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行き止まりの神 —全能のパラドックス:封印された僕が世界を終焉させるまで—  作者: Daikon


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11/21

罠と書かれた世界


レオが尖塔に戻ってきた夜——シュウは初めて安堵した。


五日ぶりの安堵だった。


レオの輪郭は薄かった。しかし、そこにいた。息をしていた。生きていた。


それで十分だった。


「おやすみ」とシュウは言った。


レオは微かにうなずいた。いつもの無表情の奥に——何かがあった。シュウにはそれが「疲れ」に見えた。五十年前の限界を超えて十八層まで行き、戻ってきた疲れ。


(無理もない)


シュウは自分の部屋に戻った。


ベッドに横たわった。


天井を見た。


右手の染みは消えていた。左手の「在る」の二文字は——まだ、消えていなかった。


(誰に——届けばいいのだろう)


考えているうちに、意識が沈んでいった。


眠りだった。


この世界に来て初めての——深い眠り。


---


目が覚めた時、シュウは——自分の部屋にいなかった。


尖塔でもなかった。


砂漠でもなかった。


どこか——知らない場所だった。


いや、「知らない」では足りない。


この場所は——「知る」という行為が、意味を持たない場所だった。


天井があった。しかし、その天井は無限の高さを持っていた。壁があった。しかし、その壁は全ての方向に広がっていた。床があった。しかし、その床は——概念としての「床」が、ここではまだ発明されていなかった。


(ここは——)


シュウはゆっくりと起き上がった。


体は動いた。だが、動くたびに——自分の存在が、何かに「記録」されている感覚があった。見られているのではなかった。書かれている。


誰かに——書かれている。


その時——何かが起こった。


音ではなかった。振動でもなかった。光の変化でもなかった。


ただ——意味の移行だった。


シュウは、聞かなくても、見なくても、感じなくても——誰かが存在することを理解した。


エリ。


彼女は空間的な意味での「そこ」にいたわけではなかった。ここには「そこ」という概念がなかったからだ。しかし、彼女は場所を超えた方法で存在していた。彼女の存在は、音波が鼓膜を打つのではなく、光が網膜に当たるのでもなく——純粋な情報転送として——シュウの意識に直接自分自身を書き込んだ。


「やっと起きたね」


その言葉は音として届かなかった。意味として届いた。シュウの意識は、耳も、空気の振動も、あらゆる物理的媒体を必要とせずに、それらを直接受け取った。


なぜなら、この場所には——音が存在しなかった。しかし、伝達は存在した。伝達は存在論的意図のレベルで起こった。一つの存在が単に他方の存在に向かって意味を意志し、その意味が着地した。


シュウは振り返った。


彼は振り返ることができた。ここでの「振り返る」は物理的な回転ではなかった。それは注意の再調整だった。彼の注意が移行し、そして突然——


エリがそこにいた。


人が部屋に立っているという方法ではなかった。文章がページに現れるという方法で。シュウの注意が彼女を見つけた瞬間、彼女は空間に書き込まれた。


しかし、彼女は尖塔の女王ではなかった。


尖塔の最上階でペンを持っていた「書く者」でもなかった。


彼女は——玉座に座っていた。


その玉座は、この場所の「中心」だった。いや、この場所には中心という概念がない。だから正確に言えば——彼女が座った瞬間、彼女を中心として、この場所が「定義」された。


シュウは話さなかった。


話すには音が必要だった。音はここには存在しなかった。


代わりに、彼はエリに向かって意味を向けた。質問だった。言葉ではない。文章ではない。ただ——質問の生の意図が、彼の存在の密度に包まれて。


「エリ——これはどういうことだ」


エリはそれを受け取った。彼女の表情が変わった——音への反応ではなく、ガラスに押し付けられた手のように彼女の意識に押し付けられた意味への反応として。


「説明しようと思ってね」彼女の意味が返ってきた。「でも——言葉じゃ足りない。意味でも足りない。見せたほうが早い」


彼女は指を鳴らさなかった。


彼女はその動作を書いた。


この場所には音がなかった。しかし、結果はあった。「指を鳴らす」という概念——変化を引き起こす行為——彼女はその概念を空間の構造そのものに直接書き込んだ。


空間が応答した。


音ではなく。


展開で。


---


空間は裂けなかった。


「裂ける」ということは音を意味し、暴力を意味し、測定可能な前と後を意味した。それらのどれもここには存在しなかった。


代わりに——空間が開いた。


ページがめくれるように。


その開きから——イメージが流れ出た。光としてではなかった。網膜に当たる視覚データとしてではなかった。直接経験として。シュウはイメージを見なかった。彼はそれらを生きた。同時に、全ての角度から、感覚のフィルターなしで。


