さく見えた。あるいは、この島が少しだけ大きくなったのか。
エリは窓の前に立っていた。振り向かなかった。
「来たわね」
「呼ばれたので」
「座りなさい」
椅子が一つあった。シュウが座ると、床がわずかに沈んだ。彼は慣れつつあった、その感覚に。
エリはしばらく何も言わなかった。
外の風景を見ていた。白い砂漠を。無数の砂粒を。それぞれが、誰かの書いた宇宙の残骸を。
「シュウ」彼女はようやく口を開いた。「あなたが来てから、島の安定度が三十二パーセント向上したわ」
シュウは何も言わなかった。
「遠界の裂け目は今日だけで七つ消えた。あなたが眠っている間に。あなたの存在が、この島の現実密度を底上げしているの」
「……それは、良いことなんだろうか」
エリはようやく振り向いた。
その顔は、疲れていた。本当に、心から疲れていた。シュウはそれを見て、これは演技ではないと思った。
「良いことよ」彼女は言った。「ここにいる全員にとって」
「僕以外の、全員にとって?」
エリは答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
シュウは部屋を見回した。
壁に何もない。本もない。記録もない。ただ、白い壁と、窓と、椅子一つ。
「聞いていいか」シュウは言った。
「どうぞ」
「守護兵が僕を見つけた時。新参者を全員集めて、その中から僕を選び出した。あれは、偶然じゃなかっただろう」
エリの表情が、かすかに変わった。
ほとんど分からないくらい、わずかに。
しかし、シュウには見えた。
「遠界への任務も」シュウは続けた。声は平坦だった。怒っているわけではない。ただ、確認しているだけだ。「あれは、僕に『壊さずに動く練習』をさせるためじゃなかった。僕が遠界に立つことで、裂け目が塞がることを、あなたはすでに知っていた」
「……」
「レン、ハル、レオ」シュウは言った。「彼らに僕を任せたのも。僕が彼らに馴染めば、この島への愛着が生まれる。愛着があれば、僕はこの島のために動く。自分から」
エリは窓の方に向き直った。
「……賢いわね」彼女は言った。
「否定しないんだ」
「否定しても意味がないでしょう。あなたには見えているんだから」
シュウは椅子の背にもたれた。
外の三つの月を見た。静止したまま、重力を無視して浮かんでいる三つの月。
彼はエリを見た。
「一つだけ聞かせてくれ」シュウは言った。「君がやっていることは、操作だ。それは分かってる。でも、その目的は何だ。島を守るため? それとも、自分の力を保つため?」
長い沈黙。
エリは窓ガラスに額をつけた。
その動作は、女王のものではなかった。ただの、疲れた人間のものだった。
「両方よ」彼女は言った。「でも……順番で言えば、島が先」
「本当に?」
「……本当に」
シュウにはそれが、嘘ではないと分かった。
だから、余計に厄介だった。
悪意のない操作の方が、悪意のあるものよりずっと始末に負えない。
「あなたに選択肢を与えるべきだったわ」エリは額を窓から離さずに言った。「最初から」
「うん」
「でも、与えなかった」
「うん」
「……ごめんなさい」
シュウはその言葉を聞いた。
シュウは立ち上がった。
窓の前に並び立ち、白い砂漠を一緒に見た。
しばらく、二人は黙っていた。
「一つ、条件がある」シュウはようやく言った。
エリが顔を上げた。
「僕を使うのは構わない」シュウは砂漠を見たまま言った。「でも、次に何かをさせたい時は、先に言ってくれ。理由も含めて。嘘じゃなくていい。全部話さなくていい。でも、少なくとも 嘘をつかないでくれ」
「……それだけ?」
「それだけ」
エリはしばらく、シュウの横顔を見た。
「……なぜ、怒らないの?」
シュウは答えなかった。すぐには。
窓の外の砂漠を見た。無数の砂粒を。その一粒一粒に、かつて誰かが「本物」だと信じていた宇宙が眠っている。
シュウは口を開いた.
「怒っても、意味がないから」彼は言った。「君が間違ったことをしたかどうかより、これからどうするかの方が重要だと思うから」
エリはそれを聞いて、何かを言いかけた。
しかし、言わなかった。
代わりに、彼女はまた窓の外を見た。
その横顔には、さっきと違うものがあった。
シュウには、それが何なのか、うまく言葉にできなかった。
部屋を出る直前、シュウは立ち止まった。
「エリ」
「何?」
「この島に、僕と同じくらい『本物』な存在はいるか?」
エリは少し間を置いた。
「いないわ」彼女は言った。「少なくとも、今のところは」
「そうか」
「……どうして聞いたの?」
シュウは扉のノブに手をかけたまま、少し考えた。
「孤独かどうか、確認したかった」
「確認できた?」
「うん」
「どちらの意味で?」
シュウは扉を開けた。
答えなかった。
螺旋階段を降り始めながら、彼は思った。
その夜、シュウは眠れなかった。
彼に与えられた部屋は、尖塔の中層にあった。壁はインクでできていて、暗くなると少しだけ光った。本が一冊、棚に置いてあった。タイトルはなかった。
シュウはその本を開かなかった。
代わりに、天井を見つめた。
答えは出ていた。
最初から出ていた。
シュウは木製のペンを見た。天井に向けて持ち上げて、光の中でその形を確認した。
彼はペンを胸の上に置いた。
目を閉じた。
眠れないまま、夜が過ぎた。
しかし、それでよかった。
翌朝、ハルが部屋に来た。
ノックもせずに扉を開けた。
「生きてるか、シュウ」
「生きてる」
「飯、食ったか」
「食ってない」
「来い。レンが概念スープを作った。美味しくはないが、存在を安定させる効果があるらしい」
シュウは起き上がった。
「概念スープ」
「レンが名付けた。中身は不明だが、飲んだ後しばらくは輪郭がはっきりする」
シュウはペンをポケットに入れて、立ち上がった。
「ハル」
「何だ」
「昨日、エリに呼ばれた」
ハルの顔が、一瞬だけ固まった。
「……どんな話をした?」
「色々」シュウは言った。「でも、一つだけ聞いていいか」
「どうぞ」
「君は、最初から知っていたか。エリが僕を使うつもりだということを」
長い沈黙。
ハルは目を逸らした。
それが答えだった。
「……そうか」シュウは言った。怒ってはいなかった。本当に。「じゃあ、概念スープを食べに行こう」
「シュウ、俺は—」
「いい」シュウは扉に向かって歩き始めた。「本当に。怒ってない。ただ 」
彼は立ち止まった。
「次から、教えてくれると嬉しい。それだけだ」
ハルは何も言わなかった。
しかし、その沈黙は—昨日の、理解の沈黙に似ていた。
概念スープは、確かに美味しくなかった。
しかし、飲んだ後、シュウの輪郭は—いつもより少しだけはっきりした。
気のせいかもしれない。
しかし、テーブルを囲む四人の輪郭も、全員、昨日より少しだけはっきりしていた。
シュウは、それを指摘しなかった。
ただ、スープを飲みながら、思った。
(使われることと、選ぶことは 同じ行動でも、意味が違う)
(僕は今日から、選んでいる)
(エリに使われているのではなく—僕が、ここに留まることを選んでいる)
(その違いは、誰にも見えないかもしれない)
(でも、僕には見える)
(それで、十分だ)




