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第2話 シスターになる準備を始めましょう

 目を覚ました瞬間、エウフェミアはまず天井を見上げた。


 白を基調に金糸で縁取られた天蓋。薄絹の帳。磨き抜かれた柱。香のやわらかな匂い。前世のワンルームには絶対になかった豪奢な寝台。


 どうやら夢ではなかったらしい。


「……終わりましたわ」


 七歳の公爵令嬢は、目覚めて第一声でそう呟いた。


 すぐ脇で控えていた侍女が、ぎょっとしたように目を見開く。


「お、お嬢様?」


「いいえ、なんでもありませんの」


 反射的に口をついて出た絶望を誤魔化し、エウフェミアはそろりと身を起こした。


 身体は少し重いが、倒れたことによる大きな痛みはない。医師が診たのだろう、額には冷たい布が置かれていた。


 問題は身体ではない。


 未来である。


 前世の記憶が戻った今、彼女にははっきりわかっていた。


 このまま何もしなければ、自分は高慢で嫉妬深い悪役公爵令嬢へと育ち、やがて婚約破棄と断罪を受ける。


 しかも相手は、あのアルベルト第三王子だ。


 穏やかな微笑みの裏で冷静に物事を見る、有能な王子。


 きっと情では絆されない。


 つまり、一度悪役ルートに入ったが最後、助からない可能性が高い。


 終わっている。非常に終わっている。


「お嬢様、お加減はいかがですか?」


 おずおずと尋ねた侍女に、エウフェミアはゆっくり顔を向けた。


 まだ若い侍女見習いだろうか。緊張しているのが見て取れる。以前の自分なら、倒れた直後にそんな不安そうな顔をするなと苛立ったかもしれない。


 けれど今のエウフェミアは違った。


 前世の記憶が戻ったことで、目の前の相手がただ必死に務めを果たそうとしているだけの少女であることが、痛いほどわかってしまう。


「心配をかけてしまってごめんなさい。あなたも驚いたでしょう」


「え……」


「わたくしはもう大丈夫ですわ。ありがとう」


 侍女見習いは、ぽかんと口を開けた。


 そのあとで、信じられないものを見るように目を潤ませる。


「も、もったいないお言葉です……!」


 しまった、とエウフェミアは思った。


 今のは別に何でもない。前世基準なら普通の礼だ。だが、これまでのエウフェミアなら絶対に言わなかっただろう言葉でもある。


 いけない。急に変わりすぎるのも不自然かしら。


 しかし、変わらないのはもっと駄目だ。高慢な悪役令嬢ルートなど、絶対に踏みたくない。


 ならば、どうするか。


 答えはひとつしかなかった。


 善良に、慎ましく、目立たず生きる。


 これである。


 悪役令嬢の逆を行けばいいのだ。高慢にならず、嫉妬せず、人に優しく、できるだけ波風を立てない。それでいて王子との距離を自然に取り、頃合いを見て婚約を解消していただく。


 そして最終的には――教会。


 そう、教会である。


 断罪後の逃げ道としてではなく、最初から敬虔な令嬢として振る舞い、いざという時には「信仰に生きたいのです」と言って婚約辞退の理由にしてしまえばよいのではなくて?


 エウフェミアの脳裏に、質素な修道服をまとい、静かな礼拝堂で祈る自分の姿が浮かんだ。


 悪くない。非常に悪くない。


 少なくとも、大勢の前で断罪されるより百倍ましだ。


 そうと決まれば、行動は早いほうがいい。


「お母様とお父様は」


「すぐにお呼びできます」


「……いえ、その前に」


 エウフェミアは慎重に言葉を選んだ。


「今度、教会へお祈りに行きたいのです」


 侍女見習いは完全に固まった。


「きょ、教会、でございますか?」


「ええ。婚約という大きなお役目をいただきましたもの。神に感謝とお祈りを捧げるのは大切でしょう?」


 前世の知識を総動員して、それっぽく言ってみる。


 すると侍女見習いは、みるみるうちに感動した顔になった。


「なんて……なんてご立派なお考えなのでしょう……!」


 あら。


 これはもしかして、思った以上に効いてしまったかもしれない。


 だが、方向性としては間違っていないはずだ。断罪されたくない。婚約はできれば穏便に解消したい。そのためには、周囲に「エウフェミアは俗世より信仰に向く」という印象を植え付けていくのが合理的である。


 行動経済学的に言えば、人は最初に与えられた印象を基準に判断を修正する。最初から「敬虔で慎ましい公爵令嬢」という認識を作れれば、今後の言動もその文脈で解釈されやすい。


 つまり今やるべきは、信仰キャラの初期設定であった。


 よし。勝てる気がしてきた。


 少なくとも、昨日よりは。


 そうしているうちに、部屋の外が慌ただしくなった。


 扉が開き、エヴァルディ公爵夫妻が揃って入ってくる。


「エウフェミア!」


 真っ先に駆け寄ってきたのは父、ヴィクトル・エヴァルディ公爵だった。厳格さを常に崩さぬ男だが、一人娘のことになると別らしい。普段の威厳はどこへやら、眉間に深い皺を寄せている。


