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行き止まりの神 —全能のパラドックス:封印された僕が世界を終焉させるまで—  作者: Daikon


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10/21

名前のない層



レオが第五層に入った瞬間——


砂漠が、静かになった。


ただの静寂ではなかった。


音が消えたのではない。


音の——意味が、消えた。


波の音がしても、それが「波の音」として届かない。風が吹いても、それが「風」として認識されない。この砂漠に存在する全ての感覚情報が、一瞬だけ——ただのデータになった。


シュウには、それが分かった。


第五層以降は——外部から感じ取れる域を超えている。


(レオが——見えなくなった)


(感じ取れなくなった)


(あの一文字だけが——まだ、微かに繋がっている)


シュウは右手の掌を見た。


昨夜ペンを持った手。


その掌の中心に——インクの染みが、残っていた。


書いた時についたものだ。しかし、洗っても消えなかった。シュウの存在の密度が、インクを固定してしまっていた。


(これが——レオと繋がっている唯一の糸だ)


シュウはその染みを——ただ、見ていた。


「第五層以降は——何が起きているか、私には分からない」


レンが言った。その声は、静かだった。静かすぎた。


「五十年前、レオは第五層まで入らなかった。十七層まで到達したと言っていたが——それは第五層の内部の構造の中での十七だ」


シュウは止まった。


「待て。第五層の——内部に、さらに層があるのか」


「そう」レンは言った。「今まで私が説明してきた『層』の概念は——大競技祭のサンドボックスの外側の階層よ。第一層、第二層、第三層、第四層——それぞれが、サンドボックス全体の大きな区画。でも——」


彼女は少し止まった。


「——第五層は、外側からは一つの層に見える。でも内部に入ると——そこには、独立した宇宙論的階層が幾重にも重なっている。五十年前にレオが到達した『十七層』というのは——第五層の内部階層の、十七番目のことよ」


「つまり——」シュウは整理した。「——外側から見た『第五層』の中に、さらに内部階層が存在する。五十年前のレオは、その内部の十七番目まで行って、引き返した」


「そう」


「第五層の内部は——全部で何層あるんだ」


レンは答えなかった。


「レン」


「……分からないのよ」レンは静かに言った。「第五層の内部は——自己増殖する。誰かが内部に入るたびに——サンドボックスが、新しい内部階層を生成する。入れば入るほど、深くなる」


「底がない」


「底がない」


シュウは砂漠を見た。


金色の光が、まだ砂漠を覆っていた。レオの密度の残滓が。


しかし——その金色が、少しずつ——薄くなっていた。


レオが、さらに深くに進んでいる証拠だった。


夜が明けた。


レオは、まだ戻らなかった。


シュウは眠らなかった。


眠れなかったのではない。


眠ることが——できなかった。


右手の掌の染みが、消えたら——


レオとの繋がりが、完全に断たれる気がした。


根拠はなかった。


ただの——感覚だった。


しかし、シュウには——「ただの感覚」と「本物の予感」の区別が、この世界に来てから、少しずつ分かるようになっていた。


これは——後者だった。


翌朝——


ハルが、シュウの部屋に来た。


いつものように、ノックをしなかった。


しかし、今日は——いつもの「生きてるか」がなかった。


ただ、シュウの隣に座った。


黙って。


「ハル」シュウは言った。


「うん」


「怖いか」


ハルは少し止まった。


「怖い」


「どんな怖さだ」


ハルは窓の外を見た。


「レオが——戻ってこない怖さじゃない」


「では?」


「レオが戻ってきた時——俺たちが、変わってたら怖い、って思って」


シュウはその言葉の意味を——ゆっくりと、噛み砕いた。


(ハルが怖いのは、レオを失うことではない)


(レオが戻ってきた時——「レオが帰るべき場所」が、変わってしまっていることを——怖れている)


