第1話 婚約と破滅は同時にやってきた
王城の謁見の間は、昼の光を受けて眩しいほどに輝いていた。
高い天井には精緻な装飾が施され、壁際には金の燭台が等間隔に並ぶ。磨き上げられた白い大理石の床には、集められた貴族たちの姿が鏡のように映り込んでいた。
その中央に、まだ幼い少女が立っている。
エウフェミア・エヴァルディ。
公爵家に生まれた、七歳の令嬢だった。
やわらかな銀金の髪は陽光を受けてきらめき、青紫の瞳は宝石のように澄んでいる。年齢に似つかわしくないほど完成された美貌の片鱗を持つ少女であり、周囲の大人たちは皆、将来はさぞ華やかで気位の高い淑女になるだろうと噂していた。
実際、ほんの少し前までのエウフェミアは、その評判を裏切らぬ少女だった。
公爵家の一人娘として甘やかされ、それ相応に誇り高く、気に入らないことがあれば不機嫌を顔に出す。まだ幼いとはいえ、将来は相当に気の強い令嬢になるに違いない――誰もがそんなふうに思っていた。
だからこそ、この場に立つ彼女は本来ならもっと得意げであるべきだった。
なにしろ、これから告げられるのは王家との正式な婚約。
相手は、この国の第三王子なのだから。
「エウフェミア・エヴァルディ公爵令嬢」
厳かに響いた王の声に、広間の空気がさらに引き締まる。
エウフェミアは背筋を伸ばし、膝が震えないよう必死に力を入れた。
「そなたを、我が第三子アルベルトの婚約者と定める」
その言葉が、確かに告げられた瞬間だった。
「――え」
世界が、ひっくり返った。
視界がぶれる。
頭の奥で、何かが弾けるような感覚がした。
見知らぬはずの光景が、一気に流れ込んでくる。
石造りの王城ではない場所。見たこともないほど背の高い建物が並ぶ街。夜でも明るい道路。ガラス越しに並ぶ食べ物。四角くて薄い板のようなものを指でなぞる人々。制服。電車。職場。コンビニ。ワンルームの部屋。
そして、自分。
この世界の公爵令嬢エウフェミアではない、別の人生を生きた女。
平凡で、目立たず、けれど困っている人を見るとつい手を差し伸べてしまう、どこにでもいるような日本人女性。
その記憶が、鮮明に蘇る。
同時に、もうひとつの記憶も戻ってきた。
前世で読んだ物語。
王子と、平民出身の少女と、そして彼女に立ちはだかる高慢な悪役公爵令嬢が登場する物語。
婚約者という立場を笠に着て、ヒロインをいびり、周囲を見下し、最後には婚約破棄と断罪を言い渡される悪役令嬢。
その名は――
エウフェミア・エヴァルディ。
「う、そ……」
喉が引きつる。
血の気が引いていくのが、自分でもわかった。
だって、それはつまり。
このまま何もしなければ、自分は将来、断罪されるということだ。
大勢の貴族が見守るなかで婚約を破棄され、蔑まれ、嗤われ、全てを失う未来。
脳裏に浮かぶのは、前世で読んだ断罪の場面だった。
きらびやかな舞踏会場。
冷え切った王子の声。
怯えたようにこちらを見る周囲の目。
何も言えずに立ち尽くす悪役公爵令嬢。
終わりだ、と理解する瞬間。
嫌。
無理。
そんなの絶対に嫌。
というか、婚約した瞬間に思い出すの、遅すぎないかしら?
せめてもう少し前はなかったの?
五歳とか。六歳とか。婚約話が出る前とか。回避のしようがある時期に思い出してほしかったのだけれど。
神様、配分が雑ではなくて?
「エウフェミア嬢?」
幼い声が、間近からかかった。
はっとして顔を上げる。
そこには、金の髪に澄んだ蒼の瞳を持つ少年が立っていた。
アルベルト・ルヴァンシュ第三王子。
自分と同じ七歳。けれど既に佇まいには無駄がなく、穏やかな表情の奥に年齢に似合わない聡明さを感じさせる。
前世の記憶が告げる。
彼は攻略対象のひとりであり、同時に、悪役令嬢である自分を最終的に切り捨てる側の人物でもあるのだと。
将来の断罪執行人候補。
そう思った瞬間、愛らしいはずの王子の顔が恐ろしいものに見えた。
「お顔の色が優れません。大丈夫ですか?」
差し出される小さな手は、優しさそのものだった。
けれど今のエウフェミアには、その優しさすら恐怖でしかない。
だって、この子はいつか自分に向かって言うのだ。
『君との婚約は破棄させてもらう』
と。
駄目だ。
この婚約は駄目。
絶対に駄目。
今すぐどうにかしなければならない。
穏便に。できるだけ穏便に。公爵家にも迷惑をかけず、できれば平和的に。無理ならせめて断罪ルートを外したい。いざとなったら教会に入ろう。そう、シスターだ。静かな暮らし。祈り。労働。慎ましい生活。悪くない。むしろ断罪より遥かに良い。
そこまで考えたところで、視界がふっと暗くなった。
「あ」
間の抜けた声が、口から落ちた。
次の瞬間、エウフェミアの小さな身体はぐらりと傾き、その場に崩れ落ちた。
「エウフェミア!」
「お嬢様!?」
「医師を呼べ!」
広間が一気に騒然となる。
誰かの足音。誰かの叫び声。服の擦れる音。抱き起こされる感覚。
それらが急速に遠ざかっていく中、エウフェミアの意識は闇へと沈んでいった。
最後に見えたのは、驚きの中にも妙な静けさを宿したアルベルト王子の目だった。
婚約の喜びで倒れた少女を見るような目ではなかった。
もっと別の何かを、見極めようとする眼差しだった。
その日を境に、エウフェミア・エヴァルディは変わった。
誰もがそう口にした。
目を覚ました彼女は、以前とはまるで別人のようになっていたのだ。
癇癪を起こさない。
侍女に当たらない。
食事に不満を言わない。
気に入らぬ相手を睨みつけることもなく、幼いながらに静かに礼を述べる。
まるで婚約という大きな責任を前に、急に心を入れ替えたかのように。
父であるヴィクトル・エヴァルディ公爵は最初こそ困惑したが、やがて「これも成長か」と深く頷いた。母であるロザリー公爵夫人は戸惑いながらも「まあ、なんて慎ましくなったのでしょう」と目を細めた。使用人たちは一様に驚き、そして安堵した。
皆、好き勝手に納得していった。
婚約が決まり、幼心に責任を感じたのだろう。
未来の王妃候補としての自覚が芽生えたのだろう。
きっとそうに違いない、と。
違う。
全然違う。
ベッドの上で天蓋を見上げながら、当の本人は青ざめた顔でひたすら別のことを考えていた。
どうしよう。
本当にどうしよう。
断罪は嫌。
婚約破棄も怖い。
でもこのまま婚約を維持して未来の悪役令嬢になるのはもっと嫌。
やはり、なんとかして婚約を解消していただくしかないのではないかしら。
できるだけ穏便に。
できれば円満に。
最悪、教会に就職という形で逃げ込めないかしら。
七歳の公爵令嬢は、そんなことを本気で考えていた。
後に王都中が賞賛することになる“理想の王妃候補”の、あまりにも切実で、あまりにも後ろ向きな第一歩である。