「気分はどうだ。頭は痛まないか。吐き気はないか」


「落ち着いてくださいませ、あなた。エウフェミアが驚いてしまうでしょう」


 続いて母ロザリーが、たおやかな所作でベッド脇へ腰掛けた。美貌の公爵夫人は娘の頬をそっと撫で、その瞳を覗き込む。


「本当に心配したのですよ。婚約の場で突然倒れるなんて」


「……申し訳ございません、お父様、お母様」


 エウフェミアは小さく頭を下げた。


 その瞬間、夫妻は揃って固まった。


 沈黙。


 重い沈黙。


 しまった、とエウフェミアは内心で頭を抱えた。


 以前の自分なら、心配をかけたことを素直に詫びるより先に、不安だっただの、頭が痛いだの、周囲が騒がしいだの、何かしら言っていたはずだ。


 だが今は前世の人格が前に出ている。普通に謝ってしまった。


 ヴィクトル公爵は低い声で侍女に確認した。


「……今、エウフェミアが謝ったか?」


「はい……」


「自分から?」


「はい……」


 やめて差し上げて。確認しないで。


 ロザリー夫人が胸元に手を当てる。


「まあ……婚約を機に、こんなにも……」


 違います。断罪が怖いだけです。


 エウフェミアの心の叫びは当然届かない。


「エウフェミア」


 父が娘の前に膝をついた。大人の、それも公爵がだ。


「お前は幼いながらに、王家との婚約の重みを理解したのだな」


 違います。将来の断罪シーンを理解しただけです。


「実に立派だ」


 立派ではなく生存本能です。


「私はお前を誇りに思う」


 そんなに真っ直ぐ見つめないでいただきたい。罪悪感がすごい。


 しかし、ここで否定するのも不自然である。むしろ使える誤解は使うべきだ。


 エウフェミアは控えめに伏し目がちになり、いかにも慎ましい令嬢らしく言った。


「わたくし、未熟ではございますけれど……将来のために、きちんとした者になりたいのです」


 これなら嘘ではない。将来のためにきちんとした者になりたい。本音である。断罪されないために。


 だが、その言葉は公爵夫妻の胸を大いに打ったらしい。


 ロザリー夫人はハンカチを目元に当てた。


「なんて健気なのかしら……」


 ヴィクトル公爵は感極まったように娘の手を握る。


「よく言った。必要な教師も環境も、すべて整えよう」


 そこまでは求めていない。


 いや、でも教育は受けた方がいいのかしら。悪役令嬢にありがちな“努力不足からくる立ち回りの下手さ”を避けるためにも、礼儀作法や歴史、宗教観は学んでおくべきである。


 前世知識だけでは、この世界では生き抜けない。


 ならば活用するしかない。


「……それと、お父様、お母様」


「なんだい、エウフェミア」


「教会へお祈りに行きたいのです」


 夫妻が再び固まった。


 侍女見習いは、なぜかもう泣いていた。


「婚約という尊いご縁をいただいたのですもの。神に感謝をお伝えしたくて……」


 静かに、楚々として、しかし芯のある声音で言ってみせる。


 するとヴィクトル公爵は、とうとう片手で目元を押さえた。


「七歳にしてその信心深さ……」


 ロザリー夫人は感動しきった顔で頷く。


「ええ、すぐに手配させましょう。王家にもきっと、あなたの誠実さは伝わるわ」


 伝わらないでほしいのですけれど。


 エウフェミアは心の中でそっと呟いた。


 信仰に篤い令嬢として認識されるのは目的に合っている。だが「未来の王妃として相応しい」という評価まで加速すると困る。


 とはいえ今はまだ、婚約直後。いきなり解消を願い出れば公爵家にも不利益が出る。


 ここはまず、地盤作りだ。


 悪役令嬢にならないための地盤。


 断罪ルートから外れるための印象形成。


 そして、いざという時に“教会へ入る”という選択肢を無理なく取れるようにする下準備。


 目標は明確である。


 婚約解消。


 円満な離脱。


 可能ならノーダメージ。


 最終的には平穏な人生。


「お嬢様は、本当にお優しく、お清らかになられました……」


 侍女見習いの感極まった声が聞こえた。


 エウフェミアは一瞬だけ視線を逸らした。


 ほんの少し胸が痛む。


 前世の自分の感覚からすれば、今やっていることは善行でも高潔でもなく、ただひたすらに自己保身なのだ。


 だが、その自己保身のためには、もう高慢な令嬢には戻れない。


 ならばいっそ、最後までやりきるしかない。


 慎ましく、穏やかで、信仰深い公爵令嬢として。


 少なくとも、表向きは。


 その夜。


 ひとりになった寝台の上で、エウフェミアは小さく拳を握った。


「……よし」


 まずは教会。


 次に王子との接触を減らす方法を探る。


 そのうえで、将来的に“婚約者に相応しくないほど俗世離れした令嬢”だと思ってもらえれば理想的だ。


 王妃に向かない。社交にも執着しない。権力欲もない。教会のほうが性に合っている。


 そういう空気を、少しずつ、丁寧に作っていくのだ。


 完璧である。


 少なくとも本人はそう思った。


 なお、その頃。


 王城の一室では、同い年の第三王子アルベルトが、婚約の場で倒れた公爵令嬢について静かに報告を受けていた。


「婚約の宣言直後に蒼白となり、そのまま気を失ったのか」


「はい、殿下」


「……興味深いですね」


 七歳の少年らしからぬ落ち着きで、アルベルトは窓の外を見やる。


 婚約の喜びで倒れた、というには様子がおかしかった。


 あれはまるで。


 婚約を祝福された少女ではなく、処刑宣告を受けた者の顔だった。


 アルベルトは小さく目を細める。


「エウフェミア・エヴァルディ」


 その名を、静かに口の中で転がした。


「あなたは、いったい何をそんなに恐れているのですか」


 まだ誰も知らない。


 婚約を解消したいと願う公爵令嬢の第一歩が、よりにもよって未来の婚約者本人の興味を強く引いてしまったことを。

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