「変わらないよ」シュウは言った。


「……お前が言うなよ。一番変わってる奴が」


「僕が?」


「お前は——最初、ただ帰りたかっただけだろ。怖くて、困惑して、何もできないと思ってた。今は——ペンを持って、レオの名前を書く奴になってる」


シュウは、自分の右手を見た。


掌のインクの染み。


「変わったのか、僕は」


「変わった」ハルは言った。「でも——変わっても、戻るべき場所は——ここだって、分かる奴になった。それが——良い変わり方だと思う」


シュウは窓の外を見た。


砂漠を。


金色の光は——もう、消えかけていた。


「ハル」


「うん」


「レオが——第五層の内側で、どこまで行けると思う」


ハルは長い間、答えなかった。


「分からない」彼は最終的に言った。「ただ——一つだけ、言える」


「何だ」


「五十年前に十七層で引き返したレオが——今回、第四層まで来れた理由は、実力が上がったからじゃない。俺たちがいたから、だ」


シュウはハルを見た。


「ということは——」


「お前が昨夜、名前を書いた。それをレオは感じた。第四層で審判の目が開いた時——レオの存在の中に、お前が書いた一文字があった。その一文字が——審判の天秤を傾けた」


「一文字だけで——」


「一文字だけで」ハルは静かに繰り返した。「お前の一文字は——俺たちの島の五十年分の歴史より、重かったんだ。それがお前という存在だ、シュウ」


その日の昼——


砂漠が、また動いた。


しかし今回は——光の変化ではなかった。


音だった。


音という概念が消えていたはずの砂漠から——音が来た。


それは——


名前だった。


誰かの名前が——砂漠全体に、響いた。


聞いた瞬間、シュウは——立ち上がっていた。


「今のは——」


「レオよ」エリが言った。彼女の顔が、青ざめていた。「レオの名前が——第五層の内部から、外に漏れてきた」


「なぜ、名前が漏れる」


「存在が——限界を超えた時」エリは言った。「存在の密度が臨界点を超えると——その存在を定義している全ての要素が、外部に溢れ出す。名前は、存在を定義する最も基礎的な要素だから——最初に漏れる」


「限界を超えたということは——」


「消えかけているということよ」エリは静かに言った。「レオが——消えかけている」


シュウは右手の掌を見た。


インクの染みが——震えていた。


物理的に震えているのではなかった。存在の密度として——震えていた。繋がっている先の——レオが、消えかけていることへの反応として。


「エリ」シュウは言った。


「何」


「サンドボックスを——外から、干渉することはできるか」


「できない」エリは即座に言った。「外からの干渉は——サンドボックスの構造を崩壊させる。レオごと——消える」


「では——昨夜、僕がやったことは」


「あれは——サンドボックスへの干渉ではない。レオという存在への——定義の付与よ。間接的なものだった。でも——今のレオの状態に、さらに干渉したら——」


「どうなる」


エリは答えなかった。


しかし——その沈黙の意味を、シュウは理解した。


(答えられないほど——悪いことが起きる)


シュウは砂漠を見た。


金色の光は——完全に消えていた。


砂漠は再び、あの色のない色に戻っていた。


しかし——砂漠の、ある一点が——


ほんの微かに——シュウの染みと、同じ色をしていた。


インクの色。


シュウが書いた一文字の色。


(まだ——繋がっている)


(レオは——まだそこにいる)


シュウはエリのところに行った。


「一つだけ教えてくれ」


「何?」


「昨夜——僕がレオの名前の一文字を書いた。その一文字は、今——サンドボックスの中のレオの存在の一部になっている」


「……そうね」


「ということは——僕の密度の一部が、サンドボックスの中にある」


エリの顔が——変わった。


何かに気づいた顔。


「……まさか」


「それを——引っ張れないか。サンドボックスの外から、引っ張る。僕の密度は、サンドボックスの中にある。その密度を——外から引き戻す。その時、一緒にレオも——」


「待って」エリが遮った。


「待てない」


「シュウ、聞いて」エリは真剣な目でシュウを見た。「あなたが自分の密度を引き戻すということは——サンドボックスの内部構造に、あなたの存在が能動的に関与するということよ。昨夜の一文字とは——次元が違う。能動的に関与した瞬間、あなたの密度がサンドボックス全体に流れ込む。サンドボックスが——」


「壊れる」


「壊れる、ではないわ」エリは言った。「消える。サンドボックスだけでなく——その周辺の現実ごと。この砂漠の——全ての島が」


静寂。


「全ての島が——消える」シュウは繰り返した。


「そう」


「ハルも。レンも。あの女の子も。この島の住人全員が」


「全員が」


シュウは目を閉じた。


(どちらを選んでも——誰かを失う)


(レオを失うか)


(全員を失うか)


(どちらも——できない)


(どちらも——したくない)


シュウは部屋に戻った。


レオの手紙を、もう一度読んだ。


「戻る場所があるからこそ——どこまでも、行ける」


シュウはその一文を——何度も読んだ。


(戻る場所があるからこそ——進める)


(そうだ)


(でも——「戻る場所」が消えたら?)


