第30話 崩れる尊敬
「じゃーん!みてこれ!結構よくできてない?」
フェリアがシェナに見せたのは、自らの髪で編んだ三つ編みの束だった。一見綺麗にできているようだが、編み目がゆるゆるで束の太さは一定になっていない。
「似合ってるけど……うーん。なんかすぐにほどけそう」
「えー、そうかなぁ。あ」
フェリアが髪をいじった瞬間、三つ編みはあっけなく解け、パサッとフェリアの肩の上に広がった。
「ね?」
「せっかく綺麗にできたと思ったのに......」
彼女は子供たちの中でもかなり手先が不器用で、いつも苦労している。でもこうしたことよく手を出し、なんとか成長しようとしている。そんな姿勢をシェナは応援している。人は必ずしも、天性の才能にすがって生きる必要はない。フェリアは必ずしも歌い続ける必要はないし、自分だって剣を握る必要なんてない。そんな風に考えていた。
「よし、じゃあフェリア、私が編んであげる。何ならコツも教えるよ」
「えー、お姉ちゃんできるの?意外、髪なんて手入れしたことないのに」
「失礼だねー確かにやったことないけど、私だって女の子.....何となくでできちゃうんだから」
「そんな素振り今まで全然みせたことないのにー……まあいいや、お願い!」
フェリアは座り込んで、頭を差し出す。シェナは鏡を持って来て、フェリアの後ろに座りその髪をそっとすくい取り、編み込み始める。フェリアの髪は滑らかで絹糸のように柔らかい。
「さて、まず毛を分けて取って....」
シェナの指使いは確かだった。彼女の器用さは、剣の活用由来の賜物。均等に髪を三つに分け、少しずつ交差させながら編み進めていく。
「あーお姉ちゃん、ちょっとねじれてるよー!」
「もう、急に動かないでよ……ちょっと混乱しちゃうんだからー」
「声に出してやったらいいってイルミから聞いたことがあるよ。やってみたら?」
「いや、それは恥ずかしい……」
そう言いつつも、彼女は言われた通りに試してみることにした。
「右……中央……」
「左.....」
「……中央……ってフェリア~二人でいってたらこんがらがるよー」
「別にいいじゃん。2人で言えばもっと早く終わると思うの」
フェリアとシェナが同時に同じ言葉を呟きながら、丁寧に髪を編んでいった。最初はぎこちなかった動きも、段々と安定し、完璧な編み目を作っていく。
「できた……これどう思う?」
「わぁ……すごいすごーい!全然違うじゃん!」
鏡を見て満足そうな笑顔を浮かべるフェリア。彼女の笑顔を見て、シェナ自身もとても嬉しくなった。フェリアもずっと、こんな日々が続いたら幸せだと感じていた。
「それでお姉ちゃん。三つ編みのコツとはなんでしょうか?
「ふふふ……とにかく片方ずつゆっくり動かすことかな?」
「そんなの分かってるよー!」
でもシェナは時々恐ろしい一面を覗かせるときがある。例えば、外で何か動物の鳴き声が聞こえた時とかだ。彼女は何かを感じ取るように無口になって、音の方向を黙って見つめることがある。他の人はちょっと気にするだけなのに、シェナは暫く、15秒くらいは音が止むまで、じっとしている。そして、その後は不気味に静かになる。最初は対して気にならなかった。孤児院にいる人は、それぞれ別の問題を抱えている。シェナにはシェナなりの心の重荷があって、それが一時的に表に出ることがあるのだろうと、そういう風に解釈していた。あの日までは.....