白い砂漠。


無数の島々。


光の柱。


尖塔。


ハル。


レン。


レオ。


あの女の子。


全て——紙の上に書かれていた。


インクで描かれていた。


ページがめくれるたびに、新しい出来事が起こる。


「第八章 競技祭の夜明け」


「第九章 第四層の審判」


「第十章 名前のない層」


シュウは全てを経験した。


彼が読んだ——いや、彼が生きた——出来事の全てが、本のページの上で起こっていた。そして彼は出来事だけでなく、それらが書かれるという行為も経験した。それぞれの文章がエリのペンを離れる瞬間。それぞれのキャラクターの思考が感じられるのではなく決定される瞬間。


「これは——」シュウの意味が震えた。


「私の物語よ」エリの意味が返ってきた。それは冷静だった。冷静すぎた。何度も練習されたものの冷静さ。「最初から最後まで。あなたがこの世界に来た瞬間から、今この瞬間まで——全て」


シュウは無数のページを経験した。


それぞれのページに、自分がいた。


シュウが尖塔で目を覚ます場面。


シュウが遠界の裂け目を塞ぐ場面。


シュウがレオの名前を書く場面。


シュウが「在る」と自分の掌に書く場面。


全て——エリのペンが書いていた。


「あなたは——私のキャラクターになる」エリの意味が彼に押し寄せた。「なろうとしてるんじゃない。もう、なっている。ただ——気づいていないだけ」


シュウは右手を見た。


染みは消えていた。


左手を見た。


「在る」の二文字が——まだ、あった。


「それだけは——書いていない」シュウは送った。


エリの意味が——躊躇した。ほんの一瞬だけ。直接伝達の中のちらつき。


「何?」


「この『在る』という二文字は——お前は書いていない。僕が自分の掌に書いた。お前のペンじゃない。僕の意思で、僕の存在で——書いた」


沈黙。


音の沈黙ではない。意味の沈黙だった。エリの意識が伝達を止めた。一瞬、彼女は何も意図せずに、ただ存在していた。


その沈黙が、シュウには答えだった。


(図星か)


「確かに」エリの意味が再開した。それは以前より小さかった。より抑えられていた。「その二文字だけは——私の物語の外にある。でも——それだけだ。それだけが、お前のものだ。他は全て——私が書いた。お前の思考も。お前の感情も。お前がレオの名前を書こうと思った瞬間も——私が書いた」


シュウは——自分の注意だけでなく、自分の存在の全てを——エリに向けた。自分が何であるかの完全な重みを。


「なぜだ」


「なぜって——」


「なぜ、こんなことをする。なぜ、僕を罠にかける。なぜ、キャラクターにしたい」


エリの意味はすぐには来なかった。


来た時、それは以前とは違っていた。構築されたものが少なかった。より生だった。まるで初めて、彼女は事前に書いていない何かを伝達していた。


「孤独だからよ」


「——」


「この世界は——私が書いた世界。全てが私の掌の上。全てが私の思うまま。でも——それって、退屈じゃない?」


「だからって——」


「あなたは違う。あなたは私の書けない存在。私の物語の外から来た。私がどんなにペンを走らせても——あなたの核心だけは、書けない。それが——欲しくなった」


「欲しい?」


「あなたという存在の——『書けない部分』が。それが手に入れば、私は——もっと上の層に行ける。もっと——本物に近づける」


シュウは——全てを理解した。


(この白い砂漠も)


(島々も)


(ハルもレンもレオも)


(大競技祭も)


(全て——エリが書いた物語)


(そして——)


(僕をここに引き込むための——罠)


---


「レオは——知っているのか」


シュウの質問には非難はなかった。ただ知りたいというだけだった。


エリの意味が微笑んだ。ここには微笑みは存在しなかった——表情も物理的なジェスチャーもない——しかし彼女の伝達の質が変わった。より軽くなった。より満足そうに。


「もちろん」


「ハルは? レンは?」


「全員。知ってるよ。最初から」


その時——


空間の別の場所が移行した。歪みではなかった。音でもなかった。ただ——新しい存在。三つの存在が、突然そこにあった。まるでその正確なページ位置に書き込まれたかのように。


