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行き止まりの神 —全能のパラドックス:封印された僕が世界を終焉させるまで—  作者: Daikon


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第五章 遠界

誰も、何も言わなかった。

ハルが「行くぞ」と言ってから、四人は歩き続けていた。だが、その言葉は会話の始まりではなかった。終止符だった。

シュウは自分の後ろを振り返らなかった。振り返る必要はなかった。自分が残してきたクレーターがどんな形をしているか、もう分かっていたから。深く。ぎざぎざで。そして、彼が何もしなくても生まれたもの。

それが一番怖かった。

島の端に近づくにつれて、地面の質が変わり始めた。中心部では、床は紙でできていたが、まだ厚みがあり、確かな手応えがあった。しかし、遠界に近づくほど、その「厚み」が薄れていった。まるで、物語の最後のページに近づくほど、文字が薄くなるように。

「ここから先は気をつけろ」レオが前を向いたまま言った。声に警告の色がある。「遠界では、お前が踏んでいるものが何なのかを、足が忘れる場合がある」

「足が忘れる?」

「ここはまだ『書かれた』場所だ」レオが説明した。「法則がある。重力の概念が存在する。でも、遠界はそれが薄れていく場所だ。物語の余白。インクが届かなかった場所。向こうでは、重力が機能するかどうかは、お前が重力を信じているかどうかによって変わる」

シュウはそれを聞いて、足元を見た。

(僕が重力を信じているかどうか)

(でも、僕の重みは信念とは関係ない。ただ、そこにある)

その思考は、彼を安心させなかった。


遠界の最初の一歩は、シュウには何の変哲もないように感じられた。

だが、レンが止まった。

彼女は自分の鞄から小さな羅針盤を取り出し、その針を見つめた。針は静止していた。北も南もない。ただ、意味もなく震えているだけだ。

「始まった」彼女は静かに言った。「ここから先は、概念が物理法則よりも脆くなる。距離の概念、方向の概念、そして――」

彼女の言葉が途切れた。

シュウが見ると、彼女の輪郭が、ほんの一瞬だけぼやけていた。まるで、古い映像にノイズが入ったように。

「レン?」

「大丈夫よ」しかし、その声は少し平坦だった。「ここでは、私たちは薄くなる。キャラクターだから。遠界は、書かれた存在にとって重力みたいなもの。引っ張られる。薄くなろうとする」

「じゃあ、なぜ来たんだ、こんな場所に」

「誰かが来なければならないから」レオが答えた。彼の声には感情がなかった。事実として言っているだけだ。「そして、僕たちは溶けない方法を知っている」


しばらく歩いた後、シュウは気づいた。

自分だけが、揺れていなかった。

レンの輪郭は時々にじんだ。ハルの影は足と合っていない瞬間があった。レオの軍服の色が、数歩ごとに少しだけ薄くなった。

しかし、シュウは。

シュウは、むしろ濃くなっていった。

遠界の空気がレンたちから何かを吸い取ろうとするたびに、その吸い取ろうとしていたものがシュウの方へと流れてきているようだった。まるで、水が高いところから低いところへ流れるように、この場所の「本物リアル」の成分が、一番密度の高い場所へと自然に引き寄せられていた。

シュウ自身に。

「……ハル」シュウが小声で言った。

「何だ」

「僕が歩くほど、君たちが薄くなっていく気がするんだが」

長い沈黙があった。

「……気のせいだといいな」ハルが言った。しかし、その声には笑いがなかった。


裂け目は、シュウが思っていたよりも小さかった。

彼は巨大な穴を想像していた。虚無が渦巻いている、劇的な亀裂を。

しかし、実際には。

それは、ただの静かな「無さ」だった。

空気の中に、縦に走る、数十センチほどの切れ目。そこだけ、光の当たり方がおかしかった。物体がそこに近づくと、その輪郭が少しだけ迷うように、ゆらいだ。定義を忘れかけているような、そんな揺らぎ。

「これが……裂け目?」

「そう」レンが言った。「見た目は地味よ。でも、触れれば分かる。あそこには、この宇宙の内側にあるべきではないものが覗いている。純粋な、定義されていない外部アウトサイドが」

シュウは裂け目を見つめた。

不思議なことに、恐ろしくなかった。むしろ——

(知っている気がする。あそこ)

(僕がここに来る前、どこにいたのか。あそこに似ている気がする)

その考えは、すぐに消えた。消えたというより、シュウが自分で打ち消した。

「塞ぎ方は?」彼は尋ねた。

「普通は、インクで書く」レンが説明した。「裂け目のある空間に、『ここには何かがある』という定義を与えてやる。定義が生まれれば、外部アウトサイドは入る場所を失う」

「でも」ハルが付け加えた。「ここは遠界だ。僕たちのインクは薄すぎて効かない」

静寂。

三人がシュウを見た。

シュウは木製のペンを見た。

「僕のインクなら……効くと思うか?」

「あなたのインクじゃない」レンが言った。「あなたの存在よ。あなたは定義を書く必要さえない。あなたがそこに立てば、あなたの『本物リアル』が、裂け目の定義のなさを上書きする」