「お姉ちゃん......」
「.....大丈夫?フェリア……」
とある日の夕方、フェリアの前に現れた人族の誘拐犯2人組との戦いで、シェナはフェリアの目の前で2人の男を倒した。ひょっとしたら殺したかもしれない。何があったのかおぼろげだが、その時のシェナの顔は、まるで別人のような形相だった。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら、彼女は立ち上がる。周囲には血溜まりができていた。木の棒は赤い血で染まっている。
「怖い思いさせてごめん……」
シェナの目は真っ直ぐに彼女を見据えていた。そこには迷いや弱さは微塵も感じられない。明るさもない。冷たい表情だった。
その時、フェリアは目覚めた。どうやら眠ってしまっていたらしい。
「うーん……」
いつも以上に柔らかいベッド。カーテンから漏れる陽の光は感じないし、鳥のさえずりも聴こえない。聞こえるのは隣の部屋から聞こえる叫び声だけ。彼女は慌てて起き上がり、周囲を見る。知らない部屋だ。家具も少ない。小さな祭壇がある以外は、まるで独房みたいな簡素な部屋。
「あっ!」
彼女は突然思い出した。自分が他の子供達ともに教祖様と面談していたこと。その際に眠ってしまったこと。フェリアは妙な気配を感じ、隣の部屋の扉をじっと見つめる。あの先に一体何があるのだろうか、と不安と好奇心が入り混じった感情に襲われる。
「おや、起きましたか」
フェリアは声の方へ振り向く。奇妙にもベッドの傍に寝そべっていたのは、教祖ユージンだった。その姿は優雅でありながらどこか不吉さを漂わせていた。
「教祖様!……ここは何処ですか?みんなは?」
フェリアは焦って問いかけるが、ユージンは微笑みながら首を振るだけだった。
「この場所について語りたくはありません。ただ一つだけ約束しましょう――あなたたちは決して危険ではありません」
フェリアは納得できない顔で反論した。
「でも……でも聞き覚えのある声で叫び声が聞こえるんです……これは一体……」
「儀式です。必要な儀式です。我々アルビオン教が存続するために……必要な犠牲。いや犠牲というのは雑な言い方ですね。生贄?いや死ぬわけじゃないからそれも違うか」
「犠牲なんて嫌だよ!みんな.....あの向こうでどうなってるの?教えてよ!」
ユージンはニコニコしながら答えた。
「まあ安心してください。彼らは....遊んでるんですよ。大切な玩具としてね」
ユージンの様子は不気味で、不安定な笑みを浮かべながら続ける。
「あなたは幸運ですよ。ここで歌って頂ければ、他に何もしませんから。あなたの評判はよく聞いています。さぁ、歌ってください」
フェリアは困惑し、怯えることに精一杯で歌を歌うことなど不可能だった。しかしユージンが彼女の喉元を掴み、拒否を許そうとはしなさそうな雰囲気があった。
「ひぃっ」
「歌ってくださいと言っていますが……ダメなのですか?ならば、今度は喉を切り裂きますよ?そしてあなたを豚と同じように豚と同じように扱わせていただきますから。私だってやりたくないのですが、残念ながらそれが規則なのですよ。言うことを聞かなければどうなるか……痛い思いをするのが好みということなら止めませんけど」
ユージンの発言は支離滅裂で、意味がわからない部分が多い。脅されていることは明らかだった。フェリアの震えが止まらない。だがここで言う通りにしてしまえば、家族を助けられないことが本能的に悟れる。
「い、い、い」
フェリアはユージンに対して必死に反抗した。涙目になりながらも毅然とした態度を崩さずに言った。
「.....私を歌わせたいのなら、隣の部屋で酷いことをされているみんなを助けて!それができないなら歌わないし、私は舌を噛んで死にます……!」
ユージンは呆れたようにため息をつきながら応じた。
「頑固なんですから……そんな思いつめなくとも....みんな細心の注意を払って楽しんでいるから大丈夫ですよ。本当に」
「死ななきゃいいって問題じゃない……!」
ユージンは暫く困ったような表情を浮かべていた。まるでフェリアが予想外の行動に出たことに驚いているようだ。事実、ユージンにとっても今の状況は計算外だった。最初はあのまま大人しく歌ってくれると楽観視していたのだ。
「死ななきゃいいんですよ。受けた傷はポーションで治せますから」
フェリアはそれでも折れなかった。彼女は強い意志を持って言い放つ。
「心の傷は?」
「スキルで忘れられます。神官の物で二人、扱える方がいるみたいで」
ユージンの答えにさらに怒りが募る。それでもフェリアは冷静さを取り戻し、深呼吸をして落ち着きを取り戻す。