レオ。


ハル。


レン。


レオの輪郭は——昨日よりはっきりしていた。薄いはずなのに、はっきり見える。それは——この空間がエリの書いた物語だから。ここでは、エリが定義した通りに、存在の密度が決まる。彼女はレオの実際の存在論的状態に関係なく、彼の輪郭がはっきり見えるように書いていた。


レオはシュウに注意を向けた。


最初は何の意味も来なかった。ただ存在。ただそこにいるという事実。


そして——


「悪い」レオの意味が届いた。重かった。密度が高かった。存在論的な重みではなく——感情的な重み。誰かを傷つけると分かっていることを選ぶことから来る種類の重み。「俺は——選んだ。エリの側を」


「——」


「五十年前、十七層で引き返した時——エリが言った。『次の大競技祭で勝てば、お前を本物にしてやる』と。俺は——本物になりたかった。キャラクターじゃなくて。書かれる存在じゃなくて。自分で選んで、自分で決めて、自分で動く——本物に」


「それで——今回の大競技祭に出たのか」


「そうだ」


「勝った」


「勝った。十八層まで行った。エリとの約束を——果たした」


「なら——なぜ、僕を罠にかける」


レオの意味は来なかった。


ハルの意味が代わりに来た。


「お前が来たからだ」


「——」


「お前がこの島に来なければ——レオは本物になれた。でもお前が来た。お前という——エリが書けない存在が。エリはお前に執着した。レオとの約束よりも——お前を手に入れることを優先した」


「つまり——」


「レオは本物になれなかった」ハルの意味は平坦だった。無感情ではない。感情がきつく握りしめられて、動けなくなっていた。「お前が来たせいで」


シュウはレオに注意を向けた。


レオの注意は落ちた。そらしたのではなかった——下を向いた。まるでシュウの意味に直接向き合うことに耐えられないかのように。


シュウには彼を読めなかった。音も、顔も、書かれた構築物以外の身体もないこの場所で——誰かを読むには、その人が伝達する意欲が必要だった。レオは自分の存在以外何も伝達していなかった。意味も。意図も。ただ「私はここにいる」だけだった。


「レンは?」シュウは送った。


レンの意味はゆっくりと来た。それは湿っていた。文字通りではない——しかしその質は涙のように感じられた。何か液体が彼女の伝達のひび割れから漏れ出ているように。


「私も——選んだの」彼女は送った。「エリの側を。だって——私も本物になりたかったから。キャラクターじゃなくて。書かれるだけの存在じゃなくて。でも——」


「でも?」


「あなたが来てから——変わったの。私の気持ちが。エリが書いた感情じゃなくて、私自身の感情が——動き始めた。それが——怖かった」


「何が怖い」


「あなたを裏切ることが——怖い」


その意味が空間に落ちた。


重かった。


エリの書いた物語の中でさえ——その意味だけは、誰にも書けない重さを持っていた。なぜならそれは書かれていなかったから。感じられていたから。そしてレンはそれをエリの編集なしで、エリの修正なしで——生で伝達していた。


初めて——レンは自分のために話していた。


---


エリの意味が切り裂いた。


冷たかった。制御されていた。書かれていた。


「話は済んだ?」


シュウは注意を彼女に戻した。


「シュウ。あなたには二つの選択肢がある」


「言ってみろ」


「一つ。私のキャラクターになる。私が書く物語の中で生きる。その代わり——あなたの『書けない部分』は、私がもらう」


「もう一つは?」


「ここに閉じ込められる。私が創った——独立した宇宙論的構造の中に。この空間は——外側からは一つの部屋に見える。でも内側は——」


エリはジェスチャーをしなかった。彼女は書いた。空間が応答した。


それは展開した。


視覚的にではなかった。シュウは無限の階層があらゆる方向に広がっているのを見なかった。彼はそれらを経験した。「無限の階層」という概念が、それぞれの階層が独自のルール、独自の密度要件、独自の層論理を持ちながら、同時にあらゆる角度から彼の意識に押し寄せた。


