名前のない層
レオが第五層に入った瞬間——
砂漠が、静かになった。
ただの静寂ではなかった。
音が消えたのではない。
音の——意味が、消えた。
波の音がしても、それが「波の音」として届かない。風が吹いても、それが「風」として認識されない。この砂漠に存在する全ての感覚情報が、一瞬だけ——ただのデータになった。
シュウには、それが分かった。
第五層以降は——外部から感じ取れる域を超えている。
(レオが——見えなくなった)
(感じ取れなくなった)
(あの一文字だけが——まだ、微かに繋がっている)
シュウは右手の掌を見た。
昨夜ペンを持った手。
その掌の中心に——インクの染みが、残っていた。
書いた時についたものだ。しかし、洗っても消えなかった。シュウの存在の密度が、インクを固定してしまっていた。
(これが——レオと繋がっている唯一の糸だ)
シュウはその染みを——ただ、見ていた。
「第五層以降は——何が起きているか、私には分からない」
レンが言った。その声は、静かだった。静かすぎた。
「五十年前、レオは第五層まで入らなかった。十七層まで到達したと言っていたが——それは第五層の内部の構造の中での十七だ」
シュウは止まった。
「待て。第五層の——内部に、さらに層があるのか」
「そう」レンは言った。「今まで私が説明してきた『層』の概念は——大競技祭のサンドボックスの外側の階層よ。第一層、第二層、第三層、第四層——それぞれが、サンドボックス全体の大きな区画。でも——」
彼女は少し止まった。
「——第五層は、外側からは一つの層に見える。でも内部に入ると——そこには、独立した宇宙論的階層が幾重にも重なっている。五十年前にレオが到達した『十七層』というのは——第五層の内部階層の、十七番目のことよ」
「つまり——」シュウは整理した。「——外側から見た『第五層』の中に、さらに内部階層が存在する。五十年前のレオは、その内部の十七番目まで行って、引き返した」
「そう」
「第五層の内部は——全部で何層あるんだ」
レンは答えなかった。
「レン」
「……分からないのよ」レンは静かに言った。「第五層の内部は——自己増殖する。誰かが内部に入るたびに——サンドボックスが、新しい内部階層を生成する。入れば入るほど、深くなる」
「底がない」
「底がない」
シュウは砂漠を見た。
金色の光が、まだ砂漠を覆っていた。レオの密度の残滓が。
しかし——その金色が、少しずつ——薄くなっていた。
レオが、さらに深くに進んでいる証拠だった。
夜が明けた。
レオは、まだ戻らなかった。
シュウは眠らなかった。
眠れなかったのではない。
眠ることが——できなかった。
右手の掌の染みが、消えたら——
レオとの繋がりが、完全に断たれる気がした。
根拠はなかった。
ただの——感覚だった。
しかし、シュウには——「ただの感覚」と「本物の予感」の区別が、この世界に来てから、少しずつ分かるようになっていた。
これは——後者だった。
翌朝——
ハルが、シュウの部屋に来た。
いつものように、ノックをしなかった。
しかし、今日は——いつもの「生きてるか」がなかった。
ただ、シュウの隣に座った。
黙って。
「ハル」シュウは言った。
「うん」
「怖いか」
ハルは少し止まった。
「怖い」
「どんな怖さだ」
ハルは窓の外を見た。
「レオが——戻ってこない怖さじゃない」
「では?」
「レオが戻ってきた時——俺たちが、変わってたら怖い、って思って」
シュウはその言葉の意味を——ゆっくりと、噛み砕いた。
(ハルが怖いのは、レオを失うことではない)
(レオが戻ってきた時——「レオが帰るべき場所」が、変わってしまっていることを——怖れている)
「変わらないよ」シュウは言った。
「……お前が言うなよ。一番変わってる奴が」
「僕が?」
「お前は——最初、ただ帰りたかっただけだろ。怖くて、困惑して、何もできないと思ってた。今は——ペンを持って、レオの名前を書く奴になってる」
シュウは、自分の右手を見た。
掌のインクの染み。
「変わったのか、僕は」
「変わった」ハルは言った。「でも——変わっても、戻るべき場所は——ここだって、分かる奴になった。それが——良い変わり方だと思う」
シュウは窓の外を見た。
砂漠を。
金色の光は——もう、消えかけていた。
「ハル」
「うん」
「レオが——第五層の内側で、どこまで行けると思う」
ハルは長い間、答えなかった。