「....アルビオン教の教義は、ハーモニー。皆で笑いあって助け合うことです。教祖様が率先して、人の気持ちを踏みにじっていいんですか?」
フェリアの問いかけに、ユージンは少し考えてから返答する。その目には冷徹な決意が宿っていた。声も低く冷たいもの。
「我々信徒の多くが知らずに幸福が永遠の物だと信じていますが、違う。この世は悪意や争い、欲に満ちている。だからこそ、より多くの人々が幸せになれるようにするためには.....」
「皆一丸となって、一つの幸せを目指す......」
「200年前、アルビオン教の開祖はその言葉とともに『ハーモニー』という概念を提唱しました。皆がそれぞれの個性と特性を受け入れ、共通の目標に向かって協力することで、社会全体がより調和的な状態になる。皆が歯車となって農業、商売、産業に取り組むことを理想に掲げていました。開祖は素晴らしいお方だ。肥料というものを開発し人口魔術回路での用水路上下水道整備、大量生産の重要性。まさに錬金術師のような人物でした。彼の才能は200年前であるにも関わらず現代でも通用します。」
「じゃあ.....」
「ですが、時が経つに連れ、世界の技術力は向上し、生活は豊かになりました。しかし、それに比例して我々教団の有意性は薄れてしまいました。それは開祖が天に召され、技術力を伸ばす後継者がいなかったことも関係しています。私の父や兄弟、親族は誰一人として、開祖のような突出した能力を持ち合わせていませんでした」
フェリアはグッと言葉を詰まらせた。どれだけ良い理念を掲げても、それを達成する為の『手段』がないのであれば、それはただの夢物語と一緒だ。実行力も何も、今のアルビオン教にはない。
「このままでは世界との競争に負け、やがて衰退してしまう。そうなる前に改革が必要です。我々は選ばれし民として幸せに暮らすためにも、時には非情な決断も必要となります。それがこれです」
ユージンは部屋の扉を開けた。向こうの光景は、空気は、フェリアにとってあまりにもショッキングなものだった。奇妙な格好した大人たちが、子供を押し倒し......乱暴している。とてもフェリアは言い表せないような奇抜すぎる手段で、欲望のままに。
「うっ……」
吐き気がする。フェリアは自分の目に映る光景が信じられず、思わず口を押さえ込んだ。ユージンは笑みを絶やさない。
「さぁ、十分でしょうか」
扉を閉め、ユージンはフェリアのもとに歩み寄る。彼女は泣きながら抵抗するように懇願した。
「....だからって.....こんな……あんな……酷いこと、なんでしなきゃいけないの!!!!」
彼女は叫んだ。恐怖と混乱の中で必死に言葉を紡ぐが、体は震えており立っていることもままならないようだ。
「あなたは神を信じますか?」
唐突な質問にフェリアは困惑し、咄嗟に首を横に振る。
「クソッ食らえですよね。私も最初はそうでした」
ユージンの瞳には狂信的とも言える輝きがあり、その姿勢には揺るぎない信念があることが伝わってくる。彼は優雅に歩き始めながら説明する。
「....ですが五年前、王国に出向いた際、私は女神の存在を確信しました。女神は慈悲深いお方です。国中に蔓延る人身売買や売春に対して、私財を投げうって徹底的に規制を強化し、違法者を処罰しました。」
「素晴らしいことじゃないですか!」
「ええその通り!彼女の演説を聞き、領へ戻って街を行き来する子供達を見た時……私は神から与えられた使命を悟りました。私たちはこの子達を使って利益を上げねばならない」
フェリアはただ黙って話を聞いていたが、その胸中では様々な疑問や反発心が渦巻いている。なぜこんな理不尽な行為を行う必要があるのか。なぜそれらすべてを受け入れなければならないのか理解できないからだ。
「悪いことであればあるほど、人々はその欲望を解放できる場所を探すもの。ならば私たちはそれを利用して豊かになろう!そして幸せに暮らそう!……というのが今の方針なのです」
その言葉には一切の躊躇も迷いもなく自信に満ち溢れているように見える。その様子は見る者全てに畏敬の念を与えてしまうほど凄まじかった。その姿勢からは強い意志と揺るぎない決意を感じ取ることができるほどだ。
「幸せなんて……こんなことをして掴んだ幸せなんて意味がない....」
フェリアはその目を見るのが怖くなった。その言葉と併せて、彼は本当に本気なのだということが分かるから。彼は自分達の安寧のために子供を使い捨てることに何ら抵抗を抱いていない。
「……あなたはこの立場から見える危うさを知らない.....」