(進めなくなる)


(戻れなくなる)


(ただ——深いところで、消えていく)


シュウはペンを見た。


(レオに——「戻る場所は消えていない」ということを、伝えられないか)


(あの一文字が、まだレオに繋がっているなら——)


(伝えることが——できるかもしれない)


(言葉として、伝えるのではない)


(存在として——伝える)


(僕の存在は——「ここにある」という事実を、そのまま——あの一文字を通して、レオに送る)


(干渉ではない)


(定義の付与でもない)


(ただ——「ここに在る」という事実を、共有するだけ)


シュウはペンを持った。


しかし、床には書かなかった。


紙にも書かなかった。


シュウは——自分の左手の掌に——ペンを当てた。


(右手には、すでにレオとの繋がりがある)


(左手に——「ここに在る」という一事実を、書く)


(その重みが——右手の染みを通して——レオに届く)


(届くかどうかは——分からない)


(しかし——やらないよりは、いい)


シュウはペンを——左手に当てた。


書いた。


たった二文字。


「在る」


その瞬間——


砂漠が、震えた。


しかし、崩れなかった。


消えなかった。


ただ——砂漠の、あの一点が。


レオとシュウの染みが重なる、あの一点が——


一瞬だけ——眩しいほどに輝いた。


そして、消えた。


シュウは左手を見た。


二文字が——掌に刻まれていた。


消えなかった。


右手の一文字と同じように——密度が固定して、消えなかった。


シュウは両手を、並べて見た。


右手——レオの名前の一文字。


左手——「在る」の二文字。


(届いたかどうか——分からない)


(しかし——)


(届いていてくれ)


夜が明けた——翌日の朝。


シュウが目を開けた瞬間——


右手の染みが——消えていた。


シュウは起き上がった。


(消えた)


(繋がりが——断たれた?)


(レオが——)


シュウは立ち上がり、廊下に出た。


走った。


尖塔の下に向かって。


砂漠に面した入り口に向かって。


走りながら——シュウは気づいた。


島が——静かすぎた。


住人たちが、誰も——動いていない。


全員が——同じ場所を見ていた。


砂漠の、一点を。


シュウは島の端に出た。


崖の上に立った。


砂漠を見た。


サンドボックスが——消えていた。


光の柱も。審判の場も。大競技祭の全ての構造物が——跡形もなく、消えていた。


代わりに——


砂漠の中央に——


一人の人物が、立っていた。


遠かった。


砂漠の中央は——この島からは、遥か遠い。


しかし、シュウには——見えた。


輪郭が——薄かった。


以前よりも、ずっと薄かった。


しかし——


消えていなかった。


まだ——そこに、在った。


(レオ)


(帰ってきた)


シュウは——崖から——走り出た。


砂漠に向かって。


足元の砂粒が——それぞれの中に眠る宇宙ごと——沈んでいく。


しかし、シュウは止まらなかった。


(速く)


(速く走れ)


(レオが——消える前に)


シュウがレオに辿り着いた時——


レオは——立っていた。


ただ、立っていることだけで——精一杯のように。


その輪郭は、すりガラスのように——内側が透けて見えた。


目が——虚ろだった。


焦点が合っていない。


「レオ」シュウは言った。


返事がなかった。


「レオ」もう一度言った。


レオの目が——少しだけ、動いた。


「……シュウ」


声が——掠れていた。


しかし——声だった。


「戻ってきた」シュウは言った。


「……約束は——しなかった」レオは言った。「でも——」


「でも?」


「——希望は——あった」


シュウは——右手を見た。


染みが、消えていた。


繋がりが断たれたのではなかった。


レオが——戻ってきた瞬間に——


繋がりが——果たされた。


だから、消えた。


(届いていた)


シュウは——左手を見た。


「在る」の二文字が——まだ、刻まれていた。


(この二文字は——消えなかった)


(なぜ)


(右手の染みは——果たされたから消えた)


(では、左手の「在る」は——まだ、果たされていない)


(まだ——伝わっていない、誰かに)


(誰に?)