「分からない」彼は最終的に言った。「ただ——一つだけ、言える」
「何だ」
「五十年前に十七層で引き返したレオが——今回、第四層まで来れた理由は、実力が上がったからじゃない。俺たちがいたから、だ」
シュウはハルを見た。
「ということは——」
「お前が昨夜、名前を書いた。それをレオは感じた。第四層で審判の目が開いた時——レオの存在の中に、お前が書いた一文字があった。その一文字が——審判の天秤を傾けた」
「一文字だけで——」
「一文字だけで」ハルは静かに繰り返した。「お前の一文字は——俺たちの島の五十年分の歴史より、重かったんだ。それがお前という存在だ、シュウ」
その日の昼——
砂漠が、また動いた。
しかし今回は——光の変化ではなかった。
音だった。
音という概念が消えていたはずの砂漠から——音が来た。
それは——
名前だった。
誰かの名前が——砂漠全体に、響いた。
聞いた瞬間、シュウは——立ち上がっていた。
「今のは——」
「レオよ」エリが言った。彼女の顔が、青ざめていた。「レオの名前が——第五層の内部から、外に漏れてきた」
「なぜ、名前が漏れる」
「存在が——限界を超えた時」エリは言った。「存在の密度が臨界点を超えると——その存在を定義している全ての要素が、外部に溢れ出す。名前は、存在を定義する最も基礎的な要素だから——最初に漏れる」
「限界を超えたということは——」
「消えかけているということよ」エリは静かに言った。「レオが——消えかけている」
シュウは右手の掌を見た。
インクの染みが——震えていた。
物理的に震えているのではなかった。存在の密度として——震えていた。繋がっている先の——レオが、消えかけていることへの反応として。
「エリ」シュウは言った。
「何」
「サンドボックスを——外から、干渉することはできるか」
「できない」エリは即座に言った。「外からの干渉は——サンドボックスの構造を崩壊させる。レオごと——消える」
「では——昨夜、僕がやったことは」
「あれは——サンドボックスへの干渉ではない。レオという存在への——定義の付与よ。間接的なものだった。でも——今のレオの状態に、さらに干渉したら——」
「どうなる」
エリは答えなかった。
しかし——その沈黙の意味を、シュウは理解した。
(答えられないほど——悪いことが起きる)
シュウは砂漠を見た。
金色の光は——完全に消えていた。
砂漠は再び、あの色のない色に戻っていた。
しかし——砂漠の、ある一点が——
ほんの微かに——シュウの染みと、同じ色をしていた。
インクの色。
シュウが書いた一文字の色。
(まだ——繋がっている)
(レオは——まだそこにいる)
シュウはエリのところに行った。
「一つだけ教えてくれ」
「何?」
「昨夜——僕がレオの名前の一文字を書いた。その一文字は、今——サンドボックスの中のレオの存在の一部になっている」
「……そうね」
「ということは——僕の密度の一部が、サンドボックスの中にある」
エリの顔が——変わった。
何かに気づいた顔。
「……まさか」
「それを——引っ張れないか。サンドボックスの外から、引っ張る。僕の密度は、サンドボックスの中にある。その密度を——外から引き戻す。その時、一緒にレオも——」
「待って」エリが遮った。
「待てない」
「シュウ、聞いて」エリは真剣な目でシュウを見た。「あなたが自分の密度を引き戻すということは——サンドボックスの内部構造に、あなたの存在が能動的に関与するということよ。昨夜の一文字とは——次元が違う。能動的に関与した瞬間、あなたの密度がサンドボックス全体に流れ込む。サンドボックスが——」
「壊れる」
「壊れる、ではないわ」エリは言った。「消える。サンドボックスだけでなく——その周辺の現実ごと。この砂漠の——全ての島が」
静寂。
「全ての島が——消える」シュウは繰り返した。
「そう」
「ハルも。レンも。あの女の子も。この島の住人全員が」
「全員が」
シュウは目を閉じた。
(どちらを選んでも——誰かを失う)
(レオを失うか)
(全員を失うか)
(どちらも——できない)
(どちらも——したくない)
シュウは部屋に戻った。
レオの手紙を、もう一度読んだ。
「戻る場所があるからこそ——どこまでも、行ける」
シュウはその一文を——何度も読んだ。
(戻る場所があるからこそ——進める)
(そうだ)
(でも——「戻る場所」が消えたら?)