「ただそこに立つだけでいいのか?」

「ただそこに立つだけでいい」

シュウは一歩、裂け目に向かって踏み出した。

足元の地面が、深く沈んだ。しかし、崩れなかった。

もう一歩。

裂け目が近づくにつれて、その「無さ」がより鮮明になった。それはただの穴ではなかった。それは、何かが存在することを拒絶している場所だった。

シュウは立ち止まった。裂け目まで、あと数歩。

そして、彼は考えた。

(これは、遠界の裂け目だ。虚無が滲み出てくる場所)

(でも、僕の故郷は——あの薄っぺらな世界は——どんな裂け目もなかった。ただ、僕が歩いただけで消えた)

(あの世界にとって、僕自身が裂け目だったんだ)

その考えが胸に落ちた瞬間、シュウは目を細めた。

涙が出そうになったが、出なかった。出すわけにはいかなかった。

泣けば、また何かが消える。

彼は代わりに、ただ裂け目の前に立った。

木製のペンを握りしめながら。

何も書かなかった。何も言わなかった。

ただ、そこにいた。


最初は何も起こらなかった。

それから、裂け目の縁が、かすかに震えた。

まるで、この場所が初めて「重み」というものを感じたように。

「……動いてる」ハルが囁いた。

裂け目は縮んでいた。ゆっくりと、しかし確かに。シュウが何もしていないにも関わらず。ただそこに立っているだけで、周囲の空気が「定義」を取り戻していった。まるで、長い間答えを忘れていた問題が、答えを知っている人物と同じ部屋に入ることで、自然と解かれていくように。

三十秒。

一分。

裂け目は消えた。

その場所には何もなかった。穴も、定義もない何もなさも。ただ、普通の空気があった。少しだけ重い、シュウの存在を感じる空気が。

後ろでレオが、小さく息を吐いた。

ハルは何か言いかけて、やめた。

レンは羅針盤の針を確認した。今度は、震えていなかった。北を指していた。

「……終わった?」シュウが振り向かずに聞いた。

「終わった」レンが答えた。

シュウは振り向いた。

三人の顔を見た。

ハルは笑おうとしていたが、笑えていなかった。レオは無表情だったが、その目が少しだけ、シュウから逸れていた。レンだけが、まっすぐにシュウを見ていた。しかし、その目の中にあるものは、賞賛ではなかった。

それは、ある種の恐怖だった。

シュウを恐れているのではない。

シュウの存在が示す「何か」を恐れている、そういう目だった。

「ありがとう」シュウは言った。とりあえず言えるのはそれだけだったので。

「こっちのセリフよ」レンが言った。しかし、その声は平坦だった。

四人は、島の中心に向かって歩き始めた。


帰り道は来た道よりも長く感じた。

遠界の「薄さ」が和らいでいくにつれて、三人の輪郭も少しずつ戻ってきた。ハルがまずいつもの明るさを取り戻し、また余計なことを話し始めた。レオは相変わらず無口だったが、足の運びが少しだけ軽くなった気がした。

しかし、レンはずっと何かを考えていた。

シュウは彼女が何を考えているか、聞かなかった。

聞かなくても、なんとなくわかった。

彼女が今日見たのは、シュウが「戦って」裂け目を塞いだのではないということだ。シュウが「努力して」解決したわけでもない。ただ、立っただけだ。何もせずに立っただけで、問題が解決した。

それは、便利だった。

それは同時に、恐ろしかった。

なぜなら、もしシュウが「立つだけ」で問題を解決できるなら。

エリには、シュウを何にでも使えるということになる。

シュウの同意とは関係なく。


尖塔スパイアが見えてくるころ、シュウは足を止めた。

「なあ」彼は言った。

三人が振り向く。

「君たちは……ずっとここにいるのか? この島に?」

三人は顔を見合わせた。それは予想外の質問だったらしい。

「他に行く場所がない」レオが言った。

「もとの物語はもう存在しない」ハルが肩をすくめた。「消えたか、作者が書くのをやめたか。どっちにしても、帰る場所がないんだ」

「……そうか」

シュウは尖塔を見た。黒く、高く、終わりのない図書館を内包した塔。

(僕も、帰る場所がない)

(あの薄っぺらな世界は、もうない。僕が壊した)

(でも、彼らと違うのは)

(彼らはそれを、「仕方ない」と受け入れている。でも僕は、まだそれを「事実」として処理しきれていない)

シュウは何も言わずに歩き始めた。

ハルが隣に並んできた。

「なあ、シュウ」

「何だ」

「今日、怖かったか?」

シュウは少し考えた。

「裂け目が?」

「全部」

また、少し考えた。

「……怖くなかった」シュウは言った。「怖くなかった。それが怖かった」

ハルは何も言わなかった。

しかし、その沈黙は、理解の沈黙だった。


尖塔の門をくぐる直前、シュウは振り返った。

遠界の方向を見た。

もう裂け目はない。彼が立ったことで塞がれた。

しかし、シュウには、何かが気になった。

あの裂け目が生まれたのは、シュウがこの島に来たからだとエリは言っていた。シュウの「重み」が島を不安定にし、遠界に負荷をかけた。

つまり。

裂け目は、シュウの存在が原因で生まれた。

そして、シュウの存在がそれを塞いだ。

(問題を起こして、解決している)

(ずっとそれを繰り返すのか?)

その問いに、答えはなかった。

シュウは門をくぐった。

背後で、重厚な扉が閉まった。

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