突如として雰囲気が変わる。今まで穏やかだったユージンの表情が一変し、威圧感に満ちた厳格な表情へと変わり果てていた。その変貌ぶりにフェリアは息を飲む。
「危うさ?.......今あなたが語ったことの方がよっぽど危ういじゃないですか」
「っ……」
「あなたがどんな思いでこんなことを考えたのか、私には分かりません。ただ一つだけ言えることがあります。こんなこと長くは続きません。きっといつか王国の人たちにバレて、幸せが崩れますよ.....」
フェリアは必死に反論しようとするが、その口から出てくる言葉はかすれていて力が入らない。彼女の瞳には涙が浮かんでいる。それを見たユージンは悲しそうな顔で首を振りつつも再度語りかける。
「……確かにそうかもしれませんね。しかし忘れてはいけません。我々には守るべき家族と将来があります。そのためには犠牲は避けられないのです。この世の摂理として、一部の人間というのは全体の幸せの為に犠牲にならなくてはいけないのです」
「……」
フェリアは混乱しながらも、何とか声を振り絞った。
「……だけど……だけど!」
これまで抑えてきた怒りの感情が爆発寸前だ。しかし一度落ち着かせ、言葉をまとめる。
「だけどやっぱり、私には納得いきません。みんなは一つの幸せを目指して歩み続けてるんですよ。それなのにそんな……家族を犠牲にして掴む幸せに意味はないんです。あなたは教祖様でいらっしゃるのに、ここで暮らす皆のことを一切信じてないんですか……?」
ユージンのフェリアに対する眼差しが一段と厳しくなる。
「いいえ、私は信じていますが」
フェリアは眉間にシワを寄せながら尋ねた。
「だったら、アルビオン教が今厳しい状況にあるのであれば、まずは私たちにその状況を正直に言って!私たちはあなたの説教を通して育ってきました。だからみんな、みんなあなたを信じて頑張ります。だから……」
フェリアが言いかけた途中でユージンが詰め寄った。
「黙れ!ガキが知ったような口を聞くな!」
ユージンは態度を一変させ、怒りのままフェリアの肩を強く掴み、ベッドに押し倒した。彼の怒りが最高潮に達した瞬間でもあった。
「ううっ……」
「お前らみたいなろくな能力を持たない信者どもの努力に、どれほどの価値があると思っている?何もできないくせに生意気を言うな!何が教義だ。説教だ!俺は気に入らないんだよ、奴隷のように働くだけの、お前らのことが。それを扇動しなくちゃならない俺自身が!」
ユージンはベッドの毛布を持ち、フェリアに覆い被さる。
「もう限界だ!あなたのような我儘な子は、生まれてきたことが間違っている!私の手で、生まれ変わらせてあげます!」
フェリアは必死にもがき逃れようとするが、ユージンの怒りは強く。毛布の中で手足をばたつかせるのが精一杯だ。まるで暗闇の中に囚われた小鳥のように感じた。
「うぅ……いや……うーーーー!」
「やめてほしいか?なら大人しく私のいうことを聞くことだな。さあ、歌え!」
フェリアは何も言わなかった。圧迫は段々強くなり、フェリアは咳き込むばかりだった。
「……」
「おい!聞こえなかったか?歌え!と言ったんだ!」
フェリアの苦しみは次第に増していった。窒息状態になりつつあった。「歌わないと死ぬぞ!」と脅す声もおぼろげに聞こえ始める。耳鳴りがするのは死が近づいているからだろうか。このまま死んで、本当に生まれ変わったほうが幸せなのかもしれない。そうフェリアは思った。だがここで死ねば、自分だけでなく仲間をも救えない。
「……あ゛……あ゛ぁ」
それだけは嫌だった。孤児院の皆がこんな目にあっていることを、ライゲルやシェナに伝えないといけない。だからこそ、諦めることは許されなかった。
「聞こえないぞ!大声で!」
「あ゛っ!」
フェリアは意識を集中させ、力を絞り出すよう手を突き出した。ユージンは突き飛ばされたことで壁にぶち当たってしまう。毛布を払って、フェリアは立ち上がる。死の淵から蘇り、今こそ自分がやらねばならない役割を見つけた。
「私は歌わない……!あなたは狂ってる……!!」
フェリアの目は燃えており、全身には勇気と決意がみなぎっていた。何とか起き上がるユージン。彼の姿はまさに獣であった。
「この……ふざけおって!!」
ユージンは一歩ずつ近づいてくる。その時、背後の扉が開き、外から誰かが入ってきた。神官二名。外から様子を心配して、聞き耳を立てていたのだろう。
「教祖様.....」
フェリアは絶望的な状況に身を置きながらも、逆にチャンスだと判断した。彼女は神官二人がこちらを捕まえにくる前に隙をついて走り出したのだ!