(進めなくなる)
(戻れなくなる)
(ただ——深いところで、消えていく)
シュウはペンを見た。
(レオに——「戻る場所は消えていない」ということを、伝えられないか)
(あの一文字が、まだレオに繋がっているなら——)
(伝えることが——できるかもしれない)
(言葉として、伝えるのではない)
(存在として——伝える)
(僕の存在は——「ここにある」という事実を、そのまま——あの一文字を通して、レオに送る)
(干渉ではない)
(定義の付与でもない)
(ただ——「ここに在る」という事実を、共有するだけ)
シュウはペンを持った。
しかし、床には書かなかった。
紙にも書かなかった。
シュウは——自分の左手の掌に——ペンを当てた。
(右手には、すでにレオとの繋がりがある)
(左手に——「ここに在る」という一事実を、書く)
(その重みが——右手の染みを通して——レオに届く)
(届くかどうかは——分からない)
(しかし——やらないよりは、いい)
シュウはペンを——左手に当てた。
書いた。
たった二文字。
「在る」
その瞬間——
砂漠が、震えた。
しかし、崩れなかった。
消えなかった。
ただ——砂漠の、あの一点が。
レオとシュウの染みが重なる、あの一点が——
一瞬だけ——眩しいほどに輝いた。
そして、消えた。
シュウは左手を見た。
二文字が——掌に刻まれていた。
消えなかった。
右手の一文字と同じように——密度が固定して、消えなかった。
シュウは両手を、並べて見た。
右手——レオの名前の一文字。
左手——「在る」の二文字。
(届いたかどうか——分からない)
(しかし——)
(届いていてくれ)
夜が明けた——翌日の朝。
シュウが目を開けた瞬間——
右手の染みが——消えていた。
シュウは起き上がった。
(消えた)
(繋がりが——断たれた?)
(レオが——)
シュウは立ち上がり、廊下に出た。
走った。
尖塔の下に向かって。
砂漠に面した入り口に向かって。
走りながら——シュウは気づいた。
島が——静かすぎた。
住人たちが、誰も——動いていない。
全員が——同じ場所を見ていた。
砂漠の、一点を。
シュウは島の端に出た。
崖の上に立った。
砂漠を見た。
サンドボックスが——消えていた。
光の柱も。審判の場も。大競技祭の全ての構造物が——跡形もなく、消えていた。
代わりに——
砂漠の中央に——
一人の人物が、立っていた。
遠かった。
砂漠の中央は——この島からは、遥か遠い。
しかし、シュウには——見えた。
輪郭が——薄かった。
以前よりも、ずっと薄かった。
しかし——
消えていなかった。
まだ——そこに、在った。
(レオ)
(帰ってきた)
シュウは——崖から——走り出た。
砂漠に向かって。
足元の砂粒が——それぞれの中に眠る宇宙ごと——沈んでいく。
しかし、シュウは止まらなかった。
(速く)
(速く走れ)
(レオが——消える前に)
シュウがレオに辿り着いた時——
レオは——立っていた。
ただ、立っていることだけで——精一杯のように。
その輪郭は、すりガラスのように——内側が透けて見えた。
目が——虚ろだった。
焦点が合っていない。
「レオ」シュウは言った。
返事がなかった。
「レオ」もう一度言った。
レオの目が——少しだけ、動いた。
「……シュウ」
声が——掠れていた。
しかし——声だった。
「戻ってきた」シュウは言った。
「……約束は——しなかった」レオは言った。「でも——」
「でも?」
「——希望は——あった」
シュウは——右手を見た。
染みが、消えていた。
繋がりが断たれたのではなかった。
レオが——戻ってきた瞬間に——
繋がりが——果たされた。
だから、消えた。
(届いていた)
シュウは——左手を見た。
「在る」の二文字が——まだ、刻まれていた。
(この二文字は——消えなかった)
(なぜ)
(右手の染みは——果たされたから消えた)
(では、左手の「在る」は——まだ、果たされていない)
(まだ——伝わっていない、誰かに)
(誰に?)