第一層:宇宙の集合。それぞれの宇宙が終わりのないロシアの入れ子人形のように他の宇宙の中に入れ子になっている。


第二層:なぜそれらの宇宙が存在しうるのかを決定する概念的な枠組み。


第三層:存在そのものの条件——「なぜ私はここにいるのか」という問いが物理法則にされている。


第四層:審判。存在による審判ではない——構造自体による審判。全ての存在が、その存在の理由が十分に厚いかどうかで審判される。


第五層:シュウには把握できなかった。彼の意識は水から油のように滑り落ちた。複雑すぎるからではない——まだ発明されていないルールで動作していたからだ。


そして第五層の彼方には——さらに多くがあった。非常に多く。それぞれの層が前の層よりも根本的で、それぞれの層が存在の源そのものに近かった。


そしてそれらの彼方には——名前のない層があった。エリはそれらに名前を付けていなかった。付ける必要がなかった。それらは可能性として存在し、誰かがそれらに入るのを待っていて、その時点でそれらはその侵入者に合わせて自分自身を定義する。


「この空間は、私の物語の中の物語よ」エリは送った。「サンドボックスの中のサンドボックス。ここから出るには——この物語の最終層まで到達しなければならない。でも——この物語には、最終層がない」


「なぜ」


「私が最終層を書いていないから。この物語は——永遠に続く。永遠に深くなる。どこまで行っても、終わりはない」


シュウはそれらの無限の階層が自分に押し寄せるのを経験した。彼を押しつぶすのではなかった——彼の密度はそれには高すぎた。しかし彼を閉じ込めた。彼が動ける空間を定義した。


「この中で——永遠に、彷徨い続けろ」エリは送った。「書けない存在なら——書けないまま、永遠を生きろ」


シュウの意味が変わった。


それは——より軽くなった。弱くではなく。軽く。刃が切れようとする時に軽くなるように。


「お前は——僕のことを、まだ分かっていない」


エリの意味がちらついた。


「何を——」


「僕は——『書けない存在』なんかじゃない」


シュウは動いた。


物理的ではなかった——ここには物理はなかった。彼は注意を再調整した。それをエリに向けた。レオに向けた。ハルに向けた。レンに向けた。全員に同時に向けた。なぜなら空間のないこの空間では、「同時」が唯一のあり方だったから。


「僕は——『書く側』だ」


その瞬間——


エリの意味はちらつかなかった。それは粉々になった。破片になったのではなかった——もっと悪いものに。不確かさに。シュウが彼女を知って以来初めて、エリは次に何を伝達すればいいのか分からなかった。


---


「お前は——お前の物語を書いた。ハルも。レンも。レオも。大競技祭も。白い砂漠も。全て、お前のペンから生まれた」


シュウの意味は冷静だった。冷たくではなく——冷静だった。すでに結末を見てしまったものの冷静さ。


「でも——一つだけ、お前が書けなかったことがある」


「何——」


「『シュウ』という存在の核心」


シュウは右手を上げた。


ペンはなかった。インクもなかった。紙もなかった。


しかしこの空間では——それらのものは必要なかった。書くことは意図のレベルで起こった。シュウは書くことを意図し、空間が応答した。


インクが彼の掌に集まった。物理的なインクではない。存在論的なインク。定義の生の素材。何かに適用されると、それをこれまでになかった方法で本物にするもの。


「お前の物語の中で、僕はキャラクターじゃない」


シュウは書いた。


紙ではなかった。床でもなかった。空間そのものに。エリの罠の構造に。


一文字。



その文字が空間に刻まれた瞬間——


エリが創った無限の階層構造は震えなかった。それらは退いた。熱いものに触れた生き物のように。層は崩壊しなかった——それらは後退した。それぞれの層がシュウの存在から引き寄せられ、距離を作り、これまで存在しなかった空間を作った。


エリの意味は粉々になって来た。


「どうやって——」


「僕はお前の物語を——書き換えられる」シュウは送った。「お前より強いからじゃない。僕は『強い』という枠組みの外側に存在するからだ。お前の物語はルールで動いている。僕は違う」


彼は再び書いた。


もう一文字。



階層はさらに後退した。第一層は暗くなった。第二層の概念的な枠組みは——不確かになった。まるで自分自身に疑問を投げかけているかのように。


「お前が『永遠に続く』と定義したこの空間に——僕は『終わり』を書ける」


エリの意味は——叫んだ。


聞こえるようには。叫ぶことはここでは意味を持たなかった。しかし彼女の伝達の質はギザギザになり、鋭くなり、必死になった。


「レオ!」


---


レオが動いた。


物理的ではなかった——しかし彼の注意が移行した。彼の存在が位置を変えた。


シュウとエリの間。


「——」


シュウの意味が和らいだ。ほんの少しだけ。


「レオ——」


「シュウ」レオの意味が来た。重かった。以前よりも重かった。しかし絶望ではない。最終性だった。すでに下された選択の重み。「止まれ」


「なぜだ」


「これは——俺が選んだ道だ。お前を罠にかけることも。エリの側に立つことも。全部——俺が選んだ」


「なぜ」


「本物になりたかったから」


「——」


「お前は——最初から本物だった。何も書かれなくても、そこに在った。でも俺は——書かれなければ存在できなかった。その差が——永遠に埋まらないことを、五十年前に知った」