「逃げるんじゃない!!」
ユージンが叫んだ時にはすでに遅し。フェリアは隣の部屋へ飛び出した。耳を塞ぎ、外へと続いていそうな扉目掛けて、フェリアは走り続ける。
「あの子どうした?」
奇抜な格好をした大人たちがフェリアの存在を認識した。だが、フェリアは無我夢中で走り続け、奥の扉に手をかける。
「逃すな!」
神官が奥の部屋から出てきて、フェリアを追いかける。しかしその時、フェリアはすでに扉を開け放っていた。彼女が目にしたのは、ショックでうずくまっているライゲルの姿であった。
周囲には神官二人と主官が一人、彼の周りに立っていた。フェリアはその光景を見て一瞬立ち止まりかけたが、今は一刻の猶予もないと判断する。彼女はライゲルの手を引く。
「走って!」
フェリアとライゲルは必死に走り続ける。数名の神官が後を追う。地上へと続く階段を上りたい所だが、あそこは長い。登っているうちに追いつかれる可能性がある。
「待て!!」
追跡者が迫ってくる中、取れる選択肢はこの入り組んだ地下空間を彷徨うことだけだ。二人は転んだり壁にぶつかりそうになりながらも暗いこの空間を逃げ続けるしかない。
神官達は分かれて追ってきている上に、この地下空間を熟知しているようで、二人よりも遥かに速く進んでいる。
「先生!先生!」
フェリアは必死に彼に呼びかけ続けたが、彼は呆然としており反応しない。まるで抜け殻のように歩みを進めているだけだった。もはや自分の意志で動くことすら困難なほど疲弊しきっているようにも見えた。
そうなるのも無理はない。先程までの光景が、ライゲルにとってどれほど辛く悲惨見えたかは想像に難くない。しかし今はそんな事を言っている場合ではないのだ。必死に地下を走る最中、二人は中央聖堂の地下水路を見つける。危険な道なのだが、地上に出るにはそこしかないようだ。
「先生、逃げるよ!」
フェリアはライゲルの腕を引っ張って地下水路へ潜る。暗く湿った空間は臭くて息苦しさすら感じるが、もう手段はこれしか残されていない。
最後の力を使って、彼女は必死に泳いだ。水路を泳いで、地上へと浮上する。水面から顔を出して周囲を確認する。まだ大きな水路の中だが、近くに足場が見えた。おそらくこれは内部点検用の通路。体力の限界が近い二人は這いつくばるようにしてようやく陸地へと上がることができたのである。
奇妙な時間だった。普段の自分なら、こんな速く走ったりはできないはずだ。ライゲルと一緒に泳ぐことも難しいだろう。体がいつもと違って動いている。これがもしかすると、生命の危機による火事場の馬鹿力というものなのだろうか。
フェリアは胸に手をあてて大きく息を吸い込んだ後、小さく震える指先を見つめた。力を行使するというのは、こんなにも精神的負担がかかるものなのかと初めて実感した。
●
神官二人がユージンの元へ駆け寄ってきたのは、フェリアが水路に飛び込んだ後すぐのことだった。汗ばんだ額を拭いながら報告する神官に対し、ユージンは苛立ちを隠せない様子だった。
「申し訳ありません教祖様。我々の注意不足により……」
「謝罪の言葉など要りませんよ。フェリアは何処へ消えたのですか?戻ってきたということは捕まえたんですよね?」
神官は頭を下げつつ答える。
「いえ……彼らは水路に飛び込んで、追いつけず……」
ユージンの表情がさらに険しくなる。彼女たちを捕まえられなかった責任はどうするつもりなのだと言わんばかりに睨む。
「……それで?あなた方は度胸のある彼女と違い、その幼虫みたいな体で水に飛び込むのは怖いと考え引き返したわけですか?」
「このたびは誠に申し訳ございません」
神官はただひたすらに謝罪するしかなかった。当然のことである。自分の役目を果たせなかったたのだから当然と言えるかもしれない。そんな様子を眺めながら、ユージンは顎髭を撫でつつ舌打ちを奏でた。