その問いの答えは——


まだ、来なかった。


シュウはレオを支えながら、島に向かって歩いた。


レオは——重くなかった。


物理的な意味で。


むしろ、羽のように軽かった。


(密度が——こんなに下がってしまっている)


しかし——


シュウが支えると——レオの輪郭が、少しだけ、はっきりした。


シュウの密度が——接触を通して、レオに流れた。


無意識に。


自然に。


(それでいい)


(僕の密度が、少し下がっても——構わない)


(その分——レオが、もう少し在れる)


砂漠を渡る間——二人は、何も喋らなかった。


しかし、その沈黙には——二人にしか分からない、何かが詰まっていた。


島の崖が見えてきた時——レオが、口を開いた。


「シュウ」


「何だ」


「第五層の内部で——十八層に踏み込んだ」


シュウは止まった。


「十七層で、五十年前に引き返したのに」


「そうだ」


「何が、違った」


レオは少し——空を見た。


色のない、概念としての空を。


「お前が——『在る』と書いてきた」


シュウは左手を見た。


「感じたのか」


「感じた。第十七層で——限界に来た時。お前の『在る』が——届いた。お前がそこに在るなら——俺も、在れると——思った。だから、一層だけ、先に進めた」


「一層だけ」


「それで——十分だった」


「何が十分だった」


「勝者は——最後まで残った者だ、とレンが言った」レオは言った。「十八層まで行った者は——大競技祭が始まって以来、一人もいなかった。俺が十八層に踏み込んだ瞬間——サンドボックスの審判が、下りた。勝者が決まった」


「お前が——大競技祭の、勝者か」


「そうなる、らしい」レオは静かに言った。感情はなかった。ただ——事実として。


シュウは砂漠を振り返った。


サンドボックスが消えた場所を。


(十八層)


(五十年間——誰も到達しなかった場所)


(レオが——一層だけ、先に進んだ)


(「在る」の二文字のせいで)


(二文字が——一層分の密度になった)


シュウは左手を見た。


「在る」の文字は——まだ、消えていなかった。


(まだ——果たされていない)


(誰かに、まだ届いていない)


(誰に?)


島の崖に辿り着いた時——


ハルが——そこにいた。


レンも。


エリも。


あの女の子も——青い毬を持って。


誰も、何も言わなかった。


レオが崖に上がった瞬間——


ハルが——走った。


レオに向かって。


しかし、抱きつきはしなかった。


レオの輪郭が薄すぎて——触れれば消えるかもしれないから。


ただ——隣に立った。


「帰ってきた」ハルは言った。


「帰ってきた」レオは言った。


それだけだった。


しかし——


その二言が——砂漠に消えた後。


シュウは気づいた。


左手の「在る」の文字が——


薄くなっていた。


消えてはいない。しかし——薄くなっていた。


(届いた?)


(誰かに)


シュウは周囲を見た。


ハルを。レンを。エリを。レオを。女の子を。


(誰に届いたのか——分からない)


(しかし——届いた)


(「僕はここに在る」という事実が——誰かの存在を、少しだけ支えた)


(それで——十分だ)


その夜——


大競技祭の終了を告げる光が——砂漠に広がった。


各島が、それぞれの色で——応えた。


青い光の島。赤い光の島。暗い島でさえ——少しだけ、光を放った。


シュウたちの島は——


白く、輝いた。


インクの白。紙の白。書かれていないページの白ではなく——書き終えた後の、満ちた白。


シュウはその光を——手のひらに受けた。


左手に。「在る」の文字が刻まれた、左手に。


(まだ、消えていない)


(まだ、誰かに届いていない部分が——ある)


(それが誰かは——まだ分からない)


(でも——)


(いつか、分かる)


(そのために——「在り」続ける)


シュウは光の中に——右手を差し出した。


染みのない、右手を。


(レオとの繋がりは——果たされた)


(次は——誰の名前を、書くだろう)


(分からない)


(しかし——このペンは、まだある)


(まだ——書けることがある)


シュウは目を閉じた。


砂漠の光が、瞼を通して——届いていた。


暖かくはなかった。


しかし——確かだった。


(在る)


(僕は——ここに、在る)


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