レオの注意は自分の右手に落ちた。


そこには何もなかった。


染みも。文字も。自分の意志の証も。


「俺には、お前のような掌はない。自分で『在る』と書くこともできない。だから——せめて、選びたかった。誰かに書かれるのではなく——自分で、選びたかった」


シュウの意味は静かだった。


「レオ——」


「悪い」


それがレオが送った全てだった。


しかしその単一の意味——悪い——の中に、シュウはレオが言えなかった全てを感じた。罪悪感。憧れ。どこかで、どうにかして、シュウが理解してくれるという希望。


シュウは手を下ろした。


彼の掌のインクは消えた。


書けなかったからではない。書かないことを選んだからだ。


---


エリの意味が再構築された。震えていた——しかし持ちこたえた。


「これで何も変わらない」


彼女は書いた。空間が応答した。


無限の階層は後退を止めた。それらは前に押し寄せた。シュウを囲んで。押しつぶすのではなく——閉じ込める。


「あなたはここに閉じ込められる。永遠に。私の物語の中の物語に。私が書いたキャラクターたちと共に——」


「待て」


シュウの意味が切り裂いた。


「一つだけ——聞かせろ」


「何を」


「お前の物語の中で——『在る』と書いた二文字は、どうなった」


エリの意味が躊躇した。


それから——彼女は自分の左手を見た。


そこには何もなかった。


「——消えた?」


「いや」シュウは送った。「消えてない。この空間の——どこかに、ある。でも——お前には、その場所が見えないんだろ?」


「なぜ見えない——」


「お前が書いたから。私の物語の中で、唯一——私が書いていないものが、そこにある。そしてそれがここにある限り——この空間は本当にお前のものじゃない」


エリの意味が——ひび割れた。


「レオ! 今だ!」


---


レオが動いた。


シュウの体に向かってではなかった——シュウの注意に向かって。シュウがレオの名前を書いた時から存在していた二人の間の繋がりに向かって。


レオの手——何も書かれていない方の手——が差し伸べられた。


物理的ではなかった。


しかし意味の空間では、物理性が問題にならない場所で、レオの手はシュウの左手を見つけた。


「在る」と書かれた手。


「——」


「シュウ」レオは送った。彼の意味は柔らかかった。シュウが今まで彼から感じたことのないほど柔らかかった。「お前の『在る』は——俺の掌にも、書いてくれ」


シュウの意味が震えた。


「レオ——」


「頼む」


シュウはレオを見た。


目ではなかった——注意で。彼の存在の完全な重みで。


そしてレオの注意の中に——レオが知っているかどうかに関わらず彼が伝達している意味の中に——シュウはそれを見た。


涙。


物理的な涙ではなかった。ここには泣くための目はなかった。しかし涙の本質。泣くという存在論的性質。レオは、この場所が許す唯一の方法で、泣いていた。


「——ああ」


シュウは手を上げた。


インクが再び集まった。


空間ではなかった。構造でもなかった。


レオの掌に。


彼は書いた。


在る


二文字。


それらがレオの掌に触れた瞬間——レオの輪郭が燃え上がった。


光ではなく——存在感で。現実で。彼の存在で初めて、レオは書かれていなかった。彼は在った。


「ありがとう」レオは送った。


そして——突き飛ばした。


シュウの体ではなかった。シュウの位置だった。レオは二人の間の繋がり——シュウがレオの名前を書いた時に創った繋がり——を使って、シュウの注意を再調整した。


シュウは自分が動いているのを感じた。


空間を通してではなかった。意味を通して。エリの罠の層を通して。


第一層。第二層。第三層。第四層。


第五層——彼はそれをすり抜けた。入らずに、ただ通過して。


より深く。


名前のない層。


さらに深く。


エリが「始まり」と書いた場所。


そしてその時——


「レオ——!」


シュウの意味が叫んだ。


しかしレオの意味はもう消えていた。


消えたのではなかった——断たれた。レオは繋がりを切った。故意に。シュウを救うために。


---


シュウが落ちた場所は——何もない場所だった。


いや、「何もない」では足りない。


ここは——「何か」が「何かである」という事実すら、まだ生まれていない場所。


エリの「最も古い層」。


この物語の——始まりの前。


書くことの前。