その問いの答えは——
まだ、来なかった。
シュウはレオを支えながら、島に向かって歩いた。
レオは——重くなかった。
物理的な意味で。
むしろ、羽のように軽かった。
(密度が——こんなに下がってしまっている)
しかし——
シュウが支えると——レオの輪郭が、少しだけ、はっきりした。
シュウの密度が——接触を通して、レオに流れた。
無意識に。
自然に。
(それでいい)
(僕の密度が、少し下がっても——構わない)
(その分——レオが、もう少し在れる)
砂漠を渡る間——二人は、何も喋らなかった。
しかし、その沈黙には——二人にしか分からない、何かが詰まっていた。
島の崖が見えてきた時——レオが、口を開いた。
「シュウ」
「何だ」
「第五層の内部で——十八層に踏み込んだ」
シュウは止まった。
「十七層で、五十年前に引き返したのに」
「そうだ」
「何が、違った」
レオは少し——空を見た。
色のない、概念としての空を。
「お前が——『在る』と書いてきた」
シュウは左手を見た。
「感じたのか」
「感じた。第十七層で——限界に来た時。お前の『在る』が——届いた。お前がそこに在るなら——俺も、在れると——思った。だから、一層だけ、先に進めた」
「一層だけ」
「それで——十分だった」
「何が十分だった」
「勝者は——最後まで残った者だ、とレンが言った」レオは言った。「十八層まで行った者は——大競技祭が始まって以来、一人もいなかった。俺が十八層に踏み込んだ瞬間——サンドボックスの審判が、下りた。勝者が決まった」
「お前が——大競技祭の、勝者か」
「そうなる、らしい」レオは静かに言った。感情はなかった。ただ——事実として。
シュウは砂漠を振り返った。
サンドボックスが消えた場所を。
(十八層)
(五十年間——誰も到達しなかった場所)
(レオが——一層だけ、先に進んだ)
(「在る」の二文字のせいで)
(二文字が——一層分の密度になった)
シュウは左手を見た。
「在る」の文字は——まだ、消えていなかった。
(まだ——果たされていない)
(誰かに、まだ届いていない)
(誰に?)
島の崖に辿り着いた時——
ハルが——そこにいた。
レンも。
エリも。
あの女の子も——青い毬を持って。
誰も、何も言わなかった。
レオが崖に上がった瞬間——
ハルが——走った。
レオに向かって。
しかし、抱きつきはしなかった。
レオの輪郭が薄すぎて——触れれば消えるかもしれないから。
ただ——隣に立った。
「帰ってきた」ハルは言った。
「帰ってきた」レオは言った。
それだけだった。
しかし——
その二言が——砂漠に消えた後。
シュウは気づいた。
左手の「在る」の文字が——
薄くなっていた。
消えてはいない。しかし——薄くなっていた。
(届いた?)
(誰かに)
シュウは周囲を見た。
ハルを。レンを。エリを。レオを。女の子を。
(誰に届いたのか——分からない)
(しかし——届いた)
(「僕はここに在る」という事実が——誰かの存在を、少しだけ支えた)
(それで——十分だ)
その夜——
大競技祭の終了を告げる光が——砂漠に広がった。
各島が、それぞれの色で——応えた。
青い光の島。赤い光の島。暗い島でさえ——少しだけ、光を放った。
シュウたちの島は——
白く、輝いた。
インクの白。紙の白。書かれていないページの白ではなく——書き終えた後の、満ちた白。
シュウはその光を——手のひらに受けた。
左手に。「在る」の文字が刻まれた、左手に。
(まだ、消えていない)
(まだ、誰かに届いていない部分が——ある)
(それが誰かは——まだ分からない)
(でも——)
(いつか、分かる)
(そのために——「在り」続ける)
シュウは光の中に——右手を差し出した。
染みのない、右手を。
(レオとの繋がりは——果たされた)
(次は——誰の名前を、書くだろう)
(分からない)
(しかし——このペンは、まだある)
(まだ——書けることがある)
シュウは目を閉じた。
砂漠の光が、瞼を通して——届いていた。
暖かくはなかった。
しかし——確かだった。
(在る)
(僕は——ここに、在る)