「異端審問官を呼びなさい」
神官たちは怯えながらも、「承知いたしました」と頭を下げた。彼女たち二人が逃げてしまった事実は、ユージンにとって非常に大きな痛手。もし二人がこの事を外部に告げ、万が一、王国の上層部の耳に入れば……ユージンはその妄想を振り払い、神官達に指示を出した。
「彼らはどこの水路へ逃げたか、分かってますよね?」
「は、はい。マメイス川へ続く浄下水道....第2検地は過ぎていると思われますので、彼らが辿り着ける場所は……」
神官は羊皮紙でできた地図を開き、ユージンに見せる。そこには複雑に描かれたアルビオン教の領における地下水路のルートが書かれていた。主に水を水源から持ってくるための上水道。各地点で汚れた水を中央聖堂地下で浄化し川へに流す下水道。それらが蜘蛛の巣の如く複雑に交錯して描かれている。
「では第3検地から向かわせましょう。マメイス川にも人員を集めておきなさい。私はこれからお客様にご説明してきます」
ユージンはそう言って立ち上がり、隣の部屋へと向かう。信者たちの前に登壇するとき以上に緊張していた。何故なら、信者たちは自分から見れば、道具の集まり。多少粗雑に扱っても問題はないが、彼らはそうはいかない。
「まさかあの子が脱走してたとはね……」
ユージンが隣の部屋へはいると、お客様....もとい商人や貴族たちが子供達で遊ばずそろって待ち構えていた。ユージンは彼らの前で深く一礼し、説明を始めた。
「皆様、大事なお時間にお邪魔してしまい申し訳ございません。今回脱走した少女のことですが、こちら側の不手際でした。誠に遺憾に思います」
ユージンは言い訳することなく素直に頭を下げる姿勢を見せた。本来ならばそんな姿など見せたくはないであろうが、今はこれしかないのだ。彼らは影響力を強く持つ者たちであり、裕福で金持ち。逆鱗に触れた場合、即座に切られ教団が終わるだろう。ただ、彼らは特に怒るわけでもなく、ユージンを見つめている。外から見ればむしろこの状況を楽しんでいるようにも感じられる。
「……いやぁ中々度胸がある子じゃないか?そのフェリアって子。」
一人が愉快げな声を上げると、別の男も同調するように笑う。
「まぁそうだねぇ~ああいう子ってさ、躾甲斐があるというか?もっと虐めたくなっちゃうよねぇ」
「ちょっと。そんなこと語ってる場合じゃないでしょう?私たちにとって大事な問題よ!あなた達の失態で、この件が知れ渡ったらどうするつもりなの?」
刺青女の怒号で男性陣は一旦黙り込んだ。
「私たちのことが外に漏れたら.....とんでもない事になるわ。だから止めるためにも、私たちが直接あの子らを始末するべきじゃ...」
「いえ。あなた方が動いてはいけません」
ユージンはその提案に反対するように首を振った。
「今は聖誕祭が開かれている状況故、あなた方が力を貸してくれるのはありがたいことですが、動くのは非常にリスクが高い。ですので今回の件に関しては我々だけで解決いたします。どうかご安心を」
「その言葉、信用できますね?」
股間に鎖を巻いている男がユージンの前に立つ。その表情は険しく、今にもユージンに殴りかかってきそうだった。鎖で覆われた陰部を回すかのごとく腰を回し、陰部の先から垂れる鎖を回す様は、到底狂気的な印象を与えていた。
「もちろんです」
ユージンは彼らに深々と頭を下げる。しばらく鎖が回る音だけが響く時間が続いた。そして唐突に、鎖がユージンの手に巻きつけられた。
「あなたと我々は鎖でつながれたようなものです。片方が墜ちてしまえば、我々も連帯責任。忘れないでくださいよ?教祖様」
鎖男はそれだけ言うと、ユージンの右手を解放する。そのまま彼はプレイを再会し、他の客も次々と遊び始める。ユージンは解放された右手をさすりながら、一人部屋へと戻っていった。