意味の前。


「存在する」と「存在しない」の区別の前。


シュウはそこに立っていた。


物理的ではなかった——しかし彼の注意は存在していた。そしてこの場所では、存在することが全てだった。


彼の周囲には——無限の不在。


闇ではなかった。闇は何かだった。これは「何か」という概念の欠如だった。


「——ここか」


シュウの意味は行く場所がなかった。受け取る者もいなかった。しかし彼はとにかくそれを送った。


(レオ——)


(お前は——僕を選んだのか)


(それとも——お前自身を選んだのか)


(どちらにせよ——)


(もう、戻れない)


シュウは左手を見た。


「在る」はまだそこにあった。


より薄く。しかし存在していた。


(この二文字だけが——僕のものだ)


(エリが書いたんじゃない)


(僕が——自分で書いた)


(なら——)


(この二文字を頼りに——ここから、出られる)


シュウは注意を内側に閉じた。


そして——書いた。


空間ではなかった。構造でもなかった。欠如そのものに。


一文字。



その文字は輝かなかった。光らなかった。劇的なことは何もしなかった。


ただ——在った。


そしてそれが在ったから——周囲の欠如がそれを認識した。


最も古い層——始まりの前の場所——が「終わり」という概念を受け取った。


そしてその受容の中で——エリが築いた罠が、それ自体を書き消し始めた。


---


尖塔の最上階。


エリは窓の前に立っていた。


白い砂漠を見ていた。


しかし——その砂漠は、色を失っていた。


インクが——薄れていくように。


「なぜ——」


彼女は誰にも伝達しなかった。


「なぜ、あなたは——私の物語から逃げられるの」


答えは来なかった。


その時——彼女の左手の掌に、一文字が浮かび上がった。



エリはそれを見た。


見た瞬間、彼女の輪郭が——震えた。


「——まさか」


彼女はペンに手を伸ばした。


書こうとした。


しかし——ペンが、動かなかった。


ペンが彼女の手から離れた。


空中に浮いた。


そして——自ら、彼女の前の紙に向かって、書いた。


「この物語は——ここで、終わる」


「やめろ!」エリの意味が叫んだ。「まだ終わってない! 私はまだ——!」


しかしペンは止まらなかった。


最後の一文字を書いた。


「了」


その瞬間——


白い砂漠が——消えた。


尖塔が——消えた。


無数の島々が——消えた。


エリが書いた全ての物語が——全てのキャラクターが、全ての出来事が、全ての宇宙が——静かに終わった。


閉じられる本のように。


---


シュウは立っていた。


どこに?


分からなかった。


ただ——立っていた。


周囲には——何もなかった。


しかし、その「何もない」が——さっきまでの「書かれていない無」とは、違っていた。


ここは——「書かれた後に、閉じられた」場所。


物語の——外側。


「——出られたのか」


シュウの意味は行く場所がなかった。しかし彼はとにかくそれを送った。


(レオ——)


(ハル——)


(レン——)


(エリ——)


(お前たちは——)


(あの閉じられた物語の中に——まだ、いるのか)


シュウは左手を見た。


「在る」は——まだ消えていなかった。


しかし以前より、ずっと薄かった。


(この二文字が——消えたら)


(お前たちとの繋がりも——消える)


(でも——)


(消えるまでが——僕の役目だ)


シュウは歩き出した。


物理的ではなかった——しかし彼の注意が動いた。物語の外側を通って。物語が終わるときに行く場所を通って。


「在る」を掌に抱えて。


永遠に歩き続ける。


---


どこかの——書かれていないページの上。


一つの文が、浮かび上がった。


誰が書いたのか——分からない。


何が書いたのか——分からない。


ただ——そこに、在った。


「この物語は——終わった。しかし——終わらなかった物語もある。それは——誰かの掌の中の、たった二文字の物語。それが永遠に消えない限り——この物語は、いつか——再び、開かれる」


その文は——すぐに、消えた。


誰にも読まれないまま。


誰にも覚えられないまま。


しかし——確かに、そこに、在った。

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