それでも温かい手
夜はまだ深かった。
街灯の光がアスファルトに長い影を落としていた。シュウは歩き続けていた。どこへ向かっているのか自分でも分からなかった。ただ、止まりたくなかった。止まると考えてしまうから。考えてしまうと、あの男の言葉が頭の中で繰り返されるから。
すでに空っぽの者。すでに諦めた者。すでに無に触れて生き延びた者。
それが誰なのか、シュウには見当もつかなかった。
彼は知っている人がほとんどいなかった。マヤ。カフェの老女。公園の男。それだけ。この街に来てから、それ以外の人間とまともに話したことすらなかった。
(レオは……)
彼は一瞬、考えた。レオならどうか。白い砂漠で五十年前に十七層で引き返した戦士。帰る場所を求めて、やっと見つけて、それでもなお進み続けた男。
しかしシュウはすぐに首を振った。
(いや、ありえない。レオはあの閉じられた物語の中にいる。ここにはいない)
それに、レオは空っぽじゃない。彼には帰る場所がある。ハルがいる。レンがいる。あの女の子がいる。エリが書いた物語が終わった後も、彼らはきっと何処かで生きている。
シュウはため息をついた。
歩き続けた。
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気づいたとき、彼は見たことのない通りに立っていた。
ネオンサインが暗い路地を赤く染めていた。店の看板は外国語か、あるいは意味を持たない記号のように見えた。地面には割れた瓶の破片が散らばっていた。壁には落書き。空気は冷たくて、どこか甘ったるい匂いが混じっていた。
シュウは足を止めた。
(ここは……)
彼は周りを見回した。繁華街。いや、少し違う。もっと深い場所。表通りから一つ入っただけで、世界が変わるような場所。
赤灯区域だった。
彼はすぐに理解した。入ってはいけない場所に足を踏み入れてしまったのだ。
彼は踵を返そうとした。来た道を戻って、明るい通りへ出ようとした。
そのときだった。
彼の目が、歩道の端に座る小さな影を捉えた。
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子供だった。
五歳か六歳。痩せていて、小さくて、寒さを防ぐには薄すぎるパーカーを着ていた。足元には何もなく、靴すら履いていなかった。その子はただそこに座っていた。膝を抱えて、動かない。石像のように。
シュウは眉をひそめた。
こんな時間に、こんな場所に、子供が一人でいるはずがない。親がいるなら連れ帰っているはずだ。誰かが通報していてもおかしくない。
しかし誰もいなかった。通行人も、警察も、誰もこの子に気づいていないようだった。まるでこの子は透明か、あるいは最初からそこに存在していなかったかのように。
シュウはゆっくりと近づいた。
子供は顔を上げなかった。
「ねえ」シュウはしゃがみ込んで、できるだけ優しい声で話しかけた。「こんな遅くに、どうしたんだ? おうちはどこ?」
返事はなかった。
「お父さんは? お母さんは?」
沈黙。子供は動かなかった。呼吸をしているのかどうかさえ、疑いたくなるほど静かだった。
シュウは手を伸ばして、子供の肩に触れた。
冷たかった。
冷たすぎた。空気の冷たさではない。もっと深い。芯から冷え切っているような。
「ねえ……」
子供が顔を上げた。
シュウは息を呑んだ。
その顔には、何の表情もなかった。怒っているわけでも、悲しいわけでも、怖がっているわけでもない。ただ——無。心の奥底まで何かが壊れてしまって、感情を感じることも、表現することも忘れてしまった人の顔。
まるで仮面を被っているようだった。
目は開いていたが、そこには光がなかった。どこか遠くを見ている。いや、何も見ていない。見ることをやめてしまったのだ。
シュウの胸に、何かが刺さった。
この子供は——生きているのに、もう生きていない。呼吸はしているのに、存在している感じがしない。
(これが——あの男の言っていた「空っぽの者」なのか?)
違う。そうではない。この子供は器ではない。もっと別の何か。もっと深い傷を負っている。
シュウは何も言わなかった。ただ、その小さな体を抱き上げた。
子供は抵抗しなかった。重たくなかった。まるで中身が空っぽのように軽かった。腕の中の感触は、生きている人間というより、布でできた人形のようだった。
シュウはそのまま歩き出した。来た道を戻った。赤いネオンの光を背に、明るい通りへ。
子供は一言も喋らなかった。
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マヤのアパートに戻ると、マヤはまだ眠っていた。呼吸は浅く、時折うめき声をあげていたが、目は覚まさなかった。
シュウは子供をそっと椅子に下ろした。
子供はそのまま動かなかった。置かれた人形のように、ただそこに座っていた。目は開いていたが、何も見ていなかった。
シュウはキッチンに行った。冷蔵庫を開けた。卵があった。野菜があった。しかし彼にまともな料理を作る技術はなかった。
彼は棚からインスタントラーメンを取り出した。
お湯を沸かした。麺を入れた。三分待った。
湯気が立ち上る中で、彼は鍋を見つめながら考えた。
(この子は何を見てきたんだろう)
こんな小さな体で、たくさんのものを背負ってきたのだろうか。背負いきれなくなって、全部落としてしまったのだろうか。
(それとも——初めから何も持たされていなかったのか)
シュウはラーメンをどんぶりに移した。箸を添えて、子供の前に置いた。
「食べろ」と彼は言った。優しく。でも強く。
子供はしばらく動かなかった。
そして——ゆっくりと——小さな手が箸を取った。
その動きはぎこちなかった。慣れていないのではなく、長い間使っていなかったかのようだった。指は震えていた。しかし、しっかりと箸を握っていた。
彼は麺を口に運んだ。
食べた。
一口。また一口。
無表情のまま。黙ったまま。ただ、機械のように。
しかし——食べていた。
シュウはそれを見て、胸の奥が熱くなった。
(この子はまだ、生きようとしている)
完全に壊れてしまったように見えても、何かがまだ彼を動かしていた。機械のように無機質な動作の中にも、かすかに「生きたい」という意思が残っている。
シュウは自分のどんぶりには手を付けなかった。ただ、その小さな後頭部を見つめていた。
(誰もお前を見ていなかったのだろう)
(誰もお前に気づかなかったのだろう)
(でも今は——少なくとも今だけは——俺が見ている)
子供はラーメンを食べ終えた。どんぶりの中は空っぽだった。汁まで飲み干したようだ。
彼は箸を置いた。そしてまた動かなくなった。
しかし、さっきまでの完全な静止とは違っていた。どこか——ほんの少しだけ——肩の力が抜けているように見えた。
シュウはその小さな頭にそっと手を置いた。
「よく食べたな」
子供は答えなかった。
しかし、その無表情の奥で——ほんの一瞬だけ——何かが動いた気がした。
シュウは微笑んだ。
疲れていた。眠かった。頭の中は疑問と不安でいっぱいだった。
それでも、今だけは——
(少しだけ、救われた気がした)




